第105話 鳥瞰と単眼
王宮の中庭には人集りが出来た。
筋骨隆々な男ばかり数十人、分厚い肉体を押し合わせている。真上から照りつける夏の太陽と相まって、周囲の大気を余計に暖めていた。
中庭の中央からウィレムは屈強な観衆を横目に眺めた。想像よりも、ウィレムとラジャグプタの一戦は王宮内の興味を集めたようである。王の賓客と近侍の手合わせを見ようと、非番の兵全てが中庭に集まっていた。
急遽組まれた櫓の上にはヴァルナラムが座している。アンナたちも彼の脇に席を設けられ、ウィレムを見下ろしていた。心配そうに見つめるアンナに向けてウィレムが軽く手を振ると、気付いた彼女は控えめに手を振り返した。
少し前のこと、ウィレムが手合わせのために着替えをしていると、オヨンコアに連れられて、アンナが訪ねてきた。
「先程はありがとうございました。私のために怒ってくれて」
彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。その様がいじらしく、情けなくも思えた。
「お礼を言われるほどのことじゃないよ。近頃は軽はずみが過ぎていけないな」
「どうか無茶だけはなさらないでください。駄目だと思ったら、直ぐに剣を捨ててくださいね」
少々気に障る言い回しではあったが、彼女が身を案じていることは理解できた。
後ろに回ったオヨンコアが胴当てを着るのを手伝う。いつも通りに手際が良い。
「あの子を安心させたかったら、少しは良い所を見せてあげるんですよ」
耳元でオヨンコアが囁く。言われるまでもなく、ウィレムの心は昂ぶっていた。奮い立つには、十分すぎる理由が出来たのだから。
一度、辺りを見回す。
中庭は剥き出しの地面があるだけで、そこにはおよそ庭園と呼べるような趣はない。練兵場と呼んだ方が似合っている。うるおいがあるとすれば、周縁の溝に自生する薄紅色のハスの華くらいである。
次に、向かい合う相手に視線を送る。
革の具足に身を包み、両手に短い木剣を握っているが、まだどのような構えもとっていない。腕の長さから推し量るに、間合いは相当広そうである。前髪で半分隠れた顔には穏やかな表情が浮き、至って落ち着いた様子に見えた。
「始めろ」
台の上からヴァルナラムの声が飛んだ。
ウィレムは右手の木剣をやや斜に構えた。ラジャグプタは腕をだらりと下げたまま、構えをとろうともしなかった。
「お好きなように打ち込んできて下さい」
彼の声はどこまでも澄んでいたが、その瞳は瞬き一つせず、ウィレムを見据えている。敵意はないが油断もない。彼にとってこの戦いは文字通り手合わせ程度の意味しかのだろう。或いは、主人に命じられるまま、その場に立っているに過ぎないのかも知れない。
ウィレムは慎重に距離を詰めた。その間も、ラジャグプタに動きはない。
「どうした。市場での思い切りの良さを見せてみろ」
静まりかえる中庭にヴァルナラムの野次が飛ぶ。日傘の下、団扇の風を受けて、一人歓楽気分なのだろうが、その言葉に付き合う謂われはなかった。
じりじりと進むウィレムの剣先が相手の間合いに入る。
ラジャグプタは動かない。
さらに半歩前に出る。
それでも身動き一つなかった。
本当に先に仕掛けるつもりはないのだろうか。そんなことを考えた。その間ですら、彼が隙を突いてウィレムを攻めることはなかった。
既にウィレムの剣も相手を射程に捉えている。後ろ足を少し蹴るだけで、切っ先が相手の胸元に届く所まで来た。最早退くことが出来ないほどに、相手の懐深くに入り込んでいる。
息苦しさに耐えかね、思い切り突いた。喉元の手前で止めるつもりだった。
力み過ぎたと直ぐに気付く。既に剣を止めることは出来ない。
切っ先が無防備なラジャグプタの喉に真っ直ぐ飛び込む。
だが、喉骨を潰す生ぬるい感触が掌に伝わることはなかった。
