第109話 カリンガ戦争
ヴァルナラム率いる軍勢はガンガー川に沿って三角州の扇の端を進んだ。平坦な大地の先に陽炎に揺らめく軍団が現れたのは、無憂城を出て五日後のことだった。知らせを受けたヴァルナラムは不敵な笑みを浮かべると、全軍に命じてガンガー川から離れ、南南西に進路をとらせた。
翌日の昼前、両軍は平野に対面する。
相手の軍もヴァルナラム軍と似たような編制で、既に隊伍を組んで彼らを迎え撃つ用意を調えていた。初めて目にする大規模な陣立てを前に、ウィレムは膝の震えを抑えることが出来なかった。浮き足立っていたのは彼だけではない。イージンは唇の端を捲り上げ、オヨンコアは眉間に皺を寄せて鼻先を震わせる。アンナだけがオヨンコアの陰から顔をのぞかせ、心配そうに戦場を見つめていた。
穏やかに流れていた雲はいつの間にか風に乗って走り、粒の細かい砂を巻き上げ兵士たちに吹き付ける。その風に運ばれて、敵陣から人の声が聞こえてきた。
「ここは世にも名高き迦陵伽王、カーラヴェーラ様の領地なるぞ。何故、そのようにむくつけなる軍勢を率いて、この地を侵すのか。お答え願う」
ヴァルナラムはその声を鼻で笑うと、傍に侍るラジャグプタに目配せした。彼が輿の床板を三度叩くと、王象が歩みを止め、続いて兵たちも脚を止めた。
「俺は無憂城の主、大王ヴァルナラム・バラタである。なあに、一つ、高名なる迦陵伽の聖塔詣でにでも参ろうと思ってな。どうか道を開けてくれ。そうだ、せっかくの機会、カーラヴェーラ王もご一緒にどうかな」
ヴァルナラムが口元に嘲りの色を残したまましゃべると、その声も風に押されて相手側に飛んでいく。
隊列の後方に円陣を組む一団が控えていることをウィレムは知っていた。どうやら、彼らは兵士ではないようで、陣を配して以来、頻りに呪文を唱え続けている。離れていても両陣営の声が通るのは、どうやら彼らが神に祈りを捧げ続けているためらしい。
「聖塔参拝ならば、兵士は不要であろう。そのような大軍を引き連れて、バラモンと戦でもなさる気か」
ヴァルナラムは一瞬目を大きくすると、唇の端を吊り上げた。目尻が垂れ、肩が激しく上下する。
「冗談にしては面白みに欠けるな。迦陵伽は洒落の感性が悪いと見える。そのような者が本当にいるものか。供が多いのは単なる好みの問題よ。派手好きなのでな」
笑いを堪えているのか、声が上擦り、時には跳ねる。そのままの響きで伝わっているのなら、相手も奇異に感じているに違いない。
「ならば、その兵は帰してもらおう。ここより先は我らが聖塔までご案内する」
「有り難い申し出だが、御免蒙る。我らはこのまま進ませてもらうぞ」
「なんだと」
相手方の声色が明らかに変わった。敵意が露わになり、低く重く凄みを利かせる。ヴァルナラムは肩を竦めて頭を振ったが、その瞳には狂気の色が輝いた。
「問答では埒が開かぬ。ここは武人の流儀に則り、一戦交えようではないか」
ヴァルナラムの鼻につく挑発的な口調に対し、返答はなかった。代わりに、敵陣から怒濤のような鬨の声が上がる。負けじとヴァルナラムが拳を振り上げると、味方からも地鳴りのような声が上がった。
初めに動いたのは中央前衛に置かれた戦象部隊だった。ヴァルナラムの号令に従い象使いが鞭を打つと、三百頭のゾウが一斉に敵の前衛目掛けて突進した。戦慄した大地は音を立てて震え上がり、輿の天蓋が軋んで揺れる。ウィレムは身体を強張らせて必死に輿の柵にしがみついた。
