第9話 孤独な逃走
枝葉が日光をさえぎる林の中、茂みを掻き分けながら、ウィレムは走った。とにかく、追っ手の目がとどかない所まで逃げなければならない。
相手の騎士マクシミリアンは、甲冑を着込んでいた。あの鎧を着たままでは、全力で走れないはずである。かといって、馬で追おうにも木々が邪魔になる。
周囲の環境が、無手軽装で逃げるウィレムにとって、有利に働いた。
耳を澄ませると、金属板の擦れ合う音も、ウィレムを罵る声も聞こえなくなっていた。脚を止めずに、上体をひねって後方を確認したが、騎士の姿はない。
歩を緩めようとしたウィレムの耳が、今まで気付かなかった音を拾いあげた。
虫や小動物たちの鳴き声に混じって、小枝を踏み折る音、枝葉が不自然に擦れる音、そして、靴底が湿った地面を忙しなく打つ音がした。
しかも、その音は一つではなく、同時に複数鳴っているのだ。
慌てて再度振り返り、後方に目を凝らす。
マントに身を包んだ男たちが、木々の間を縫って近づいてくるのが見えた。
皆一様に暗い色のマントを着て、フードを目深にかぶっていた。
ここで初めて、ウィレムは追っ手が一人ではない可能性に思い至った。
急いでその場を離れると、それに合わせてマントの一団も速度を上げた。予想は当たっていたらしい。
逃げながら、身を隠す場所を探したが、適当な場所は見つからなかった。
追っ手との距離は徐々に縮んでいた。しかも、後方だけでなく、左右からも人の気配がある。
突如、右の茂みから人影が、飛びかかってきた。振り上げた右手には、短剣を握っており、そのままの勢いでウィレムに斬りかかる。
虚を突かれ、一瞬、身体が強張った。
すんでの所でそれを躱す。僧衣の端を掠めて、剣先が通り抜けていった。
殺意こそ感じるが、鋭い攻撃ではなかった。
先の騎士が繰り出した一撃とは、比べるべくもない。
一対一ならば、十分あしらえる相手に思えた。
不意打ちに失敗した男は、無茶苦茶に短剣を振り回しながら、走り寄ってくる。
その手首を掴むと、相手の勢いを利用して自分の懐に引き込んだ。
前のめりになった男の腹に膝を突き立てると、相手はそのまま仰向けに倒れた。
倒れた男の胸を全力で踏みつける。
男は苦しそうな声を上げながら、地面を転げ回った。
危機を回避し、一息吐こうとしたが、他の気配は着実に近づいていた。
ウィレムは落ちていた短剣を拾うと、すぐにその場から走り去った。
その後も、ウィレムは何度かの襲撃を乗り切った。
追っ手は統制がとれていないようで、一人ずつしか襲ってこない。個々の実力もたいしたことは無かった。
相手は戦いの素人なのかもしれないとも考えたが、それでも、複数人を同時に相手にするのは難しそうだった。朝から満足な食事もしておらず、移動続きで、疲労に拍車がかかっていた。泥の中に腰まで浸かっているように、足取りが重い。
不意に視界が開けた。鋭い西日が目に刺さる。
開けた空間に木々はなく、赤茶けた地面が露出している。
そして、眼前には、巨大な絶壁がそびえていた。
逃げ道は断たれ、隠れる場所もない。
壁を背にして振り向くと、マントの男たちがウィレムを囲んでいた。
男たちの人数は七人。短剣だけではなく、長剣を携えた者もいた。
戦っても生き延びられる見込みは薄そうである。
だが、みすみす殺されるわけにはいかなかった。
「僕は、ガリア王ルイ・ド・セーヌ陛下の命を帯びている。僕への狼藉は、王への反逆と見なされるぞ。承知しているのか」
ウィレムの言葉に、男たちはフードで隠れた顔を見合わせた。そして、何事もなかったかのように、一歩また一歩と、囲いを狭める。
残る手立ては、戦って勝つことしかなさそうである。
奪った短剣を敵に向けて突き出す。ウィレムの命運を握る頼りない切っ先は、小刻みに上下していた。
まだ死ねないという思いとはうらはらに、身体の震えは一向に収まらない。
男たちとの距離は、もはや大股一歩ほどしかなくなっていた。
既に何人かの男は、いつでも襲いかかれるように腰を落としている。
張り詰めたにらみ合いで、精神は限界に近かった。
額の汗が、眉間から鼻を伝って口に入る。複数人を相手に緊張感を保つことが、これほど消耗するとは思いもしなかった。
敵もウィレムの反撃を警戒しているのか、じりじりと近付いては来るものの、打ち込んでくる者はいない。
瞬きすら許されない緊張のなかで、絶壁の上から両者の間に小石が落ちた。
それがきっかけとなった。
三人の男が叫び声をあげながら、襲いかかる。
小石に気をとられたウィレムは、わずかに反応が遅れた。
全てをさばくことは不可能だった。
今度こそ死を覚悟したが、敵の刃はウィレムの身にとどかなかった。崖の上から落ちてきた人影が、目にも留まらぬ剣撃で、全ての凶刃を弾いたのだ。
マントの一団に正対する人物は、ウィレムからだと背中しか見えない。
だが、ウィレムはその人物を知っていた。
ひるがえる純白のマントと、その隙間から見える深紅の鎧に見覚えはない。
しかし、見慣れない格好だとしても、見間違えるわけがなかった。
なにより、陽光を反射させ、夕空と同じ色で燃え上がるその髪を、見間違うことなど有り得なかった。
ウィレムは、二度と呼べないはずだったその女性の名を叫んだ。
「アンナ」