第102話 黄金都市
黄金の城市、それが初めて無憂城を見たウィレムの感想だった。
ガンガー川を下り、数日歩いた所にその街は現れた。時分は黄昏時に差し掛かり、暮れゆく太陽に照らされて、砂岩を積んだ威厳ある城壁が金色の輝きを発していた。
翌日市街に入ると、大通りは人であふれていた。明け方に降った雨で足下は湿っていたが、水溜まりの水が跳ねて尽きるほどに人が往来している。最早嗅ぎ慣れてしまった香辛料の香りが立ちこめ、其処此処から賑やかな声が飛ぶ。セサロニカやコンスタンティウムと違うのは行き交う人の肌の色だけで、街を包む熱量は勝るとも劣らない。広場や道端で牛が悠々と闊歩しているのが笑いを誘った。
「それで、ヴァルナラム王に会う算段はついてんのか」
城内を散策中にイージンに尋ねられ、ウィレムは答えに窮した。
「どうしたら良いかな。イージンこそ何か方策はないのかい」
「そんなもんがあったら、お前に聞くかよ」
「そうだよね。今回は何の伝手もないわけだし」
ウィレムはため息混じりに肩を落とす。これまでに訪れた長閑な村落では、頼めば誰かしらが手を貸してくれた。だが、次の相手は同じようにはいかない。取り次ぎを探すにしても、誰でも良いというわけにはいかないのだ。
街の活況を見る限り、ヴァルナラムは優秀な統治者のようである。人々の顔に憂いの色がないことが何よりの証左だろう。だが、統治に優れたものが、心根まで優しいとは限らない。むしろ、優れた統治者であればあるほどに厳格なものである。見ず知らずの旅人が直接訪ねたところで、門前払いが関の山だ。
「お寺のバラモン様にお願いするのは如何でしょうか。どこへ行っても、王と僧職とは仲が良いものですから」
オヨンコアの提案にも一理あると思いながら、ウィレムの脚が僧院に向くことはなかった。モハンムーラの儀式に立ち会って以来、彼はその地の信仰に少なからず不信を抱いていた。
エトリリアの正統教会にも、神に殉じた聖人の逸話は幾らでも伝わっている。だが、それは自らを儀式の供物とするような残酷な話ではなかった。そこには主への従順と人の尊厳があった。人に犠牲を強いる神にも、それを良しとする教義にも賛同は出来ず、好意も持てない。
無為に歩を進め、街の一片を端から端まで歩き尽くした頃、喉の渇きが酷くなった。照りつける太陽で街路は既に乾き切り、建物や石畳からの照り返しが激しく肌を焼く。汗が首筋を伝い、下着が湿って身体に張り付いていた。
ウィレムは辺りを見回し、具合の良さそうな日陰を見つけた。
「あそこで少し休憩しよう。喉がからからだよ」
「それではワタシが飲み物を探してきます。ご主人様は休んでいてください」
オヨンコアは水筒片手に人混みへ向かって歩き出した。
「イージン、一緒に行ってあげてよ」
「なんでおいらが」
「何かあったら困るだろう。そうなったら、タルタロス行きどころじゃない」
思わせぶりな口調で促すと、イージンは眉を寄せつつ、渋々彼女の後を追った。
「お前、近頃、調子に乗っちゃいねえか。そのうち痛い目見るぞ」
「イージンとの付き合い方が少しわかってきただけだよ」
手を振り、舌打ちするイージンを送り出す。
その場にはウィレムとアンナの二人だけが残った。
「本当に熱いね。喉、渇かない」
「いえ、大丈夫です」
「大分日に焼けちゃったけど、痛くないかい」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
声を掛けても短い答えが返るだけで、話は続かない。ヒマーラヤにいたころよりは血色が良くなり、肌に張りも戻っているが、彼女は相変わらず鬱ぎ込んだままだった。ただ、近頃頻繁に、自分の手を太陽に透かしては、それを眺めながら考え事をしている。回復に向かう兆しならば良いとウィレムは思った。
隣にいる彼女は伏し目がちに行き交う人を眺めていた。繊細な顎の線を見ていると、無性に彼女に触れたくなった。
