第111話 妥当な落とし所
三者三様の顔付きが並んだ。
顎を突き出し、口の端を微かに上げたヴァルナラムが切れ長の目で相手を見下すのに対し、カーラヴェーラは目鼻を顔の中央に集め、肥えた身体をさらに丸めて爪を噛んでいる。正対する二人の王の間には柔和な表情のバラモンが座していた。
戦場の中央には両軍の主と少数の供の者だけが残った。他の兵は既に五百歩退いた後である。ヴァルナラムの供にはウィレムの他にラジャグプタとダルマナンダの二人が付き従う。カーラヴェーラの側には、護衛として彼が乗る輿の担ぎ手が四人と、厳めしい顔をしたパドラセーナが控えていた。
一体何が始まるのかと頻りに辺りを見回すウィレム。ヴァルナラムに首根っこを引かれ、半ば強引に連れてこられた彼には事態が全く呑み込めていない。場違いな青年の態度に苛立ちを覚えたのか、カーラヴェーラが鋭く睨みつけている。
柏手が鳴り、一同の視線が老バラモンに集まった。
「偉大なる二人の王者よ、あなた方の仲を取り持てること、大変光栄に思います」
「御託は良い、早く初めよ」
胡座を組んだ膝を小刻みに揺すりながら、カーラヴェーラが老バラモンを急かした。揺れる膝に合わせて腹の肉が波を打つ。
彼が豪奢な輿に乗って現れた時には、思わずウィレムも顔をしかめた。数多の宝石で着飾ってはいるが、その弛みきった醜い身体は正視に堪えるものではない。
「あの腹を見て見ろ。肥えすぎて一物が隠れているぞ」
そう言って鼻で笑ったのはヴァルナラムだった。ウィレムとしても、とても武人には、ましてや、一国の主とは思えなかった。果たして何をどれだけ食べれば、人の身体がそのように膨れるのか想像もつかない。
「それではこの場は私、アッパルが取り仕切らせて頂きます。まず、迦陵伽王カーラヴェーラ様、貴方は何を望みますか」
「儂の望みは唯一つ。そこのならず者が我が領内より一切の兵を退くことだ」
指を差し、声を荒げる相手を見て、ヴァルナラムは失笑する。その態度が余計にカーラヴェーラを苛立たせた。目を剥き、顔をはち切れそうなほどに膨らます。赤黒い顔には無数の青筋が浮いた。
鼻息荒く捲し立てようとしたカーラヴェーラをアッパルが柔らかな動きで制す。バラモンに止められては、カーラヴェーラも已むなく引き下がるしかない。隣に侍るパドラセーナに小言を言って憂さを晴らしている。
「それでは、無憂王ヴァルナラム様、貴方は何を望みますか」
促されたヴァルナラムだったが、腕を組み、口を結んで話そうとしない。
場にそぐわない静寂のなかで、時折、カーラヴェーラの舌打ちの音が殊更大きく聞こえた。
「おい、爺。俺は今、何と言うのが正しいのだ」
「このような場でくらい言葉を選べ。お前の好きにすれば良かろうよ」
正面を向いたままヴァルナラムは尋ね、ため息混じりでダルマナンダが答える。二人が視線を交えることはなかった。そのやり取りを見て、ラジャグプタが微笑する。他の者はやり取りの意味がわからず、黙って二人の様子をうかがっていた。ウィレムも同様に眉を寄せる。
「皆さん、困っておいでなのです。陛下が勝ってしまわれましたから」
ラジャグプタの耳打ちに、ウィレムはぶるりと背中を震わせた。軽やかな吐息が耳に掛かり、その声は蜜のように甘く芳しい。油断していると魂を抜かれそうな心地になる。
何度か手を開いては握り、気持ちを引き締め直した後、小声で真意を尋ねる。
「勝ってはならなかったのですか」
「活力切れまで戦い、頃合いを見てバラモンが間に入るのが慣わしです。そこで改めて話し合いを始めるのです」
ウィレムは西の空を見た。陽は中天から半分近く傾いている。
