耳かき屋スーラン、カースランサム城下街支店
カースランサム王国の貴族騎士、オーラン・フォン・ロッドスカルは優秀な士官である。
まだ26歳でありながら誰よりも仕事ができ、部下の信頼も厚く、上官からも信用されている。
そんな彼が今、直面している問題。それは先程から感じている右耳の痒みであった。
「オーラン様、どうされました。先程から顔色がよくないようですが…」
部下のミサ・コーストに言われて初めてオーランは自分の眉間に深い皺が刻まれていることに気付いた。どうやらミサにいらぬ心配をかけてしまっているようだ。と申し訳ない気持ちになりながらも「耳が痒い」などと素直に言うのも上官としてどうなんだと思い彼は誤魔化すことにした。
「いや、すまない。大した問題じゃあないんだ。気にしないでくれ」
眉間の皺を右手の親指と人差し指で伸ばし、できる限りの柔らかい表情をしながら簡単な身振りを加えて喋る。が、耳の痒みが気になって仕方ないため多少ぎこちない動きになってしまう。
「そうですか…。あまり無理をなさらないでくださいね」
その動きがミサからしたら具合が悪いのに無理をして笑っているように感じたのだろう。気が気じゃないミサは今すぐにでも仕事を切り上げて横になってほしかったが、本人が大丈夫だと言っているのに無理やり寝かせるのも良くないと思い、声をかけるにとどまった。耳が痒いだけなのでまったくいらぬ心配ではあるのだが。
午後八時。普段ならまだ書類仕事をしている時間ではあるが一日中ずっと耳の痒みが気になって仕事にならなかったので、早めに切り上げて帰ることにした。…部下からの心配そうな視線のせいでもあるが。
普段ならば、馬車でさっさと家に帰るのだが今日はどうしても耳の痒みを解消したかった。オーランは御者に歩いて帰ることを伝え馬車には乗らずに城の門をくぐり城下町に繰り出した。
以前、城下町の繁華街に耳かき専門のマッサージ店が出来たと部下たちが会話しているのを聞いたことがあったのを思い出したからだ。
耳かき専門店。城下町では今までそういった店はなかったと記憶している。
「ここか…」
繁華街に入りしばらく歩いているとその店はあった。入口にでかでかと『耳かき屋スーラン、カースランサム城下街支店』と書いてある看板が提げられていたので間違いないだろう。
カランカラン…。木製の簡素な作りの扉を開くと鐘が取り付けてあったようで綺麗な音色が響く。おそらくは店員が来客にすぐ気付けるように設置されているのだろう。
「いらっしゃいませ~。お一人様ですか?」
「あ、あぁそうだ」
店の奥から暖簾をくぐって現れたのはぼんやりとした雰囲気の黒髪の女性だった。歳はおそらく二十代。黒を基調とした長袖のワンピースを着ていてその上に着けている白いエプロンが実によく映えている。
うちのメイドと似たような恰好をしているな。という印象をオーランは抱いた。
「では、こちらにかけてお待ちください。あ、あとこれに記入をお願いします」
渡されたものは一枚の紙。名前、住所などを書く欄があり、その下にどのような症状が出ているかなどの質問があった。世間一般でいう問診票というやつだ。
「ん?」
オーランはその質問欄の一番下に気になる項目を見つけた。
『ジェリースライム式施術法を希望する はい・いいえ』
「ジェリースライム式施術…?」
オーランはジェリースライムという単語には覚えがあった。
ジェリースライムといえばここからかなり離れた山岳地帯に現れる魔物だ。普段はほぼ液状で水溜まりのような形で道の半ばにいたりする。その上を人や獣などの獲物が通過しようと水溜まりを踏んだ瞬間、スライムは形を変える。獲物を絡め捕るように蠢いた後ゼリー状に固まるのだ。そうして、獲物が身動きがとれなくなった後、二~三ヶ月かけてジワジワと消化し骨まで溶かすのだそうだ。
