第115話 避け得ぬ反目
夏が盛りを過ぎ、暑さは落ち着きを見せるものの、風は次の雨を降らせようと湿った空気を無憂城に運んでくる。王宮を守る衛兵たちは俄雨が降る度に暑さが和らぐと喜んだ。そんな衛兵たちの間を、潤いを帯びた空気を裂いて、ウィレムは王の御座所へと脚を速める。騒々しい足音に一度は彼の方を振り向く兵士たちは、今日もまたかという風に呆れ顔を見合わせた。
勢い良く潜った扉の先には香を焚いた甘い匂いが立ち篭めている。初めて王宮を訪れた時と同じ、濃厚な伽羅の香りに、ウィレムは顔をしかめて鼻を手で覆った。
「どうした、ひどい顔だぞ」
ヴァルナラムが頬杖から頭を浮かせる。首に掛けた宝石が彼の動きに合わせてじゃらりと音を立てた。彼の前には男が跪いていたが、彼が手を振ると男は部屋を出て行った。
「また聖塔を攻めたのですね」
ウィレムは相手との距離を十分に測りながら、大きく一歩詰め寄った。
「近頃のお前はその話ばかりだな。調度、知らせが来たところだ」
ヴァルナラムは退屈そうに肩を落として嘆息した。
既に迦陵伽征討から二月が経った。その間、ヴァルナラムは各地の聖塔に軍隊を遣わし、八箇所を支配下に置いている。崩した聖塔の跡には迦陵伽で立てたものと同様の石柱碑を建て、逆らうバラモンは例外なく鏖殺した。彼に恐れを成して従属を申し出る武人も現れたが、その悉くが殺された。戦おうともせずに負けを認める者は武人に相応しくないというのが彼の考えだった。
「巷では陛下を『暴虐の王』と渾名す者もいます。ご存知ですか」
「言わせておけ。悪名もまた、高名には違いない」
どこ吹く風のヴァルナラムに対し、ウィレムはさらに一歩躙り寄る。
「クマーラが死にました」
敢えて声を低く籠もらせる。脅しというにはあまりに稚拙だが、ウィレムが他に出来ることは、上目遣いで相手を睨みつけることくらいしかない。
クマーラというのは、迦陵伽征討の折り、夜営地でウィレムに声を掛けてきた青年である。その後、王宮で顔を合わせれば、二人は話すようになった。しかし、つい先程、ガンガー川中流から帰投した軍勢のなかに、そこにいるはずの彼の姿は見つからなかった。
「あのずんぐりむっくりが死んだか。見所のある奴だったんだがな」
ヴァルナラムの反応にウィレムは驚く。彼が万を超える従僕を一人一人覚えているとは思わなかった。自分の命令で死んだ人間の名前もわからないのかと、当てつけを言うつもりだったのだ。
「彼のこと、ご存知なのですか」
「自分の手脚となる者を覚えないわけがあるまい。流石に顔も見たことのない端役まで全員というわけにはいかんがな」
ヴァルナラムの表情が微かに曇る。その顔に嘘はないように見えた。
そのことがウィレムの胸をさら掻き乱す。ならば、派兵などしなければ良かったのだ。身勝手な苛立ちと知りつつも、ウィレムは口を閉ざすことが出来なかった。
「陛下が無駄な戦いを起こさなければ、彼が命を落とすこともなかったのです」
ウィレムの言葉にヴァルナラムの様子が一変する。眉を吊り上げ、歯を剥き出し、踏み出した脚は床を軋ませ、拳を握る腕には血管が浮き出た。
「今の言葉は聞き捨てならんぞ。俺の宿願のための戦いを、無駄だと言ったな」
今にも跳び掛かりそうなヴァルナラムは、獣のように総毛立つ身体をたわめた。
迫力に圧され、退こうとする脚が縺れ、ウィレムは倒れ込んだ。逃げようとする身体に対し、心がそれを否定する。情けなく尻餅を突きながらも、頭を上げ、相手の視線に自分の視線ぶつけた。
「貴方の望みは貴方のものです。道連れにされた者の死が、何故、無駄死にでないと言い切れるのですか」
唇が震え、上下の歯がかちかちと音を鳴らす。そんなウィレムの姿にヴァルナラムは目を細めた。興奮で赤く染まった顔から血の気が引いていく。
「武人にとって、戦いにおける死は全て誉れだ。お前の言い様は友の死を貶めるものだとわからないのか」
口調に落ち着きは戻ったが瞳のなかには仄暗い闇が残る。
ヴァルナラムは段差を最下まで降りると、置いてあった剣を徐に手に取った。
白刃がウィレムの目の前に躍り出る。市でバラモンを一刀の下に斬り伏したことのある、あの剣である。
「命乞いはしないのか」
「貴方が聞き入れるとは思えません」
膝の震えを懸命に押さえ込む。何があっても頭だけは下げない。その様子を見て、ヴァルナラムの口元が上がったようだった。
剣先が動く。だがそれは、ヴァルナラムの手によるものではなかった。
部屋全体が大きな縦揺れに襲われていた。座るウィレムでも身体を保つのが厳しいほど揺れである。立っているヴァルナラムは上体を崩し、剣を床に突き立てて揺れを堪えていた。
壁の建材が粉を吹き上げ、女中たちの悲鳴が響く。ウィレムもヴァルナラムも、振動が収まるまでの間、黙ってその場を動かなかった。
しばらくして何事もなかったかのように揺れは止んだ。
「近頃、やたら揺れるな。しかも、日増しに大きくなっているぞ」
「間隔も短くなっていますね」
二人は冷や汗を吹いて顔を見合わせ、そして、地震が起きる前のことを思い出す。沈黙の後、興が削がれたと言ってヴァルナラムは剣を収めた。
部屋を出る時、後ろから呼び止められた。
「俺のやり方が気に食わないとして、お前はどうする。俺の元を離れるのか」
「わかりません。そのことも含めて考えます」
神妙な面持ちで言葉を返す。彼のやり方に賛同できないのは確かだった。
ウィレムの心の内を見透かすようにヴァルナラムが続けて叫んだ。
「俺は気に入ったものを簡単に手放す男ではないぞ」
その声を耳の奥で何度も反射させながら、ウィレムは自室へと戻った。