空を刺した剣先、安堵と同時に首筋を冷たい痺れが走る。
反射で身体が跳び退こうとする。
外は拙い。思った時には膝は伸びきっていた。
急いで全身の力を抜く。
ぎりぎりで親指の踏切には間に合った。
倒れ込むように身を投げたウィレムの目の前を、木製の刃が通り抜ける。
想像以上に間合いが広い。
倒れても無暗には起き上がらない。
地を転がり、追撃を躱す。
打ち付ける二本の剣と、そして、足。
起き上がる隙はない。
ならばと、転がりざまに相手の軸足を薙ぎにいく。
難なく避けられたが、考えの内だった。
その間に退きざま膝を突き、距離を確かめてから立ち上がった。
短く息を吐く。見据えるラジャグプタは呼吸の乱れ一つない。
ウィレムは浮ついた気持ちで戦いに臨んだ自分を恥じた。事前にヴァルナラムが彼は強いと言っていた。それなのに、アンナに良い格好を見せようなどと、油断も甚だしい。イージンが言ったように、調子に乗っていたのだ。
反省をした。力の差も悟った。次にすべきは如何に勝つかを探ることである。
距離を見定めながら考える。
相手の間合いは長い。そして、懐も深い。
その懐に潜り込めれば、相手は自由に戦えない。長い腕が邪魔になる。
やることは決まった。問題は出来るか、である。
ウィレムの口元がわずかに上がる。
出来るかどうかなど、自分にとっては判断の基準たり得ないのではなかったのかと自嘲する。ならば、考えるまでもない。いつも通りに踏み出せば良いのである。
既に相手の間合いに入っている。
右から一撃。剣で受ける。
左からも来た。頭を下げてやり過ごす。
頭上を過ぎる斬撃はほぼ真後ろから飛んできた。
激しい攻撃が続く。相手の懐に入ろうにも、躱すことで精一杯だった。
避け続けるなかで、ある違和感に気付く。
ラジャグプタの攻撃はウィレムの目には見えていない。だがそれは、アンナの剣とは明らかに違った。目で追えないのではなく、瞳に映らないという感覚である。
奇妙な点はもう一つあった。
捉えられないはずの相手の攻撃に、ウィレムは対応しきっていた。
瞳に映るはずのない刃が視界のなかに映り込むのだ。
両目が捉える視界の上に、別の視界が重なっている。
その視界はウィレムの頭上から眼下を見下ろすように広がっていた。
自分がもう一人いて、鳥になって俯瞰している。
二重の視界は動きに合わせて目まぐるしく移る。
船や早馬に酔った時と同様の頭痛と吐き気が込み上げる。
だが、お陰で死角からの攻撃にも対応できるのだ。
一進一退の攻防が続き、戦いは膠着した。
ウィレムはラジャグプタの攻撃を避け続けるが、攻めに転じることが出来ない。
ラジャグプタの顔には余裕が浮いているが、攻め手を変えることはなかった。
酔いと疲労が集中を鈍らせる。そう長くは持ちそうにない。
出し惜しみしている余裕はなかった。
一瞬、左に目をやる。何かあるわけではない。相手の意識を引ければ良いのだ。
同時に、身体を沈めて右からの剣を捌き、相手の腕の陰に入った。それまで散々やられてきた死角からの攻撃を、次はウィレムがやり返す番になった。
ラジャグプタの死角、前髪で隠れた顔の左側に回り込んだ。彼はウィレムの姿を見失っているはずである。
相手は格上、卑怯などと言って手段を選んでいる余裕はない。
ウィレムの剣がラジャグプタの首に向かって切り上がる。
勝ちを確信した刹那、籠手をはめた手の甲に鋭い痛みが走った。
一拍遅れて腹への鈍痛。
気が付くと地面に尻餅を突いていた。
「惜しかったですね。ですが、其方から攻められるのは慣れっこなんです」
奇形の青年は爽やかに微笑む。その時、風が吹き、彼の前髪を巻き上げた。
しゃがみ込んだウィレムの目には、はっきりと見えた。隠れていた顔の左側に真っ暗な穴が開いているのを。
ラジャグプタの空の眼窩が呆然とするウィレムを見下ろしていた。