そうだ、というのは実際に消化されている人間を見たことがないからだ。
その山岳地帯はジェリースライムが出ることが解っているので必ず二人以上で移動する事が決まりとなっている。更に言えばジェリースライムは火に弱く、松明の火を近づけるだけであっさり逃げていってしまう。任務中オーランはだいたい副官のミサと行動を共にしているというのも大きいだろう。ミサは魔術を得意としており当然、火の魔術も使える。ミサにかかればジェリースライムなど近づく前に蒸発してしまう。
問題は何故耳かき屋でその名前が出てくるのかだ。ジェリースライム式施術ということはジェリースライムを使うのだろうか。しかし、確かジェリースライムは人間を丸呑みできるほどデカいはずだ。
オーランがそうして疑問に思っていると前の客の施術が終わったのか先程の店員が客と思しき男と共に暖簾の奥から出てきた。客の男は今が幸せの絶頂とばかりに顔の筋肉が緩みに緩んでいた。
「記入できましたか~?」
「あ、あぁ。すまない、このジェリースライム式施術というのは何なんだ?」
客の男との会計のやりとりを済ませ、客を笑顔で見送った後、オーランの方に向き直った店員に問診票を渡しつつ先程からの疑問をぶつける。
「あぁ、それですか。そうですね~、実際に見てもらった方が早いかも知れませんね。えぇと、ロッドスカルさん。こちらへ」
どうぞ奥へ、と促されてオーランは店員の後に続き奥の暖簾をくぐる。
暖簾をくぐるとすぐに別の部屋に着いた。どうやらこの建物は入ってすぐの受付とこの部屋の二部屋だけしか無いらしい。部屋のど真ん中には奇妙な形のソファがあり、ソファの横にはやや背の高いテーブルがある。壁際の棚には耳かきやピンセット、綿棒など耳かきの道具が大量に置かれていた。どうやら客に合わせて使う道具を変えているようで通常の人間よりも身体が大きなギガンテス族用の大型耳かきも壁に掛けられていた。オーランはその中になにやら怪しげな瓶を見つけた。中身は透き通るような水色をしている液体だ。明らかに消毒液などの薬品とは違う。
なんとなく気になりその瓶を眺めていると店員がその瓶をひょいと手に持った。
「これがジェリースライム式施術に使う特製の薬液、と言ってもただのジェリースライムの身体の一部なんですが」
「ジェリースライムの一部?どういう事だ?」
そもそもジェリースライムの身体とはどの部分を指しているのか。オーランの頭の中に新たにそんな疑問が生まれる。
「そうですね、施術の前に少しお勉強タイムといきましょうか~。あ、もちろんお勉強タイムは料金に含まれないのでご安心ください」
店員の説明曰わく。
ジェリースライムは身体とコアの二つの要素で構成されている単細胞生物らしい。
身体とはすなわち、普段は液状で獲物を捕らえた時にゼリー状になる部位の事を言う。
ジェリースライムの身体は液状だが電気を流す事でゼリー状になる。野生のジェリースライムは獲物を捕らえた際にコアから電気を発生させて身体をゼリー状に固めているらしい。
「そこで、その電気でゼリー状になるという特長を生かしたのがこの『ジェリースライム式施術』なのですよ!」
店員は自慢気に瓶をソファ横の金属製の机の上に起きながら続けた。
「ジェリースライム式施術はジェリースライムの身体の一部を使います。あ、コアは無いので安全ですよ。で、その身体の一部を耳の中に流し込みます。それを電気魔術でゼリー状に固めてしまうのです。あ、魔法師の資格は持ってますのでご安心くださいね」
店員はポケットから免許証を取り出す。そこには二級魔法師と記載されていた。商売に魔術を使うなら二級魔法師以上の資格が必要だ。
「で、耳の中に詰め込まれたジェリースライムは耳垢を溶かして剥がしやすくしてくれる訳です。そこからゼリー状のジェリースライムごと耳の中の耳垢をこそげ取ってしまうわけです!」
