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第108話 絶望の足音

挿絵(By みてみん)



 慌ただしい足音がウィレムの昼寝を妨げた。未だ微睡(まどろ)みに意識を半分浸しながら、上体を起こしたウィレムは振り返る。窓から差し込む光帯は角度を変え、日陰に入っていたはずの彼の身体を照らしていた。

 自分の後ろに窓しかないことを確認し、耳に入る喧噪が現実の音だとわかると、彼は細い息を吐いた。


 ひどく気味の悪い夢を見た。

 常に誰かに見られているように感じるのだ。

 だが、振り向いても人影はない。気配だけがぼんやりと彼の周りを漂っていた。

 走って逃げるとその気配は追ってきた。

 脚を止めずに(かえり)みたが、やはり、誰もいなかった。

 恐ろしくなり、精一杯走ると、気配と足音だけがどこまでも追ってくる。

 駆けに駆け、息も絶え絶えに頭を上げたところで目が覚めた。


 冷や汗か、それとも、ただ熱いだけなのか、背中はぐしょりと濡れており、ヴァルナラムから譲り受けた綿の服が汗を吸って肩にのし掛かる。敷物にも大きな染みが出来ていた。


 夢の元凶を確かめようと、ウィレムは窓の外をのぞく。

 青白い顔をした老人が奉公人たちに気忙(きぜわ)しく指示を出していた。顔は長年使い古した皮革のようにひび割れ、しわがれ声を出す度に垂れ下がった喉の皮が揺れる。彼の命令に従って、奉公人たちが右へ左へと走り回っていた。



「精が出ますね。ダルマナンダ殿」



 ウィレムのあいさつにカウティリヤ・ダルマナンダは眉を上げ、彼が身を乗り出している窓に目をやった。だが、ウィレムを一瞥(いちべつ)すると何も言わずに元の作業に戻ってしまう。気を悪くしたウィレムは、さらに二度三度と老人を呼び続けた。



「私は忙しい。お客人の相手をしている暇はないのだがね」



 如何(いか)にも鬱陶(うっとう)しそうに老人は振り返る。額を割る皺が、より長く、深くなった。

 内心で自分の大人気ない態度を反省しつつも、愛想の欠片もない老人の言葉に、ウィレムは顔を強張らせる。良くないと思いながら、続けて老人に話しかけた。



「ごめんなさい。そんなに急いで何の準備をしているのか気になりまして」

「出征の準備だ。王が急に決めてな。彼奴(あやつ)め、一度言い出すと聞かないのだよ」



 老人の言葉にどきりとして、ウィレムは辺りを見回し、誰も二人のやり取りを聞いていないことを確かめた。



「王に対して、そのような言葉遣いはまずいのではありませんか」

「ふん、奴をここまでにしてやったのは私だ。子どもの時分は頬を張ってやったこともある。今更取り(つくろ)うような間柄では――、こら、その荷物は後ろの車に積めと言っただろう」



 鼻息荒い老人に気後れし、彼が奉公人を叱りつけている隙にウィレムは窓際を離れようとした。その背に老人は言葉を浴びせる。



「奴が遠征などと言い出したのは、貴公の話が元凶なのだぞ」



 ウィレムは耳を塞ぎ再び横になったが、外の喧噪で眠ることは出来なかった。


 ダルマナンダの言葉通り、ヴァルナラムは翌日の昼には出立した。ウィレムたちは彼と同じ輿(こし)に乗せられ、同行することになった。

 無憂城(アショカプラ)正門前から地平の果てまで歩兵の隊列が続き、騎兵と戦車、物資を積んだ馬車と荷駄、そして、戦象の部隊がそこに加わる。ヴァルナラムの輿を乗せた一際巨大なゾウは列の中央を悠然と進んだ。



「どうだ、ウィレム。壮観だろう。俺の覇業を担うに相応しい軍勢だ」



 いつにも増して機嫌が良いヴァルナラムは、満足気に行軍を見下ろす。出発前に城内を行進した時には、人集(ひとだか)りから彼らを讃える声が盛んに上がり、兵たちも沿道に手を振って応えていたが、既にその時の緩みは消えている。一糸乱れず愚直に進み続ける彼の軍は、それ自体が一つの生き物のようだった。

 軍勢はガンガー川に沿って下流に東進し、川が南流する地点から南下した。


 無憂城を立って数日後の晩、ウィレムは若い兵士に声を掛けられた。野営地の一角、騎兵の馬を宿らせている場所である。暇に任せて夜の散歩をしている時のことだった。



「あんた、陛下のお客人の、え~と、そうだ、ウィレム様じゃないですか」



 急に呼び止められ、驚いて声のした方を見ると、知らない青年が松明の火を瞳に映して立っていた。



「やっぱりそうだ。一度、お話ししたかったんですよ」



 背は低いが幅のある身体を揺すって青年は寄ってくる。ウィレムは半歩後退(あとずさ)った。



「初めて話しますよね」

「もちろんです。ですが、俺は前からあんたを知ってましたよ。いやあ、クリシュナ様との一戦、見ていて手に汗握りました」

「大したことは出来ませんでしたけど」



 身を乗り出すような青年をウィレムはやんわりと制する。そうでもしなければ、彼の息が顔に掛かりそうなほど距離がない。



「ご謙遜(けんそん)を。将軍たちのなかにも、あれほど果敢に向かっていける方はそうはいませんよ。いや、本当に大したお方だ」



 青年は話しながらウィレムの肩をばしばしと叩く。ヴァルナラムに散々叩かれてはいたが、力加減を知らない平手打ちに、苦笑いが浮かんだ。



「将軍方が恐れるほど、ラジャグプタ殿はお強いのですか」



 全く歯が立たなかったことを棚に上げ、ウィレムは尋ねた。実際に手合わせしても、実力の底がわからなかったのだ。果たして歴戦の将軍たちが恐れるほど強いのか、彼の本当の実力に興味はあった。



「強いも何も、あの方の力は計り知れませんよ。噂では、生まれてこの方負けたことがないだとか、万の敵を一人で皆殺しにしたとか、インドラ神の金剛杵(ヴァジュラ)を指先一つで受け止めたなんて話もあるくらいです。陛下が(そば)に置きたがるのもうなずけますよ」



 あまりに大仰な話しに、ウィレムは反応に困り、不自然な作り笑いで誤魔化す。人間離れが過ぎて心から信じることは出来なかった。そのような相手だと知っていたなら、戦う前に腰が引けてしまっただろう。


 青年は興奮を抑えることもなく、ウィレムとラジャグプタの戦いを話しては、「強い、強い」と手放しで讃えた。あまりに彼がしつこく繰り返すため、



「それほどに、『強い』とは素晴らしいものですか」



 と、ウィレムは尋ねた。

 青年は唖然として口を開けていたが、我に返ると、自分の盛り上がった胸を力強く叩いてこう言った。



「我ら武人(クシャトリヤ)なれば、強さこそ至上の命題。どこまでも強さを求めればこそ、強者を心から讃えるのです」



 なに恥じることもなく胸を張る彼の姿に、思わずウィレムは手を打った。

 彼が褒めるのならば、自分もそれほど捨てたものではないように思えた。

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