彼の言葉通りならば、話し合いは長くなるだろう。前例の無いことをしてしまったのである。そこから手探りで話しの落とし所を見出さなければならないのだ。
「時にアッパル、お前が迦陵伽の聖塔を統べる宗主なのか」
要求を出す代わりにヴァルナラムはバラモンに尋ねた。関わりのない話をするなとカーラヴェーラが噛み付いたが、やはり、アッパルがそれを止めた。
「私など、まだまだ修身の身の上。宗主シャンカラ様には遠く及びません」
その言葉を聞くと、ヴァルナラムは首を傾げて少しばかり考え込んだ。その後、すくと立ち上がりバラモンの前まで歩いて行く。躊躇いなく、真直ぐに脚を出す。
カーラヴェーラは仰け反り、パドラセーナと他の護衛が身構えたが、ラジャグプタにもダルマナンダにも動きはない。
「俺の望みだったな」
「何なりと仰せ下さい。互いの求めるところを出し合ってからが話し合いです」
見下ろすヴァルナラムに臆することなく、老バラモンは穏やかな表情を返す。
ウィレムは、ふと、ヴァルナラムの背中が妙に強張っていることに気が付いた。両の肩甲骨が寄り、上下の筋が腰に向けて締まっていく。初めは彼が緊張しているのかとも思ったが、どうやらそれも違うようである。言い知れぬ不安がどこからか湧き出し、胸底に満ちていく。
「調度、その宗主殿への土産を考えていたところだ」
ヴァルナラムの手がアッパルの首に伸び、彼を掴んで軽々と持ち上げる。老バラモンの細い指が王の手を引き離そうとするが、全くの無駄に終わった。
「なっ、なにをなさる」
「いやあ、お前の首など、土産に良さそうなのでな。一つ貰っていくぞ」
そう言うと手首を返し、花でも手折るように容易く、老人の首を捻り折った。アッパルの腕がだらりと垂れ下がり、押さえを失った体液が下衣に小さな染みをつくる。
あまりに急な出来事に、辺りは一瞬凍りつく。
悲鳴を上げたのはカーラヴェーラだった。腰を抜かし、手脚をばたつかせて無様に地を這う。見下ろすヴァルナラムの顔には嘲りすら浮かばない。
二人の王の間にパドラセーナが割って入った。
「早く陛下をお連れしろ。ここは私が喰い止める」
呆然としていた護衛を促し、カーラヴェーラを腰に乗せた。
「追いますか」
腰を軽く落として身構えたラジャグプタを、ヴァルナラムが引き留める。
「構わん、お前は今すぐ全軍に合図を出せ」
「承知しました。然らば皆様、お耳をお塞ぎ下さい。さあ、貴方も」
気が抜け、立ち上がることも忘れたウィレムは、言われるがままに耳を塞ぐ。目の前の光景が、曇ったガラスを通したように歪んで見えた。
全員が耳を閉じたことを確かめると、ラジャグプタは大きく息を吸い込む。
彼の胸が張り、背が徐々に反っていく。腹は卵のように丸く膨れあがった。
腹の張りが限界に達すると、彼は一度息を止めた。
そして、取り込んだ空気を一気に外へ吐き出す。数万の声にも勝る激しい咆哮が辺り一面の大気を震わせた。耳を塞いでいても、その声は直に身体を震わせる。何の前触れもなく瓶一杯の水を勢い良く顔に浴びせられたような衝撃だった。
残響を残して轟音が止むと、地響きとともにヴァルナラムの軍勢が現れる。
「敵の大将は未だ健在だ。首を取った者には望むままの褒美を取らせる。逃げる者も許すな。最後の一兵まで血祭りにあげろ」
ヴァルナラムの号令が、さらに兵士たちを勢い付かせた。ウィレムの横を通り過ぎ、カーラヴェーラの軍勢目掛けて突進する。
「聞こえているか、パドラセーナ。お前だけは生かしてやろう。軟弱な迦陵伽の軍にあって、お前だけが武人の務めを正しく果たしていたからな」
果敢にも迫りくる軍勢に斬って掛かり、数断ち浴びせたところで突き飛ばされた敵将を見て、ヴァルナラムは哄笑する。
彼の眼前には、戦いと呼ぶにはあまりに凄惨な光景が広がっていた。