どうでもいいがこの店員、説明を開始してからやたら饒舌である。先程までののんびりとした口調はどこへやら。矢継ぎ早に言葉が出てくるので正直オーランは半分ほどしか理解できていない。
しかし、この店員の『どうです!凄いでしょう!』と言いたげな顔を見るにジェリースライム式施術にそうとうの自信があるのだろうという事は理解できた。
何よりオーラン自身、不安よりも好奇心が勝りジェリースライム式施術を受けることにした。
「じゃあ、そのジェリースライム式施術とやらを頼むよ」
「はい、ではそこのリクライニングソファにお座りください~」
店員の口調が元ののんびりしたものに戻った事に何故だか安心感を抱きながら部屋の真ん中に置かれている奇妙なソファに腰掛ける。
「では、倒しますね~」
「おわっ」
ガタッ、と音を立ててソファの背もたれが倒れる。予想していなかった衝撃につい声を上げてしまうオーラン。
「な、なんだこれは。壊れたのか?」
「違いますよ~。これはリクライニングソファです。背もたれが倒れてベッドみたいに寝転がれるんですよ~。足元失礼しますね」
店員はソファのそばに有ったオットマンをソファ前に移動させオーランの足を乗せる。
「さて、本来なら天井を向いたままの姿勢で耳かきを開始するのですが今回は片耳を上に向けて貰えますか?そうしないとジェリースライムがこぼれ落ちてしまいますので」
「あ、あぁ」
生返事と共に左耳を上に向ける。痒いのは右耳だがまだジェリースライム式施術に不安があるのだろう。自然と店員が立っている方向に顔が向いた。
店員がオーランの頭上にランプを吊り下げる。ランプから放たれる暖かな光が耳穴の中を照らし暗闇を払う。
「では、ジェリースライムを流していきますね~」
店員がオーランの耳の上でゆっくりと瓶を傾ける。傾けられた瓶の中からジェリースライムが流れていく。それはランプの光に反射して一筋の糸のようにキラキラと輝きながら耳穴の中に入り込んでいく。
ポツッ、と一瞬大きな音が耳の中に響く。ジェリースライムが鼓膜の上に垂れ落ちてきたのだろう。耳の中に水が溜まっていく感覚がする。
「はい、ちょっとピリッとしますよ~」
そう言う店員の手には金属の棒が握られている。オーランはそれを耳かきだと思ったが間違いだ。
今、店員が握っている棒の先には耳かきのような匙は付いていない。先が丸くなっているただの棒だ。
これは電気魔術を使う為の道具だ。金属棒から電気魔術を流し込むことでオーランの耳の中のジェリースライムにのみ電気が流れるように調整するのだ。
店員の言葉通りピリッとした感覚がオーランの耳の中に走る。しかし、それは電気魔術による物ではない。
「何か変な感覚だ。電流とはまた別のように感じるが」
オーランは騎士である以上、戦闘の機会は多々ある。その中には電気魔術を使う魔術師や身体に電気を纏う獣などもいた。そのためその身に電流を喰らったことは一度や二度ではすまないほどだ。
「それは電流ではなく耳垢をジェリースライムが溶かしている感覚ですね~。ジェリースライムは耳垢だけでなく耳壁も溶かしているのですが電気が微弱すぎてただでさえ弱い消化力がさらに弱くなるので耳に悪影響はありません。ただちょっとピリッとするだけです」
なるほど、この感覚の正体はそれか。と声には出さずに納得する。
このピリピリする感覚、案外悪くはない。それどころか気持ちいいくらいだ。まるで耳の中全体をマッサージされている心地よさだ。
そうして耳の中の心地よさをしばらく味わっているうちに不安や緊張は耳の痒みと共にすっかり霧散していった。
「ロッドスカルさん~?オーラン・フォン・ロッドスカルさん~?」
店員の間延びした声でオーランは目を覚ます。どうやらあまりの心地よさにウトウトしていたようだ。
「すまない。眠ってしまっていたようだ」
「いえ~。仕上げはコレからなので大丈夫ですよ~」