彼の身体が震えているのは、大地の揺れの所為だけではない。ゾウが駆ける様に本能が警鐘を鳴らすのだ。巨大な生き物ならば、これまでに幾らでも見てきた。馬乗りは当然嗜んでいたし、ウシが畑を耕すところを見たこともある。コンスタンティウムでは生きた獅子さえも目の当たりにした。しかし、ゾウはそのどれとも違っていた。生き物として有する熱量が圧倒的に大きい。戦場にあって、人間が彼らを止めることなど出来るとは思えなかった。
だが、悪魔的に見えた戦象部隊がその力を発揮することはなかった。
待ち受ける敵陣の上空に雲が集まり、高々と山のような積乱雲を作り出す。太陽が遮られ辺りは暗くなり、湿った空気が立ち篭めた。重たい空気と黒雲が不安を煽り、何かの予兆のように鼓動が高鳴る。
カッ、
一瞬の明滅、一拍遅れて耳を劈く轟音が天上から降り注いだ。腹の底に響く雷鳴に、皆、武器を手放して、両耳に手をやる。
雷に驚いたのは人間だけではない。敵陣に迫っていたゾウはその音に脚を止め、あるものは二本の後ろ脚で立ち上がり、又あるものはその場で地団駄を踏んだ。錯乱し、自陣に突っ込むものまでいた。
前線の混乱は天変地異の様相を呈していた。しかし、ウィレムの隣に座るヴァルナラムに動揺した様子はない。蜜を舐めるような恍惚の表情で合図を出すと、後方の円陣からそれまでと異なる賛歌が聞こえ、空気を振るわせていた雷鳴はぴたりと止む。稲光は掠れて消えた。
騒ぎが収まり、戦象が退くと、戦場は静けさを取り戻す。ウィレムは息を呑んで次の動きを待ったが、ヴァルナラムは前列の歩兵と両脇の騎兵をわずかに前進させるにとどめた。
静寂を破ったのは、弦を爪弾く低い音色と空気を裂いて飛ぶ雨矢だった。
ゾウとは違い、弓矢ならばウィレムも知っている。実際に弓を使って何度も狩りしたことがあった。だが、敵の放つ矢は彼の知る緩やかな放物線を描かない。敵陣真上に打ち上がると、天を突くかと思うほどに昇り、直下、ヴァルナラムの軍勢に襲いかかる。盾を構える時間もない。
鉄の驟雨に打たれ、兵士たちが貫かれようかという刹那、突如として強風が吹いた。風は矢を全て巻き上げ、周囲に撒き散らす。勢いを失った矢は鳥の羽が舞うように、ふわりふわりと辺りに散らばった。ヴァルナラムの兵は全くの無傷だった。
壮絶な攻撃に対し、両軍ともに被害は無いに等しい。異常に思える戦場にあって、ヴァルナラムは落ち着き払っている。驚き慌てるのはウィレムたちだけだった。
飛び道具の攻防が終わると、いよいよ歩兵同士の正面衝突となった。
号令一声、気勢を上げながら両軍が戦場の中央へと雪崩れ込む。
小領主同士の小競り合いではない。万を超える大軍同士の衝突である。ウィレムは手を握り締め、息を呑んで戦況をうかがった。エトリリアでもそうそうお目に掛かれるものではない。
しばらくの間、目を凝らして入り乱れる戦場を見ていると、ウィレムはおかしなことに気が付いた。
両軍の兵士は確かに敵に向かって前進している。だが、最前線では衝突が起きた様子はない。両軍の間に透明な壁があり、兵士たちはその壁を互いに押し合っているように見える。
「あれは、なにがおきているのですか」
押せ、押せと怒声を響かせていたヴァルナラムは、ウィレムの問に答える代わりに、先程敵が射掛けた矢を投げて寄越した。
「そろそろ座興も終わりにするか」
そう言うと、彼は象使いに命じて輿を乗せたゾウを前進させる。その顔には薄ら笑いが浮き、視線はぶれずに戦場の一点をにらんでいる。
彼の顔から目を離し、ウィレムが受け取った矢を見ると、矢羽根は大小が揃っておらず、沓巻は緩んでいた。その先の鏃には赤茶けた錆が付く始末で、とても戦いで使える代物ではない。ウィレムは首を捻り、もう一度、戦場に目をやったが、ゾウの向かう前線では、両軍の兵士が相変わらず押し合いに興じていた。