第100話 最後の問答
ウィレムは再び暗がりに捕らわれた。深い闇は視界を遮り、聴覚と嗅覚を閉ざす。触覚は利かず、平衡感覚も消え失せた。だが、彼を閉じ込める闇は先程と同じようでいて、わずかに異なるように思えた。先の闇が混じり気のない黒だとすれば、目の前の闇は混色の黒だった。暗闇のなか、所々に赤や緑の斑が浮かび、渦を巻いては黒に返る。
「良くないものが憑いているとは思ったが、大女神に魅入られていたか。彼女が汝を見つけた以上、じき、あの鬼神がここにやって来よう」
聖仙の声は淡々と響いたが、その間も暗闇は忙しなく攪拌を続ける。非常時であることはウィレムにも感じ取れた。
「時間がない。最後の問答を始めようか」
「そんな余裕があるのですか」
「三つ目の問は、今の言葉で良いのだな」
「いえいえ、今のは無しでお願いします」
慌てて取り消す。あまりに間抜け質問で貴重な機会をふいにするところだった。聖仙が失笑する。
「最後の問である。ウィレム・ファン・フランデレン、自らの力無きを知り、尚も、自らの脚のみを頼りとする者よ。汝、何故、果て鳴き憧憬に溺れるのか」
「共にありたいからです」
力強く、明確に言い切った。それまでの二つの答えとは違う。淀みも、躊躇いも、疚しさもなく、太く、真っ直ぐに、そして、しなやかに声は響く。
アンナも、ルイも、皆、ウィレムに無いものを持っている。共にありたい、肩を並べて進みたいと望んだ者たちは、遙か彼方の存在だった。だが、手がとどかないと理解しても、自分の気持ちを納得させることが出来なかった。ただ側にいるのではなく、同じ景色を見、同じことに悩み、同じ喜びを感じたかった。それが無理だとわかったところで諦められる思いなら、そんなものを憧れとは呼びたくない。
「溺れるとは上手いことを言いますね。僕はこの気持ちに填まり込み、脱け出すことが出来ません」
だが、それで構わないと思った。それがウィレム・ファン・フランデレンの在り方だというのなら、その生が尽きるまで踠き苦しむのも覚悟の上だ。
「人は誰しも理想を抱き、心惹かれるものだ。だが同時に、理想は神壇に祭り上げられ、現実とは隔絶した夢幻となる。汝にとって憧憬とは、どれだけ離れていようと、同じ地平を行くものなのだな」
聖仙の声は浮ついている。イージンとは違った意味で、相当にひねくれた人物のようだ。それでいて、彼の言葉や態度そのものは不快感を抱かせない。その辺りが聖仙たる所以なのかと、ウィレムは勝手に考えた。
「なかなか愉快な語らいであった。さあ、汝が問を示せ。時が迫っているぞ」
いよいよ暗闇は鳴動を始める。聴覚と平衡感覚が戻り、闇を掻くと、朧気に、泥のような感触が残った。終焉が近付いていることは明らかだった。
「ここが天空の孤島だということは承知しました。ですから、僕らがこの島を脱け出し、元いた塔の大地へと戻る方法を教えてください」
自分の声が外からとどく耳慣れた感覚は、少しばかりこそばゆい。視界には混濁と深闇が交互に映り、黒が四隅からじわじわと浸み出す。
一度戻った感覚が薄れ、意識が遠退くなか、聖仙の声が聞こえた。
「無憂城の主、大王ヴァルナラム・バラタに会うのだ。彼の宿願叶いし時、汝の願いも自ずから叶うだろう」
目が覚めると川岸の砂の上で仰向けに寝転んでいた。晴れ渡った空と熱く湿った風、川面の揺れる水音がウィレムを迎えた。
ゆっくりと上体を起こすと、アンナとオヨンコア、イージンの三人が同様に倒れているのが見えた。山中に置き去りにしたはずの重剣も近くに転がっている。
夢でも見たのかと呆けていると、他の三人が寄ってきた。聞けば、彼らも闇のなかに捕らわれ、聖仙に問答を仕掛けられたのだという。
「それで、この先どうするんだ」
苦笑いを呑み込んで、イージンが尋ねる。
「無憂城という所へ行こうと思うんだ。どのみち他に手掛かりはないのだから」
ウィレムは立ち上がると、ガンガー川を下流に向けて歩き出した。
彼らの頭上で金色の大鳥が旋回しながら一声鳴いた。