第99話 鳥瞰の術
「道が無いとはどういう意味か、だったな。説明するよりも見た方が早かろう」
聖仙シャーキヤの声は少しずつ遠ざかり、残響を残して消えた。木霊もなくなり、再び暗闇に静寂が訪れ、同時にウィレムの意識も途切れた。
「瞼を開けよ。両の眼でしかと見るのだ」
再び響いた聖仙の声に、ウィレムはゆっくりと目を開けた。
高々と昇る白雲と底なしの碧空が視界の上半分を占め、眼下には茶と緑の大地が広がる。雲間から眩しい陽光が射し、遠くに灰色の山並みが連なっていた。
自分の身に起きたことが理解できず、ウィレムは何度も目を瞬かせた。
突然、視界が激しく揺れたかと思うと、下を向いてくるくると回転しながら落ちはじめる。樹々の緑が大きくなり、大地が眼前に迫った。
「何をしている。早く飛び上らねば、地面に衝突して、ぺしゃりと潰れるぞ」
呆れたような聖仙の声が聞こえる。だが、ウィレムには飛び方がわからない。だいたい、人が空を飛べるわけがないのだ。高みから勢い良く落ちるのが精々でる。
不意にある出来事が頭を過ぎった。ウィレムは宙に浮く人間を見たことがある。調度、同じようにして空から落ちた時である。彼は地面にぶつかる既の所で女性に救われた。彼女は空を飛んでいた。ウィレムは必死になってシャクティの様子を思い出した。
彼女は宙を浮きながら、巧みに身体をくねらせていたのではなかったか。その仕草は泳いでいるように見えた。魚が川を行くように、流麗に飛び回っていた。
泳ぎならば多少の心得がある。少なくとも、川で遊んで溺れたことは一度もない。腕を掻き、脚で宙を蹴る。相変わらず手応えはなかった。視覚以外の感覚は閉ざされたままである。だが、幸いにも視界は上を向き、回転も収まった。そのまま宙を掻いていく。目に見えない小径に沿って行くように、左右にうねりながらも元いた高さに戻ることが出来た。
「上手くやるではないか。術の適正があったのだな」
聖仙はそう呟いただけで、それ以上なにも教えようとしない。やむなく、ウィレムは勝手にあれこれと試しはじめた。
しばらく飛んでいると幾つかわかることがあった。
まず、その術は実体を伴っているわけではないらしい。視界のなかに身体が映り込むことはないし、時折近くを過ぎていく鳥がウィレムに気付く様子もなかった。
だが、落ちそうになるウィレムに聖仙が声を掛けたことから察するに、影響を受けないわけではないようである。細心の注意を払い、極力、人や物には近付かないよう心掛けた。
下方に小さな集落が見える。田畑の北に数軒の家が固まっていた。泥壁に藁葺き屋根の小さな家々、壁には風通しが良い大きな窓が開いている。村の東端にある家の前で少女が鶏たちと戯れていた。
愛嬌のある丸い瞳は無邪気に輝き、頬は柔らかく綻ぶ。彼女の顔に愁いの色がないことに、ウィレムは心底安堵した。
「スジャータ、君のくれたお守りのお陰で僕らは助かったよ。ありがとう」
伝わらないとわかってはいたが、礼を言せずにはいられなかった。ウィレムが去った後、少女は青空を見上げると、不思議そうに首を傾けた。
空の上からそれまでの旅程をなぞる。
モハンムーラの庵ではバクティと二人の妹たちが瞑想に励んでいた。山の村ではスルヤが牛を引いて段々畑に向かっていた。彼を紹介してくれた女性は、隣の夫人とおしゃべりをしながら、洗濯に精を出していた。
そのままヒマーラヤの斜面に沿って飛び上がる。雲を突き抜け、鋭い頂を越え、天高く舞う。視界を遮るものはなくなった。
「下を見てみるが良い。さすれば、吾が言葉の意味もわかるだろう」
久方振りに意識の外側から声が聞こえた。
声のした方を見ると、人と変わらぬ大きさの鳥が羽撃いていた。その翼は金色に輝き、嘴の間から炎がちらつく。大鳥はウィレムに目線を送り目尻を緩める。その表情は微笑んだように見えた。
「これが吾が正体と思うでないぞ。今は金翅鳥の姿を借りているだけだ。それより、もう少し昇り、ヒマーラヤの先を見てみるのだ」
言われた通りに意識のなかで腕を掻く。視点が上へと移り、山頂が足下に遠ざかる。やがて、視線は連なる山脈の先へと至った。
思わずウィレムは言葉を失った。
急峻な山の向こうにはただ暗闇だけがあり、他には何もなかったのだ。山の斜面は直下に斬り落ち、その先に続くはずの大地はどこにも見当たらない。だが、目を凝らすと所々に雲が浮いており、そこに空があることがわかった。
「どういうことなのですか、これは」
「見ての通り。ここは大地より切り離された空飛ぶ孤島よ。これで、吾が言葉の意味もわかっただろう」
まさかと思い、急いで手脚をばたつかせ、尾根に沿って飛んだ。視界が次々に後方へ過ぎていく。だが、どこまで行っても、山向こうに陸地は現れない。気付いた時には元いたカイラース山に戻っていた。
「これで満足か」
聖仙の言葉を否定するように首を振る。
確かに自分の目で島中を見て回った。島の北方は豊かな平野で、流れの緩やかな大河が走り、人々に恵みを与えていた。周縁には外界を隠すに青山が屹立する。その外側には、本当に何もなかったのだ。
「それでは、どうすれば良いのですか」
力ない言葉がウィレムの口からこぼれる。
その時、突風が吹き荒れた。その風に嫌な気配を感じ、ウィレムは風の来た方角に目をやる。感覚を失ったはずの肌に、確かに粟が立つのを感じた。
目を凝らすと、遙か遠くの景色までが目の前に現れる。風は南方、島の中心から吹いていた。そこには天を突く巨大な山岳がそびえる。四方を険しい山々に囲まれた金色に輝く山からは、生温かい風が盛んに吹く。その風が喉を詰まらせそうなほどに気味が悪い。悪意に似た、しかし、より粘り気のある感触がまとわりついて離れない。
「拙いな。彼女に気付かれた」
聖仙の声が頭のなかを駆け抜けたかと思うと、視界が明滅し、闇夜に灯火を消したように、真っ暗になった。
ウィレムは再び視界を奪われ、闇の中に放り出された。