第116話 誰がための強さ
アンナは庭の側溝を見下ろして、深いため息を一つ吐いた。水面に揺れるスイレンの間には波紋で歪む赤い髪が映っている。
ウィレムに聞いて欲しいことがあった。だが、ヴァルナラムの部屋から出てきた彼の顔を見ると、アンナの脚は止まってしまった。声を掛けようにも唇が開かなかった。意を決して自室を出たはずだったが、いざ彼を前にすると身体が竦んだ。機会は幾度もあったが、彼女はその悉くをふいにしていた。
ウィレムと共にありたい。その気持ちを偽ることが出来なくなっていた。
カイラース山で聖仙シャーキヤに問われた言葉が頭を過ぎる。
「君は彼無しで生きていけるのかい」
それまでは考えないようにしていた。だが、正面から尋ねられ向き合わざるを得なかった。ウィレムが隣に居ない人生を堪えることが出来るだろうか。答えは否だと直ぐにわかる。口では一緒にいれないと言っておきながら、それは無理だと内なる声が叫んでいた。
カイラースの岩屋でウィレムはアンナのことを大切な人だと言ってくれた。彼に一緒に居ても良いかと尋ねれば、きっと受け入れてくれるだろう。
だが、一欠片の不安が胸中に波を立てる。剣を握ることも出来ない役立たずの自分を本当にウィレムは側に置いてくれるのだろうか。一度は彼に置いて行かれた身である。そこから強さを頼りにして彼の隣に居場所を得た。どんな形でも彼の傍らにいられるのなら構わないと思った。だが、強さを失った自分はどんな理由で彼の側に居れば良いのか。考え出すと波頭は血脈を伝って身体を震わし、身動き一つ取れなくなる。以前の自分が今の自分を見たら、意気地無しと詰るだろう。
自分の情けない水影から目を背ける。頭を上げると、中庭に舞う青年の姿が目に入った。彼が両手の木剣を振るとそこに倒された相手の陰が浮かぶ。緩やかに、それでいて力強く、青年は幻惑的に剣を振るう。彼が脚を踏み下ろすと大地は泣き、掛け声に合わせて大気が揺れた。
アンナは彼の動きに見入っていた。胸がざわめき、首筋の毛が逆立つ。
剣を握れなくとも、強者を見ると心が躍る。
彼の動きに合わせて、そこに自分の姿を映し出した。
上段を受けて、体を返す。
左を躱して懐に入る。
左側頭、右脇、喉、三箇所は攻めることが出来そうである。
喉が良い。ぶれなく真っ直ぐに腕を伸ばして、突く。
ふいに辺りの音が消えた。
血が沸き、肌が粟立つ。冷たい痺れが背骨を伝った。
アンナはその感覚を知っていた。
殺気だ。
気付いた時には半顔の青年が目の前に立っていた。
「アンナ様でしたか。誰に狙われたものかと思いましたよ」
ラジャグプタはまとっていた不穏な気配をすぐに解いた。空気が軽くなり、小鳥の鳴き声も聞こえるようになる。
「ごめんなさい。あまりに見事な技に、つい夢中になってしまいました」
「大したものではありませんよ。貴方には打ち込める隙が見えていたのでしょう」
ラジャグプタは微笑み、アンナは背中を丸めて鼻の頭を掻いた。
知らずに殺気を放っていたのは彼女の方だった。その気配がラジャグプタを殺気立てたのだ。
「本当にお強いのですね。とても片眼が見えないとは思えません」
照れ隠しの褒め言葉に、ラジャグプタは首を傾げる。
「私、変なことを言いましたか」
「いえいえ、片眼なのは強さを求めた故のことですから」
返ってきた言葉に次はアンナの頭に疑問符が浮く。
「説明が足りませんでしたね。この話をすると、皆様同じような顔をされるのです。アンナ様は、何故瞳が二つあるのか、不思議に思ったことはありませんか」
アンナは頭を振った。赤い髪が勢い良く左右に揺れる。
「世界は一つしかないのに瞳は二つ。しかも、各々が別の景色を私に見せます」