どうやら今まで耳の中でジェリースライムが耳垢を溶かしていたようだ。
(この店員、魔法師としての実力は中々のモノのようだ)
ジェリースライムをゼリー状に固めておくには電気を流し続けなければならない。人体に影響が無いほどの微弱な電流をジェリースライムにだけ流し続けるというのはかなりの神経を使う作業である。
そこまで繊細な調整ができるのは手先の器用な耳かき屋ゆえだろうか。
「では、ジェリースライムをこのまま取り出します。先程も説明しました通り、耳垢も一緒になって出てきます。では、いきます~」
ズルルル、というジェリースライムの這いずる音が耳の中に響く。
どうやらジェリースライムは電気魔術を流すための金属棒にくっついているようで金属棒を持ち上げると一緒になってジェリースライムが耳の中からニュルっと出てくる。
歪んだ円柱状のジェリースライムが耳から完全に取り出される。表面には至る所に耳垢が付着している。
「この形はロッドスカルさんの耳穴の形そのままなんですよ~。まっすぐで耳かきしやすい形ですね~」
「耳かきしやすい形なんてあるのか?」
「はい~。人によっては耳穴がカーブを描いてたり凹凸があったりで奥の方まで掻けない耳だったりするんですよね。そんな人にこそオススメなのがジェリースライム式施術なんですよ。あ、今から仕上げをしますね~」
そう言って店員が持ってきたのは綿棒の束と中に液体の入っている小瓶だ。
「その小瓶は何だ?」
「これですか?ただのローションですよ~。今から綿棒でローションを耳全体に塗ります。ジェリースライム使うと最後にこうしてお手入れしてあげないと耳が荒れちゃうんですよね」
保湿にもなっていいですよ。と言いながら綿棒の束から一本取り出し先端の綿球にローションを塗布する。
「少しヒンヤリしますよ~」
スッとオーランの耳の中に先の濡れた綿棒が入ってくる。店員の言うとおり先の濡れた綿棒は冷たく、しかしだからこそオーランに清涼感を感じさせた。
体温で温められた綿棒が耳の中で動き出す。ローションを塗られた箇所がヒンヤリとして気持ちいい。
穴の中を塗り終えた綿棒は耳介や耳たぶ、耳の裏にローションを塗った後、耳を離れた。
「はい、これで片耳終了です。ではもう片方の耳を上に向けて貰えますか?」
「あぁ」
指示通りに右耳を上に向けるオーラン。もはや最初の不安など吹き飛んでいて早くもう一度あの快感を受けたいという気持ちが頭の中を埋め尽くす。
「あら?」
ふと、ジェリースライム片手に右耳を覗き込んだ店員の手が止まる。
「どうかしたか?」
「えぇ。ロッドスカルさんの右耳は耳垢栓塞ですね。これではジェリースライム式施術はできませんねぇ」
「耳垢栓塞?」
聞いたことのない単語だ。少なくともオーランが今まで生きてきた中で一度だろうとその単語が会話に出てきた事はない。
「まぁ要するに耳垢が栓になって耳の穴を塞いでしまっているんですね。この状態でジェリースライムを流し込んでも奥まで流れていかないんですよ。耳穴を塞いでる耳垢を除去しないと」
そういうと店員は壁際の棚の方へ行くと幾つかの道具を手に取り戻ってきた。それらは金属製の耳かき、ピンセット、それと耳かきのような形に先が曲がっているピックだ。
「では仰向けになっていただけますか?先程も言いましたが本来耳かきをする時は耳穴を上に向けない方がいいんですよ~」
言われたとおりに仰向けになるオーラン。身体がソファに深く沈み込む。どうもリクライニングソファは仰向けに寝る事を想定して作られているらしく心地よさから口から吐息のような声が漏れる。
「はい、そのままリラックスしていてくださいね~」
耳穴に何やら金属の漏斗のような形の物をあてがう。
「それは?」
「これは耳鏡といいます。この円錐のようなカーブ部分が光を上手く反射し耳穴を奥まで見やすくしてくれるのですよ」
