第101話 抱えた思い
「汝は未だ怨んでいるのか」
聖仙の問を思い出し、オヨンコアは唇を噛んだ。
自分でも幾度となく繰り返した問である。それでも答えはわからなかった。
ただ、自分の胸中に消えずに残る炎がある。その炎の正体を確かめるためにも、自分は絶対に戻らなければならないのだ。あの懐かしき故郷に。
故郷に帰るためなら、どんなことでもした。
生きるために盗みをはたらいた。
人を騙して金品を奪った。
いけ好かない男に身体を預けたこともあった。
必要ならば人を殺す覚悟もあったし、他人の墓を暴くことも躊躇いはない。
どのような蔑み、罵りも甘んじて受けよう、どのような恥辱にも耐えようと誓った。目に映るものは全て、自分のために利用すると決めていた。
オヨンコアは顔を上げ、先を歩くウィレムの姿を見た。まだ幼さの抜けきらない容貌は少々頼りない。身体が大きいわけでもなく、知恵が回る質でもない。素直さと真面目さだけが取り柄の、見た目通りの青年だと思っていた。
彼と出会った時、彼が人売りにタルタロスへの旅をしていると口を滑らせた。その言葉を聞いて、彼を利用することを思いついた。
儚げで可憐な乙女を演じると、簡単に取り入ることが出来た。そのまま彼の従者となり、タルタロスまで連れて行かせるつもりでいた。
幸い容姿には多少自信がある。顔立ちは知的ながら、瞳には親譲りの愛嬌が具わる。身体は男性好みの肉の付き具合をしているのではないだろうか。耳と尻尾が気掛かりではあったが、他の魅力で覆い隠せる。実際に何人もの男を色仕掛けで骨抜きにしてきたのだ。
だが、彼はそれまでの男たちとは少し違っていた。誘惑すれば確かに靡くが、最後の最後で踏み止まる。かといって、オヨンコアを突き放すこともしない。
彼に対する興味が湧いた。純朴でいて難解、不思議な魅力のある青年だった。もちろんそこには、危なっかしくて見ていられないという思いも含まれるのだが。
近頃は自然に「ご主人様」と呼べるようになった。感情を押し殺す必要もない。
自分の目的は別にして、彼の旅が成就して欲しいと思うようになっている。他者のことを思うのは、故郷を逃れてからというもの、初めてのことだった。
そのためにも、アンナには早く復調してもらわなければならない。
最初の印象はただただ美しいと思った。荒れ野に春をもたらす温かな太陽。それでいて、剣のように鋭く冷ややかな瞳と、すらりと伸びる宝石のように滑らか手脚。不覚にも、彼女に見取れ演じることを忘れかけたほどだ。
だが、実際の彼女は見た目とはあべこべで、世間知らずで如何にも幼稚、我が儘なおぼこ娘だった。苦労を知らず、天真爛漫な彼女を妬ましく思い、何度か悪戯を仕掛けたこともある。
そんな彼女がウィレムに対してだけは遠慮がちになる。心の距離を一定に保ち、最後の一歩を踏み込ませない。初めのうちは付け入る隙だと思ったが、じきに二人の距離感が焦れったく思えるようになった。何も気にせず、彼の胸に飛び込んでしまえば良いのにと、傍から見ていて苛立ちさえ覚える。自分はそう出来るほど無垢ではなくなってしまったし、そうしたい相手も既にいない。だからこそ、彼女を見ていると、もどかしくなる。
彼女は今、ウィレムから距離を置き、オヨンコアの隣をとぼとぼと歩いている。歳の近い妹を持った心持ちといったところだろうか。実際の妹たちはもう少し淑やかではあったのだが。
オヨンコアは自分よりも少し高い彼女の肩に手を回し、引き寄せた。
「オヨン? 急にどうしたの。歩きにくいよ」
「少し寒いの。ちょっとの間、こうさせてくれない」
アンナは不思議そうにオヨンコアの顔をのぞき込んだが、それ以上は尋ねなかった。ただ、ほんの少しばかり身体をもたれかけてきた。細い肩から彼女の温もりが伝わってくる。
華の茎のような細身の身体は、戦う者としてはどうにも心許ない。なにより今、彼女の心は深く傷付き、細かな欠片となって砕けてしまった。それでも彼女は剣を捨てない。最早、柄に触れるだけで全身が震え出すというのに。それは縋るような思いなのかも知れない。彼女なりの意地なのかも知れない。本心はわからない。彼女は彼女なりに、砕けた欠片を拾い集め、元に戻そうとしているのだろう。
彼女の力が必要になる時が来る。その時には彼女は剣を取るだろう。彼女がこの程度で折れる鈍ではないことは承知している。それまでの間、自分が主と彼女を支えよう。そう心に誓った。
思いを巡らせていると、いつの間にか、捨てられないものが増えたことに気が付く。同時に、それでも消えない激情が自分のなかに残っていることも思い出した。
ならば、全て抱えて進もう。幸福な結末にはならないかも知れない。自分のしてきたことを思えば、良い死に方は出来ないだろう。
オヨンコアはアンナの肩に伸ばした手に力を込め、さらに強く引き寄せた。同じ高さになった彼女の頬に自分の頬を摺り合わせる。この温もりをもう少しだけ感じていたい、彼女はそう切に願った。