第106話 二人でお出掛け
無憂城の王宮に入って数日経ち、ウィレムは時を持て余していた。ヴァルナラムの客として王宮で暮らしているが、仕事といえば、偶に呼び出されて彼の話し相手になることくらいである。旅に出て以来、久方振りに弓馬の稽古に時を使うことが出来たが、それでも一日中というわけにはいかない。
与えられた客室で無為に時を過ごす彼を見兼ねて、オヨンコアが外出を勧めた。
「そうしようかな。オヨンコアも来るだろう」
「ワタシはまだお仕事が残っていますので。悪しからず」
寝具をきれいに整えながら、素っ気ない答を返す。彼女はヴァルナラムに頼んで女中の仕事を幾らか回してもらっていた。手持ち無沙汰でいると気が滅入るということらしい。
「それじゃあ、イージンは……」
「あの男なら、性懲りもなく王宮のあちこちで何やら嗅ぎ回っていますよ」
オヨンコアは相変わらずイージンに手厳しい。言葉の端々に棘が生える。
ウィレムとて、彼を信用しきったわけではないが、タルタロスまで連れて行くという言葉だけは、信じて良いと思えた。
「でも、そうなると……」
「はい、アンナと二人でお出掛けください」
部屋の端で繕い物をしているアンナを一瞥して、オヨンコアはわざとらしく微笑した。
その日も街は人で賑わっていた。忙しなく行き交う人、荷駄を山積みにした馬を引く行商人、工房からは職人たちのどら声が飛ぶ。脚を折ってのんびりとくつろいでいるのは、路傍の牛たちだけである。
「さて、どこへ行こうか」
「ウィレムさまのお気に召すままに。私は付いていきますから」
二人になるとアンナは決まって下を向く。彼女がオヨンコアと話す時に表情を和らげるところを見ると、ウィレムは胸が締め付けられた。自分の存在が彼女にとって重荷となっているのではないかと考えてしまう。
だが、彼女はその日の誘いを受けた。一緒にいれないと泣くこともなくなった。彼女も少しずつ前に進もうとしているのだと思うことにした。
「少し早いけれど、お昼にしようか」
ウィレムはアンナの手を取り、人混みを裂いて進んだ。彼女は初め驚いて身をびくつかせ、その手を振り払おうとしたが、じきに彼を受け入れた。
「覚えているかい。セサロニカでもこうやって手をつないで散策したよね」
「そう、でしたね」
弱々しくとも答えは返ってくる。ウィレムは彼女から離れぬよう、その手を強く握り直した。
「この街も面白そうな所がいっぱいある。後で一緒に回ろう。きっと楽しいよ」
彼女の目元がわずかに綻んだように見えた。それだけで、ウィレムの胸は一遍に華やぐのだ。
「オヨンにも、お土産を買いたい、です」
「もちろんだよ。一緒に探そう」
胸は膨らみ、髪が逆立つ。彼女が願い事を言うのは随分と久しいことに思えた。
洋々とした気分でウィレムは食事処の扉を潜った。入って直ぐの土間に数人の男たちが座し、思い思いにカリーを食べている。彼らは入口に立つウィレムを見て、怪訝そうに顔をしかめた。
煤まみれの男たちを気に留めず、ウィレムは厨房をのぞき込んだ。なかでは小太りな男性が一人、竈の火を所在無さ気に見つめていた。
「食べるものを出してくれないか、二人分だ」
男はウィレムの声に応えずに、薪を一本、火にくべた。
「済まない。二人分の食事を頼む」
聞こえないのかと思い、二度目はより声を張った。
ようやくウィレムの方に顔を向けた男は、口を真一文字に結び、眉を寄せて、他の男たちと同じ表情をつくる。返事はせず、立ち上がる素振りも見せない。
男の態度を不審に思いつつ、穏やかな口調で再度尋ねる。
「ここは食べ物を出してくれる店だろう。お代はちゃんと払うから、二皿頼むよ」
男は面倒そうに頭を掻くと、重い腰を上げて奥から出てきた。
「冷やかしのつもりなら余所へ行ってくれませんかね」
「冷やかしなものか。ちゃんとお金もあるんだ」
ウィレムは懐から銀貨を取り出して男に見せた。ヴァルナラムから渡されていたものである。しかし、男は銀貨に目も呉れず、恨めしげにウィレムをにらんだ。
「その肌の色、あんた、バラモン様なのでしょう。どうして、こんな所で飯にしようなんて考えたんです」
「だって、ここは食堂だろう」
「ここは陶工が飯を食う所ですよ。あんたらの来るような所じゃない」
男は吐き捨てると、厨房の奥へと戻って行った。背筋に冷たいものを感じ振り返ると、食事をしていた男たちが一斉にウィレムを見つめていた。淀み、濁った妬みの目。危害を加えることはないが、視線は油のようにまとわりついた。
「止めてくれ、見ないでくれ」
気圧されたウィレムが堪らず大声を上げる。アンナが彼の肩に寄り添った。
突然、細やかな指に腕を引かれ、ウィレムは数歩後退る。訳のわからないまま建物の外まで引き出された。彼の後を小走りのアンナが追う。
大通りまで来ると、小さな手はウィレムをやっと解放した。
「もう、ダメだよ。あんな所に入ったら。皆、どうしていいか困ってたでしょう」
開口一番、軽やかな口調で彼を咎める。聞き覚えのある、美しい声だった。
しなやかな身体に、豊かに波打つ夜色の髪。鮮やかな薄衣に身を包んだ女性は、言葉に反して嬉しそうに白い歯をのぞかせる。日に焼けた肌は杏色に輝いていた。
「久し振り、シャクティのこと、忘れてないよね?」
顔をのぞき込むようにして尋ねる彼女に、ウィレムは何度もうなずいた。