不意に、向かいの店から激しい怒声と陶器が割れるような音が上がり、人々が脚を止めた。人集りの向こうから哀願する悲痛な叫びが聞こえてくる。
「僕、様子を見てくるよ。アンナはここを動かないで」
人並みの情け心とわずかな野次馬心から、ウィレムは人を縫って進み、人垣の最前列に出た。眉を吊り上げた僧衣の男と、彼の足下に平伏する店の主らしき男が目に映る。
「其方は売り物ではないのです。どうかお返しください」
「店にある物が売れぬとは、可笑しな話ではないか」
「其方は王宮への献上品で御座います。納められなければ、お叱りを受けます」
「クシャトリヤに渡すくらいなら、我らバラモンに納めるべきであろう」
バラモンは居丈高に主人を見下す。主人の方はというと、恐縮して背中を丸めているがそれでも品物を渡そうとはしなかった。
「この罰当たりめ、貴様のような者には、インドラ神もお怒りであろうよ」
「お許しください。王の不興を買っては、私共はこの街で生きてゆけません」
「王に処されるか、神に罰せられるか、どちらにせよ、貴様の命はないわ」
どのように聞いてもバラモンの言い分は道理に合わぬように思えたが、誰も彼を止めようとする者はいない。見兼ねたウィレムは歩み出ると、器を持つバラモンの腕を掴んだ。
「それ、返してあげたらどうですか。その人困っていますよ」
突然割って入ったウィレムを、バラモンは怪訝な目つきで繁々と眺めた。眉間に皺が寄り、額の赤い円模様が拉げて、小麦の種のような楕円形になる。
「貴殿はどちらのお坊かな。あまり奇天烈な格好をすると、バラモンの品位が疑われますぞ」
男は喋りながら腕を振り解こうとするが、ウィレムは手を離さない。それほど強く握っているつもりはなかったが、男の力はそれ以上に貧弱なものだった。
バラモンの白い顔が次第に赤くなり、目を血走らせてウィレムをにらみつけた。
「我らバラモンが求めるならば、喜んで差し出すのが庶民の務めだ」
「でもそれ、王様のものなのでしょう。それにその様子だと、貴方お代も払っていないのではありませんか」
怒りが限界に達したのか、バラモンは足下に転がる器の欠片を手に取ると、ウィレムに殴りかかる。あまりに鈍い動きに、ウィレムは余裕を持って体を捌いた。
ウィレムに躱された腕は勢いのままに少し飛び、地面に落ちた。
バラモンの腕は根元から切り落とされていた。
叫喚と血飛沫が上がり、ウィレムの服にも赤い染みが出来る。
久方振りの血の臭いにけたたましく咳が出た。
腕を押さえて転げ回るバラモンの前に、男が一人立っていた。
顔を布で覆い隠していたが、切れ長の目とすらりと伸びた鼻梁の一部だけがのぞいている。細身だが無駄なく引き締まった身体は均整が取れており、その手には血の滴る刃が握られていた。
「市中を騒がせ、民から品物を脅し取る。鬼神が如き所業だな」
男の握る剣の先がバラモンの鼻先に突き付けられる。
「貴様、バラモンにこのような仕打ちをして、許されると思っているのか」
「何者であれ、罪は罪だ。その邪悪な性根、地獄で悔い改めろ」
白刃に陽光が煌めき、バラモンの首が胴から離れた。一部始終を目の前で見ていたウィレムは、舞い上がる血煙を頭から浴びる羽目になった。
「主人、店の前を汚した。これはほんの詫びだ。取っておけ」
男は平然と店主に打刻銀貨を投げ渡すと、呆気にとられているウィレムの方に向き直る。黒光りする瞳と目が会った。
「其の方、なかなかの胆力ではないか。気に入ったぞ。召し物を詫びもしたい。こいつを持って王宮を訪ねよ」
男は耳飾りをはずしてウィレムの手の中に強引にねじ込むと、人の群れのなかに消えた。男の後ろを数人の人影が忙しなく追っていく。
我に返ったウィレムは渡された耳飾りを摘み上げる。それは金と玉で造られており、玉のなかには見事な獅子の彫刻が施されている。のぞき込んだ紅玉を透かして、眩しい陽光が目に入った。