第104話 笑う大王
ウィレムは無憂王ヴァルナラムの人柄に面食らっていた。彼はそれまでに出会ったどの君主とも違う。仕草が大仰で、口調は砕けており、お世辞にも上品とは言えない。それでいて、威風堂々たる様は間違いなく人の上に立つ人物のものだった。
「それにしても、昨日のお前の勇姿はなかなかに痛快だったぞ」
ヴァルナラムは身振り手振りを交えて、ウィレムがバラモンを抑えた状況を再現している。彼があまりに持ち上げるので、ウィレムは恐縮しきりだった。結局揉め事を解決したのは彼なのだから、褒められれば褒められるほど、居た堪れない。
腹のむず痒さに耐えながら、ウィレムはとある疑問を思い出した。
「何故、周りの人たちは彼の横暴を黙って見ていたのでしょう」
「それよ。あのような不当な行い、許されるものではない」
怒りを顕わにするヴァルナラムに、だからといっていきなり斬り殺すのはやり過ぎではないかとウィレムは思ったが、口には出さなかった。
王の怒りは相当に根が深いようで、しばらく不満を吐き続けた。
「奴らは自らの身分を取り違えている。バラモンとは神に仕える者、神の声を聞く者だ。それが近頃はどうだ。何を思い上がったか政にまで口を出し、世上を我が物顔でのさばっている。あのような振る舞いを許す周りの者共にも怒りが湧くわ」
端正な顔が歪み、口からしきりに唾が飛ぶ。その表情はわんぱくな子どものようでもあり、怒れる鬼の形相のようでもあった。一人の男に親しさと厳めしさが分け難く同居している。
「俗世を治めるのは我らクシャトリヤの仕事だ。奴らは分を弁え、庵か寺院にでも籠もって、瞑想に耽っていれば良いのだ」
熱を増す弁舌は止まる所を知らない。ウィレムは徐々に相づちを減らし、顔に苦笑いを貼り付けたまま、敷物に刺繍された卍模様を数えていた。
「どうした。俺の話が長くて、退屈したか」
ウィレムが卍を183数えたところで声が掛かった。頭を上げると、ヴァルナラムの顔がすぐ目の前にあった。驚きのあまり、二、三歩退く。大声を出しそうになるウィレムの口に、両隣からオヨンコアとイージンが手を伸ばした。
「俺の話の最中に上の空とは、やはりお前は肝が据わっているな」
ヴァルナラムは笑っている。
慌てて頭を下げ、必死に詫びた。その様子を見て、彼はさらに笑った。
「お前は面白い男だ。大胆かと思いきや、小心なところを見せる。これほど笑ったのは久し振りだ。俺を楽しませた褒美をやろう。好きな願いを言ってみろ」
切れ長の瞳に浮いた涙を拭いながら、ヴァルナラムはウィレムの顔をのぞく。
「でしたら、僕らをこの王宮に置いていただけませんか」
「そんなことで良いのか。金も玉も欲しいだけくれてやるというのに」
それを聞いて身を乗り出そうとするイージンを片手で制しつつ、ウィレムはカイラース山で聖仙シャーキヤから授かった言葉をヴァルナラムに伝えた。
腕を組み、ウィレムの言葉を黙って聞いていた彼は、話が終わると破顔して大きく手を拍った。
「そいつは重畳。それが高名なシャーキヤ仙の言葉なら、お前は我が悲願成就を告げる吉兆の使者ということだな」
彼はウィレムの肩を幾度も叩く。お陰で肩には赤い手形がくっきりと残った。
「宜しければ、その悲願というのをお聞かせ願えますか」
「良いぞ、篤と聞け。俺はな、あの生白い顔をしたバラモン共から、我らが神の力を奪い返すつもりなのだ。お前にはその様を特等席で見せてやろう」
大口を開けるヴァルナラム。その表情はそれまでの陽気な笑いとは違い、陰湿で不敵なものを含んでいた。濡れた手で急に背中を撫でられたような不気味な感覚をウィレムは感じた。
上機嫌のヴァルナラムは放っておけば、三日三晩でも話し続けそうだったので、隙を見て暇を告げた。彼は話し足りなそうに顔をしかめ、まだ良いだろうと引き留めたが、丁寧に固辞して立ち上がる。
「最後に一つ聞かせてくれ。端の方に侍っていた女は、お前の玩具か何かか」
「玩具ですって」
ウィレムは垂れ幕から手を離すと、険しい顔でヴァルナラムを睨みつけた。気が付いたオヨンコアがウィレムの肩を掴んで制止する。
「何か気に触ったか。女に剣を持たせるなど、随分と酔狂なことではないか」
その言葉でたちまち顔が熱くなる。耳鳴りが聞こえ、視界が狭まり、身体は強張った。怒り心頭のウィレムを見て、他の三人が彼を押さえ込む。そうしなければ、ウィレムはヴァルナラムに跳び掛かっていただろう。
「そう怒るな、悪気はないのだ。許せよ」
組み敷かれたウィレムの姿に、やはりヴァルナラムは口元を綻ばせる。
ウィレムは縛りを解こうと踠いたが、三人相手では身動きが取れない。
「詫び代わりに、俺の玩具も見せてやろう。そら、入って良いぞ」
呼びかけに応えて、幕の陰から男が一人、静々と現れた。言葉が掛かるまでは見事に気配を消していた。イージンが顔を曇らせる程である。
歳の頃はウィレムと同じくらいだろうか。子どもではないが、青年というには少々幼さが残る。黒く艶めく前髪を垂らし、顔の左半分を隠していた。肉を削ぎ落とした身体に他の兵たちのような厚みはない。手脚が奇妙に長く、やや猫背の所為か手は膝頭に届きそうだった。
「ラジャグプタ・クリシュナで御座います。お見知り置き下さい」
奇怪な見た目に反し、彼の声は穏やかで美しい。花の香りさえ漂ってきそうなその響きに、ウィレムの怒りは完全に掻き消えてしまった。
「此奴は強いぞ。そうだな、気晴らしに一戦交えてみろ。市でのお前の勇姿、もう一度俺に見せてくれ」
ヴァルナラムは勝手に話を進める。押さえ込まれ、口まで塞がれたウィレムに代わり、イージンが彼の提案を丁重に快諾した。