第107話 活力と犠牲祭
「もう一度君に会えるなんて、思ってなかったよ」
「シャクティは、また会えるって思ってたよ」
ウィレムとシャクティは再会を祝して手を握り合った。彼女の無邪気な笑顔に釣られ、強張っていたウィレムの表情も自然と緩む。
ウィレムは背中越しにのぞいているアンナに気付き、背を押してあいさつするよう促した。俯きながら上目遣いでちらちらと目線を送るアンナに対し、シャクティは「可愛い」と抱き付き、身体中を撫でまわした。狼狽え、しどろもどろになる彼女の様子は確かに可愛らしい。
「今日は宙を浮いていないのですね」
雑踏を歩きながら、アンナが尋ねる。飛べれば楽なのにとウィレムが続けた。
「ここは活力が薄いから。それに混ぜ物が多くて嫌なの」
「前から気になっていたんだけど、その『テージャス』って、なんなんだい」
ウィレムの問に、シャクティは驚いたように大きな目をぱちぱちと瞬かせ、知らなかったのかと聞き返した。ウィレムはうなずいて頭を掻く。
「あのね、人の身体からは生きる力が湧き出てるの。それが『活力』。長いこと苦行を我慢すると、活力がいっぱい出るようになるんだって。偉いお坊さまは身体の外まで活力が溢れて、周りの人にも威光を感じられるくらいになるのよ」
モハンムーラに感じた畏怖の念は、それが理由かとウィレムは納得した。気の良い老人に自然と畏まってしまったことも、その説明ならばうなずける。
「なんで活力が薄いと飛べないんだい」
「神様の力を借りるには活力がないといけないの。こんなに活力が薄いなんて、ここのお坊さまたちは修行を怠けてるのね」
頬を膨らますシャクティの言葉に、商人に難癖をつけていたバラモンのことを思い出した。彼は身を慎んでいるようには見えなかった。少なくとも、モハンムーラと同じバラモンとは到底思えない。
思い返すと、無憂城のなかで神の力を借りている者をほとんど見掛けない。それまでに訪れた農村では、火起こし一つとっても神の力を借りていた。
「それなのに、あんなに威張り散らしているのかい。許せないな」
街のバラモンたちに対する怒りが腹の底に溜まっていく。ウィレムの考える僧職とは、清貧と純潔を旨とし、神への服従を誓うものである。修道院ではそのように学んだし、ウィレムの目にはアルベールの生き方はそのように映った。
「お坊さまが犠牲祭をすれば、活力が増えるから。皆、神様の力に見放されたくはないんだよ」
“犠牲祭”という言葉がウィレムの耳に引っ掛かった。祭壇に捧げられたモハンムーラの姿が瞼の裏に蘇る。どれだけ時を経ても、思い出す度に新鮮な不快感を催す。胸のなかに薄い吐き気が広がり、無意識に手を口に当てていた。
ウィレムの記憶が正しければ、モハンムーラも活力が薄くなったと言っていたはずである。彼は薄れた活力を増やすために、自らを儀式の供物に捧げたのか、そんな考えが頭の隅を過った。一度浮かんだ疑いを振り払うことは難しく、確かめずにはいられなかった。
「その犠牲祭っていうのは、何を供物にするんだい」
恐る恐るシャクティに尋ねる。唇が震え、声が揺らいだ。
「ウィレムはさっきから質問ばっかり」
「ごめん、気が回らなくて」
シャクティは口を尖らせ、ウィレムは頭を下げる。直ぐに彼女は笑顔に戻り、
「教えてあげるけど、後でシャクティのお願いも聞いてよね」
と、念を押した。
彼女が言うには、バラモンは馬や豚を供物として神に捧げることで一時的に大気中の活力を増やすことが出来るらしい。牛は供物にしないのかと尋ねると、あんなに可愛い子たちを殺すのかとシャクティは本気で怒った。
本来バラモンは森や林、幽山に身を置き、都市部にはほとんど住んでいなかった。しかし、都市の人々が神の力に縋ろうと聖塔を建てると、塔の管理を名目に俗世で暮らすバラモンが増え、彼らは次第に聖職としての修行よりも、世俗での権力は志向するようになっていったという。
元々活力が薄い都市では、神の力を借りるためにバラモンの儀式が必要不可欠となる。武人でさえ、バラモンには従わざるを得ない。彼らが絶大な影響力を有するのは必然だった。
「本当はこんなことのための儀式じゃなかったのに……」
「本当は?」
彼女の言葉をアンナがなぞる。また質問かとシャクティは眉をハの字に曲げた。そうして慌てるアンナを見て、けらけらと笑う。おちょくられたと知ると、次はアンナの表情が渋くなった。
「そんな顔、アンナには似合わないよ。せっかく可愛いのに」
「僕はどんな表情でも魅力的だと思うけど」
ウィレムの言葉に、彼女は顔を真っ赤に染め、俯いて黙り込む。取り繕うウィレムを見て、やはり、シャクティは笑った。
「ウィレムも本当の儀式のこと知りたいの」
彼女の言葉に不吉な響きを感じ、ウィレムは少し考えてから首を横に振った。
「そうよね、ウィレムたちは実際に本物を見てるものね」
「僕らが見てる?」
「そうよ。本当の儀式では、いっぱい修行したバラモンが自らを神様に捧げて、蓄えた活力を世界中に振り撒くの。原人解体って言えばわかるでしょ」
一度は治まった吐き気がぶり返す。朝食べたものが胸のなかで渦を巻いているようだった。一度背中を丸め、胸を擦りながら気持ちを落ち着かせた。
「やっぱり知ってたんだ」
予想が当たったと、シャクティはその場で繰り返しと飛び跳ねた。
「何がそんなに嬉しいんだい。人の生き死にを話しているのに」
ウィレムは顔を歪め、声にも怒りがにじむ。胸の酸が喉まで昇って来ていた。
「何でそんなに怒っているの。苦行で威光を高めて、最期は自分を身体ごと世界に溶かすのよ。バラモンにとっては一番名誉なことなのに」
首を傾げるシャクティに、ウィレムは絶望した。考え方の溝は埋めがたく、彼女の感覚が理解できなかった。
「そんな風にして死んで、どうなるっていうんだ。そんなの、他人が神様の力を借りる為の、単なる人身御供じゃないか」
「誰かを思って務めを果たすって、素敵だと思うよ。アンナもそう思わない」
急に話を振られ、アンナは取り乱す。話そうとして何度か口を開けては閉じを繰り返した後、やっとの思いで言葉を吐き出した。
「他の人のことはわからないけれど、自分の大切な人には生きていてほしいな」
ウィレムは視界が開け、胸がすく思いがした。彼女の言葉は必ずしも彼の考えを全て肯定するものではなかったが、それでも怒りを塗りつぶすには十分だった。
シャクティはしばらくアンナのことをじっと見つめていたが、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
「そうね。一人で置いていかれるのは寂しいものね」
そう言うと、くるりと身体を翻す。
「今日は帰るわ。何だかウィレムが怖いしね。また、会いましょう」
しゃべりながら彼女は往来のなかに消え、瞬く間に見えなくなった。