そういうと店員は耳鏡を通して金属製の耳かきを耳穴に挿入した。
「ふむ、これは厄介ですね。張り付いています」
どうやら耳かきで触って耳垢の周りが張り付いているか調べていたようだ。
「取れないのか?」
「いえいえ、時間はかかりますがこの程度なら痛みもなく取れるはずですよ~」
店員は一旦耳かきを取り出し耳鏡を外した。
「医者なんかはピンセットなんかで無理やり引っこ抜いたりするんですがそれだと耳の中が傷ついてしまう事があるんです。それもきちんと処理しないと膿んでしまったり。なので少々時間がかかっても少しずつ剥がしていくのが安全で耳にも良いかと思います」
再び耳かきが挿入される。耳かきは、ごく優しくゆっくりとカリ…カリ…と耳垢の周りを掻き始めた。そこに痛みはない。ないのだが、オーランからしたら痒みの原因、その周りを弱い力で刺激され掻痒感が増すばかりだ。
「痒いでしょうけど少しばかり我慢してくださいね~」
もう少し強くできないか、そう聞こうとしたら先に釘を差された。おそらく、他の客からもそう聞かれるものだから言い慣れているのだろう。
我慢しろと言われてしまったのでオーランはもっと強く掻けと言うこともできずに痒みに耐えながら大人しくするしかなかった。
カリ…カリ…カリ…カリ…パリ…
それから五分程だろうか。今までとは少々違う感覚が耳の中に感じられた。
「剥がれたのか?」
痒みに耐えきれずオーランが聞く。
「そうです。と言いたいところですがまだ一部分が剥がれただけです。今のは耳垢の一部が崩れて取れただけですね。ほら」
店員が耳の中にピンセットを入れ崩れた耳垢をつまみ上げる。
ピンセットがつまんでいる耳垢はかなりの大きさの物だった。少なくともオーランはこれまでにこれほどの大きさの耳垢は見たことがない。それがまだほんの一部だと言うのだから言葉もでない。
(やはり大人しくしといた方が身のためだな)
耳垢をつまみ出した店員がまた耳かきで弱々と掻きだす。
やはりこの程度の弱さでは痒みは増すばかりだが我慢するしかない。
耳に物が詰まって聴力が落ちるのは戦闘を頻繁に行う騎士としては避けねばならない。そして何より一度認識してしまった耳垢を放置するのは気になってしょうがない、というのが本音だ。
カリ…カリ…カリ…カリ…
耳垢を削る音が右耳にのみ響く。ごく弱いそれは痒みが増すばかりではあるが音だけなら心地よさを感じる。
そうして、痒みよりも心地よさが勝りウトウトとしはじめた時、それは起きた。
ガリッ…ボコッ
「うぉ!」
夢の世界に傾きかけた意識が一瞬で現実まで引き戻される。
「い、今のは!?」
「えぇ、剥がれましたよ。これから取り出します。ピンセットを使う隙間がないのでこちらを使います」
店員が手にとったのは先程店員が棚から耳かき、ピンセットと共に持ってきた先の曲がったピックだ。
「このピックを耳垢に引っ掛けて引っ張り出します」
説明の後、ピックが耳穴に侵入する。
グッ、グッ
耳を掻く時とは異なる感覚。どうやらピックの先端を耳垢に突き刺しているようだ。
ズッ…ズズッ…
無事、耳垢にピックが掛かったらしい。耳垢が引きずり出される感覚がオーランを襲う。
耳垢が引きずり出される感覚は耳の痒みを増幅させる。
ボロッ…
ついに耳垢が耳穴から飛び出す。カラン、という音を立てて耳垢ごとピックがテーブルの上の金属製トレイの上に置かれる。
「ふぅ~。摘出完了です~。気をつけていたので大丈夫だとは思うのですが耳が痛いとかありませんか?」
「痛みはない。しかし痒い。限界だ」
クスッ、という短い笑い声が頭上から聞こえてくる。
「わかりました。では、ジェリースライム式施術ではなく普通に耳かきを使いましょうか。その方が痒みをとるには都合がいいです」
店員が再び壁際の棚に向かう。棚から取り出したのは竹製の耳かきだった。