話しながらラジャグプタは人差し指を立てると、アンナの眼前に持ってきた。
「これを片方の目で見て下さい。右目と左目で違う見え方をするはずです」
言われた通りに試してみると、確かに左右で見え方が変わった。右目で見る時は両目で見る時とあまり変わらなかったが、左目でみると彼の指は右にずれた。指の左側面がより大きく見える気がする。
「世界は一つだというのに、両の目が別のものを見せる。これは片方が偽りを見せて私を騙しているということです」
ラジャグプタの優しい声に深い濁りが滲む。
「強くなるためには、偽りの瞳は不要です。なので、自ら抉りました」
変わらぬ笑顔をたたえたまま、言葉だけがぞくりと響く。
思わずアンナは瞼の上から自分の左目に手を置いた。指先で押すと微かな反発を伴って、眼球が奥に入る。さらに指を進め、眼窩に指先を滑り込ませれば、眼球がぬるりと抜けてしまいそうな手触りである。
自分にそれほどのことが出来るのか。片眼を失っても力が戻るならば、ウィレムと共にあるために同じことが出来るのか。自問したが答えは出ない。
「何故。そこまで出来るのですか」
「私が武人だから、武人でなければならないからです」
縋るような思いで尋ねると、青年は躊躇なく応えた。
答を聞いて、アンナは肩を落とす。彼の言葉は手掛かりになりそうもない。戦う血筋に生まれたから強さを求めるというのでは、彼女の生い立ちと懸け離れすぎていた。
「少し、私のことをお話しても宜しいですか」
急な申し出に困惑しながら、アンナはうなずく。どうして彼が身の上話を聞かせようとするのか、わからなかった。
「私の家は、ここ無憂城に古くから暮らす武人の家系でした。しかし、私が幼い頃、王宮で事件が起き、両親も、他の親族も、皆亡くなってしまったのです」
一度話を切り、ラジャグプタは遠くを見るような目で空を見上げた。雲が大小の塊をつくって流れている。その一つが、人の顔のような形を描いていた。
「身寄りの無い私は城下の路地裏で暮らしました。野良犬のように、不可触民に混じって生活していたのです。ただ、そこでは余所者扱いでした。ここの共同体はつながりが強いですから。他から来た者には良い顔をしないのですよ」
アンナは改めてラジャグプタを眺めた。細身の身体に、身に付けているものも飾り気がない。それでも、立派な形をしている。少なくとも路上で生活していたようには見えない。
彼女の視線に気付き、ラジャグプタは半顔ではにかんだ。
「そんな私を見つけ、世話をして下さったのが陛下なのです。まだお髭も生え揃わない、お若いの頃のお話ですが」
「どうしてラジャグプタ様が不可触民でないとわかったのでしょうか」
「それは、これのお陰です」
ラジャグプタは赤い首紐を懐から出した。ウィレムがスジャータから贈られたものと似ていたが、ぶら下がる筒の形や意匠が少し違っている。
「これを持つ者は、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャだけです。身分や家によって筒に違いがあるので、見る人が見れば、大体の生まれがわかるのですよ」
彼が首紐を振ると筒がからからと乾いた音を鳴らした。
「陛下は武人と見込んで私を拾って下さいました。ならば、私はあの方の望むまま、誰よりも武人でいなければならないのです。そう在ろうと、この王宮に入った時、自分で誓いを立てたのです」
そこまで話して言葉を切ったラジャグプタは、澄んだ瞳でアンナを見つめた。圧力も、ましてや、害意すらない真っ直ぐな眼差しに、何故だかアンナは気圧された。
「私は、あの方のために強くあろうと決めたのです。貴方は違うのですか」
嘘も誤魔化しも利かない彼の単眼が、アンナをのぞき込んでいた。