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第112話 モラトリアム

挿絵(By みてみん)



 日が落ち、夕闇が訪れると山々に火が点された。万の屍でつくった死の山が輪郭をぼやかして煌々(こうこう)と輝く。



「堕落の徒でも、燃えればそれなりに美しいではないか」



 ヴァルナラムは満足気に屍山を眺める。

 ウィレムは山が視界に入らないように、背を向けている。それでも、肉の焦げる臭いは夜陰に混じって漂ってきた。鼻から入る臭いが喉の奥にこびりつき、なんとも息苦しい。


 ヴァルナラムは兵に命じて敵を徹底的に殲滅させた。抗う者には敬意を払い全力で、逃げる者には侮蔑(ぶべつ)を込めて容赦なく、パドラセーナ一人を残し、全ての敵を葬った。迦陵伽(カリンガ)王カーラヴェーラも、他の兵と同じようにどこかの山に埋もれているのだろう。

 

 アンナやオヨンコアには見せたくない光景だった。特にアンナは未だに人の死に対して過敏に反応する。屍が彼女の目に触れぬよう、ウィレムは陣立ての端に場所をとり、イージンに彼女らの様子見を任せていた。



「これが遠征の目的ですか」



 問われたヴァルナラムはくつくつと笑った。その笑みが正気なのか、狂気なのか、ウィレムにはもうわからない。



「お前は奴らの身体を見たか」

「嫌でも目に入りますから」

「だろうな。扁平な胸、細い腕。掌など乙女のように滑らかだったぞ。あれで武人(クシャトリヤ)というのだから、世も末だ」



 唇は持ち上がるが、瞳は刺すように冷たい。ウィレムは目を伏せて、彼から目線をはずした。



「戦いを忘れ、悦楽に溺れた武人の末路など惨めなものだ。このような者が平然と国を支配しているのだから、(かたわ)ら痛い」



 彼は言外に自分は違うと言いたいのだろう。両軍の兵士を目の前で比べれば一目瞭然である。ヴァルナラムの軍勢は一兵卒までが鍛え上げた体躯を持っていた。ヴァルナラム当人も鮮やかに着飾ってこそいるが、衣の下は肉の城がそびえている。一方、カーラヴェーラの軍勢はと言うと、筋はたわみ、肉は垂れ、肌つやはやたらと良い。



「何が武人から誇りを奪った。バラモン共だ。奴らは戦いに(まつりごと)にと、我らの領分を踏み荒らし、武人は勤めを忘れて遊蕩に(ふけ)る。今、正しく宿命に尽くしているのは、庶民(ヴァイシャ)隷属民(シュードラ)ばかりではないか」



 人の脂が熱で弾ける音に混じって、歯噛みの音がぎりりと響く。ウィレムは顎を伝う汗を手の甲で拭った。



「この地は長い時のなかで正しさを見失った。俺はそれが許せん。全てをあるべき所に戻すのが俺の望みよ」

「それでは、まだこんなことを繰り返すのですね」

「今日の戦いなど座興に過ぎん。明日は迦陵伽の聖塔(ストゥーパ)(おもむ)く」



 それ以上は言わないが、そこでバラモンを相手に同じ事をやる気なのだとウィレムは察した。彼の正しさを否定することは出来なかったが、それでも、人が(むご)たらしく殺される様を黙って見ていることは出来なかった。



「わかりました。僕に一つ考えがあります」



 ウィレムは顔を上げ、ヴァルナラムの瞳を一心に見つめた。空の月が地上の炎を映したように、一層明るく光っていた。


 日がヒマーラヤの端に頭をもたげると、ウィレムは荷を背負い、独り宿営地を出立した。見送る者はいない。彼が出掛けるのを知っていたのは、ヴァルナラムと見張りの兵士だけである。

 南へ一時(いっとき)ほど行くと、迦陵伽の城壁が現れる。主を失った都市は眠ったように静かだった。それを横目に見ながらさらに進むと、前方に聖塔が見えてくる。

 聖塔は地面に半円を被せたような石造りの丘だった。頂上には十字が立っている。その前に男が一人立っているのが遠目からも見て取れた。



「僕はウィレム・ファン・フランデレン。無憂(アショカ)王ヴァルナラム・バラタ様の使いとして参りました。聖仙(リシ)シャンカラ様にお目通り願いたい」



 ウィレムを迎えた初老の男は太い眉と豊かな(ひげ)を持ち、毛に白いものが幾らか混じっているが、肌にはまだ張りがあった。彼が目尻を(ほころ)ばせると、気付かぬ間に、ウィレムは膝立ちになっていた。



「貴方が来ることはわかっていたよ。愚僧がそのシャンカラだ。まずは、背に負うている我らの同輩を下ろしては如何かな」



 シャンカラの言葉に幾らか驚きはしたが、動揺までには至らない。その地の不可思議にも既に慣れた。心中を見透かされるのは良い気分ではなかったが、平静を失うほどのことではない。


 背中からアッパルの(むくろ)を丁重に下ろすと、奥から二人の僧が出てきて、それを静かに運んでいった。



「アッパル様は立派に勤めを果たそうとなされていました」

「世辞はいらないよ。鳥瞰(ちょうかん)、千里眼の類いなら、愚僧にも心得がある。全てここから見させてもらった」



 声は柔らかいが、口調に色がない。感情の乗らない音の連なりは、言葉と言うよりも楽器の演奏に近かった。シャーキヤが初め同じようなしゃべり方をしていたことが思い出された。



「彼の王の言葉を聞こうか」



 遊びの余地もなく、シャンカラはするりと本題に切り込んだ。これにはウィレムも一瞬言葉に詰まった。



「王の望みはただ一つです。バラモンが身を慎み、政から手を引いて、林へ返ること。あるべきものがあるべき所へ戻ることをお望みです」



 シャンカラは髭を撫でながらウィレムの話に耳を傾けた。だが、話が終わっても、一向に応えようとしない。気を緩めると平伏しそうになるのを(こら)えながら、ウィレムは返事を待ったが、ただ時だけが過ぎていった。太陽は既に山の頂を越えて、その全てを青空に晒している。



「ガンガー川下流域のバラモンは、皆ここで学ぶと聞いています。シャンカラ様が範を示して下されば、自ずと他の者も従いましょう」



 降り積もる粉雪がように優しくのしかかる威光(テージャス)に堪えながら、ウィレムは説得を続けた。唇と舌がからからと回り、早口の割りには言葉が滑らかに出てこない。言葉に詰まる度に何度も唾を飲み込んだ。堪らなく喉が渇き、額に浮いた汗は肌に粘り着いた。



「望みが受け入れられるなら、この地のバラモンの命は助けると約束を頂きました。何事も命には代えられません。どうか色好いご返事を」



 痺れを切らしたウィレムは、自身に課していた禁を破った。出来ることならば、力に任せて相手に意を呑ませるようなことはしたくなかった。



「それが王の本音であろう。いかにも武人らしい(おっしゃ)り様だ」



 シャンカラは声色一つ変えることはなかった。波一つたたない川面を流れるように、ウィレムの上から言葉が降る。



「志を忘れる同輩がいるのは嘆かわしい。しかし、武人とはどこまでも力に根差す者。天則(リタ)を知る我らの諫めがなければ、全てに武を布くは明らかだ」



 シャンカラが言葉を切った時、遠くから地鳴りが響いた。

 ウィレムが見上げると、太陽は調度中天に昇るところだった。



「約束の時を過ぎたようだね。貴方も早く戻ると良い」



 シャンカラは目を細め、眉尻を落とす。

 ウィレムはうなだれ、そのまま両手を地面に突いた。

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