「金属製よりも竹製の方がしなりがあって余計な力が掛かりにくいんですよ~」
そういって耳に入ってきた耳かきは確かに金属製の耳かきとは違った。
「耳かきに木製ではなく竹を使っているのか」
「えぇ、木製の物よりも丈夫なんですよ」
オーランが言いたいのは材料の強度などの話ではない。
カースランサムでは一般家庭の耳かきは基本的に木製だ。そもそも竹というのはカースランサムでは入手が難しい。
竹を特産としている国、シェスコーチカとカースランサムの間にはファランシアという国があるためシェスコーチカに行くには少なくとも二回国境を越える必要がある。
加えて単純に距離が離れすぎている。カースランサムに輸入品として竹が流れてくる量はごくわずかだ。
要するにカースランサムに置いて竹は貴重品の類いであり、オーランのような貴族はともかく庶民には手軽に入手できる物ではない。
「私の出身地では竹の耳かきというのは一般的な物なんですよ~。竹製の箸なんかもこっちでは高級品みたいですけど私の地元ではお手頃な価格で買える工芸品なんです」
箸というのはシェスコーチカに広く普及している食器だ。カースランサムの店でもたまに見かけるがだいたい銀製の物だ。
「君はシェスコーチカの出身なのか」
「えぇ、この店も元々はシェスコーチカで出店していたんですが3ヶ月前カースランサムに支店として出店させていただいたのです。これらの道具は支店を出す時に本店の店長、私の先生にお譲りいただいた物なんです」
この辺りでは高級な竹製品である竹製の耳かきが大量にあるのはそれが理由のようだ。
「先生というのは耳かきの先生なのか?」
耳かきが耳壁を掻く感触に気をよくしたのかオーランは普段よりも饒舌だ。
「はい~。本店で先生の下、五年程修行しました。そして先生から免許皆伝の証としてあの道具とここの支店長という役職をプレゼントしてもらったんです~」
「君は店長だったのか。すまない、ずいぶん若いものだから今までただの従業員かと思っていた」
これはお世辞ではなくオーランの本心だ。オーランも部下を持つ士官としてはかなり若い方だが彼女はそれ以上だ。
おそらくまだ二十代前半といった歳であろうに店長直々に指名され支店長になるというのはよほど可愛がられていたのかそれほどの腕前があったからか。
おそらくは後者だろう。今もオーランは彼女の腕前を披露され続けている。あまりの気持ちよさに眠ってしまいそうなくらいだ。
「私が店長だ、って話すと皆さん驚かれるんですよね。そんなに店長っぽく見えないでしょうか~?」
若さもそうだがおそらくはこのノンビリとした口調が原因なのではないかとオーランは思った。
「はい、おしまいですよ~」
そんなことを考えている間に耳かきが終わったようだ。いつの間にか仕上げの綿棒も済んでいた。
「もう終わりか。少し物足りなく感じるな」
「やりすぎは良くないですからね。少し物足りないくらいがちょうどいいんですよ~」
ソファを起こし、手早く耳かきの道具を元あった場所とは別の場所にしまう。煮沸消毒などの手入れをするため未使用と使用済みの道具は別々にしてあるようだ。
「それでは、本日の代金は6000メニです~」
「あぁ」
受付の部屋に戻ってきたオーランが支払いを済ませる。レジに1000メニ銀貨を六枚置く。
「はい、確かに。またのご来店をお待ちしております~。あ、でも耳かきはあまり頻繁にはしてはいけないんですよ?」
「あぁ、また来るよ。そうだな。一ヶ月くらい間隔を開ければ大丈夫か?」
オーランには『もう来ない』という選択肢は存在しない。すっかり店長の耳かきの虜だ。
「えぇ、それくらい間を開ければ大丈夫だと思いますよ~。それでは改めて、またのご来店をお待ちしております~」
最後までノンビリした口調の店長に見送られてオーランは店を後にした。
その日の彼はいつも以上に快眠だったらしい。