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第113話 威光と意地と

 土埃(つちぼこり)を巻き上げるヴァルナラムの軍勢が、聖塔(ストゥーパ)を目掛けて真っ直ぐに進む。乱れぬ歩みは大地を揺さぶり、足音は大気を震わせて四方に響いた。彼らを祝福するように、陽光が真上から降り注ぐ。

 隊列の中央に一台の戦車が先行している。手綱を握るのは身体の薄い半顔の青年で、その隣に武具と宝飾で身を固めた屈強な男が立っていた。



「ウィレム、俺はお前の提案に乗って()が中天に架かるまで待った。これ以上、時を費やすつまりはないぞ」



 砂の混じる黄色い風がウィレムの元にヴァルナラムの声を運ぶ。太く力強い響きに大業を前にした動揺は微塵もない。むしろ、普段以上に落ち着いていた。

 まだ、聖塔と軍勢の間には幾らかの距離がある。ウィレムは急いで大軍の前に飛び出した。



「どうか、もう少しだけ待って頂けませんか」

「十分に待った。そんな俺に、さらに待てというのか」



 張り上げたウィレムの声は冷淡にあしらわれた。それでも、ウィレムは腹の底から声を吐き出す。



「あと一時(いっとき)、いえ、半時でも構いません。どうか僕に時間をください」

「くどい。そこを退()かなけば、お前もバラモン共の道連れにするぞ」



 やり取りの間もヴァルナラムの進軍は止まらなかった。既にウィレムの目には、不敵に笑う彼の顔と、後ろで弓を携える兵士の姿が、はっきりと見えている。



「貴方はもう戻るべきだ」



 後ろから優しく肩を押された。シャンカラはヴァルナラムの軍を前にしてもなお、穏やかな口調を崩さない。痩せて骨の浮き出た(あばら)、川辺の葦のような細い腕、そのどれをとっても、ヴァルナラムとは比べものにならないほど貧弱である。にもかかわらず、シャンカラは彼と同等か、あるいは、それ以上の風格を備えていた。だからこそ、ウィレムは彼に死んで欲しくはなかった。



「今ならまだ間に合います。王の要求を呑んでください。僕は貴方が無残に殺されるところなんて、見たくない」



 彼の薄汚れた僧衣にしがみつき、ウィレムは哀願した。シャンカラはウィレムの頭を優しく撫でながらも、彼を自分の身体から引き離す。



「優しい人よ。貴方の気持ちは有り難いが、愚僧にも譲れぬものがある。どうしても己が意を通したいと思うなら、それに相応しい“力“を身に付けることだ」



 シャンカラに押されて、ウィレムはその場にへたり込んだ。

 彼を置き去りにして、シャンカラはヴァルナラムの戦車の方へ歩を進めた。



簒奪者(さんだつしゃ)よ。貴方がルドラ神の化身ならば、どうか荒ぶる風を静めて欲しい。貴方がアグニ神の化身ならば、どうか燃え盛る炎を隠して欲しい。ここは清閑なる地なのだから」



 シャンカラの声は決して大きくない。だが、不思議とその場に満ち、残響を伴って、全ての者の耳に届いた。



「ご高名な聖仙(リシ)自らお出迎えとは痛み入る。だが生憎(あいにく)、我ら武人、インドラ神を奉ずる者なり。なれば、力尽(ちからづ)くで(まか)り通る」



 ヴァルナラムが拳を掲げると、後方の兵士がそろって弓に矢を(つが)える。弓がしなり、弦を引き絞る音まで聞こえるが、正対するバラモンはただ(ひげ)を撫でるだけである。その背からは諦めや自己犠牲の心など全く感じられない。射れるものならば射てみろという自負のようなものさえ(にじ)んでいる。


 そして、矢が放たれることはなかった。

 万の兵士が限界まで弓を引きながら、一本として兵士の指から離れた矢は無かったのだ。ヴァルナラムが幾ら合図を出しても、兵は身体を強張らせて動かない。張り詰めた無音の世界で太陽がじりじりと照りつける。空気が乾き、呼吸さえも躊躇(ためら)われる緊張のなか、一人、又一人と、重圧に負けた兵士が番えた矢を下ろしていく。


 業を煮やしたヴァルナラムは、ラジャグプタに命じて戦車を走らせた。しかし、聖塔に近付くにつれて、彼の顔から徐々に精気が抜けていった。聖塔の前に乗り付けた時には、顔は青ざめ膝は震えていた。



「結構な手前ではないか。これが正真正銘の威光(テージャス)というものか」



 剣の柄を握るヴァルナラムの手が震えている。両の奥歯を食い縛る彼の姿は、自由の利かない自分の身体を必死に押さえつけているように見えた。



「インドラの化身にお褒め頂くとは、恐れ多いことだ」



 シャンカラが微笑むと、ヴァルナラムは片膝を折った。それでも、頭だけは下げず、目線を相手よりも下にすることはない。首には血管が浮き、汗の筋が幾本も出来る。



「今日のところは、愚僧に免じて、ここまでにしないか」



 その言葉につられたように、ヴァルナラムの手が剣から離れた。目を()き、眉間に皺を寄せて相手を睨む彼の顔は、泣き出しそうなほど歪んでいる。


 二人を見上げていたウィレムは、自分が両膝を地面に突き、低頭していることに初めて気付く。いるだけで人を(ひざまづ)かせるシャンカラの威光と、それに堪えるヴァルナラムの意地が目の前で衝突し、ウィレムの身体は自然と敬意を表していた。


 剣を離したヴァルナラムの腕は所在なく宙を漂っていたが、少しずつ、だが確実に前方へと伸びた。その先にあるのは骨と皮だけの細い首である。

 遂に、シャンカラの首にヴァルナラムの指が掛かる。あとはほんの少し力を入れるだけで、その首を容易(たやす)く折ることが出来るだろう。

 だが、その少しが難しい。相手は全く抵抗する様子がないというのに、誇り高き武人は、それ以上、指先一つ動かすことが出来なかった。



「もう()すのだ」



 それは命令ではない。だが、絶対に拒むことを許さない、そんな響きがある。

 じきに彼の手はシャンカラの首から離れ、力なくだらりと落ちる。そう思えた。


 しかし、ヴァルナラムは最後の意地を振り絞り、両手をシャンカラの肩に置いた。そのまま、掴んで力を込める。細い肩が軋みを上げた。

 苦悶の表情を浮かべ、口から(はらわた)()り出すようにヴァルナラムが吠える。



「今だ、やれ。ラジャグプタ」



 戦車の脇に控えていたラジャグプタが両手の金剛杵(ヴァジュラ)を投じる。一つはヴァルナラムの右脇を、一つは左腰を(えぐ)り、それでも勢いを失わずに目標を的確に捉えた。


 重圧が消え、解き放たれたウィレムの身体は反動で跳ね起きる。

 目の前にあったのは、血塗(ちまみ)れで仰向けに倒れたヴァルナラムと、胴に二つの穴を開けたシャンカラの姿だった。


 ラジャグプタは休むことなく、次の金剛杵を投げる。

 シャンカラの頭が爆ぜ、人の形を失っても、ラジャグプタは投げ続けた。目標を貫いた凶器は後方にそびえる聖塔に突き刺さり、壁を崩して巨大な穴を穿つ。最後の金剛杵を投げ終えたところでラジャグプタは止まった。


 聖塔が崩れ落ち、大地は鳴動する。揺れは激しく、立つことさえ(まま)ならない。

 天を(あお)ぐヴァルナラムは高笑いをどこまでも響かせる。

 ウィレムはただ(うずくま)り、上下する地面にしがみついていた。

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