第三話 レジェンドの翔子ちゃん
詰め込み教育ではあったが、休日が無い訳ではなかった。
二日詰め込み一日休む。
脳の記憶回路を上手に使うためにはフル回転させ続ければ良い訳ではなかった。
ただし、回転させるときにはフルスロットルの回転速度を求められた。
俺達と言う素材の強度を計算に入れた上での教育密度でもあった。
もっと頭の良い人達なら、休み無しでも問題なかったのだろう。
あ、ゾンビ王子とかも引きずり込んじゃおうかなぁ?
◆ ◆
「ここがね~、私の育った町なんだ~♪」
翔子が先行する後を、三足歩行のナマモノが追いかける。もう一足分は翔子の手が担ってくれた。
今日は休みを利用して、翔子の故郷を訪ね歩いていた。
ただ、町を見て、暮らしを見て、触れて、食べて、感じて、記憶する。
それだって重要な文化の保存だと地学の先生が言っていた。
ただ言葉の羅列を後世に伝えたところで、その学問に意味は無いとまで断言された。他の学者の先生方も揃って頷いていた。流石は学問馬鹿。自分の専攻する学問を通して何かを伝えたがったが、受け取る側がポンコツなために中々伝わらなかった。ごめんちゃい。
「む、鷹斗よ、今、心で浮気しておったな?」
「う、浮気? どうして解った?」
「島に居た時と同じ~♪ 何か考え事してるのお見通しぞよ? ちゃ~んと、翔子ちゃんのこと見つめてくれなきゃイヤン♪」
「うん、そうか、ごめん」
また、サバイバル顔になっていたらしい。
今日は観光に来たんだ、考え事は現在進行形で頭を抱えている廃人眼鏡こと廃人そのものに任せておこう。
廃人眼鏡は家に帰った際「ついに現実と夢の区別がつかなくなった? 今流行の何とかハーブ?」と、随分なことを言われたそうだ。部屋は残っていた。ちゃんと居場所は残っていた。エロ本は机の上に鎮座していた。
……何処の母も、何故、男の子の心を抉りたがる?
「ま~た、う~わ~き~も~の~、そんなんじゃ翔子ちゃん先に行っちゃうからね?」
「ごめん。翔子が居ないと、俺、死んじゃうよ」
いや、マジで。三足歩行はキツイの、バランス取れなくて膝が死んじゃうの。
俺の命は翔子の手に握られていた。
おかしいな? ここ、日本なのに命の綱渡りしてるぞ? 日本は安全な国じゃなかったのか?
「よしよし♪ やっと翔子ちゃんのありがたみが解ったか。じゃあ、お礼は~子作りで良いよ?」
サラッと言うものだから理解が遅れた。
三足歩行が四足歩行に変わったが、今度は四本目の足が歩く邪魔を始めた。
「子供が生まれるまで~十月十日、運がよければギリギリで孫の顔を見せられるかも知れないでしょ? 鷹斗のお母さん、せめて孫の顔だけでも見たかったわ~って毎日言って来るの。翔子ちゃん、お姑さんから毎日プレッシャー掛けられてるんだよ?」
……いや、そのプレッシャーを理由にこの清らかボディを求められても複雑な気分なんだが。
翔子の生まれ育った町は田舎だった。
新宿や渋谷、池袋からすれば、何処だって田舎になるな。
田んぼが稀に見える、巨大なビルも有名ブランドのテナントも無い程度の田舎だった。
これを田舎扱いすると、本当の田舎自慢の人に怒られそうだな。オラが村よりは都会だ。
あ……五代目ヒロインのサリュちゃん連れてくるの忘れてたっ!!
あぁ……なんて……なんてこ、イタタタタタタタタタタ。
「翔子、なんでツネるんだ?」
「今、ほんとに浮気したでしょ? 鷹斗が塩の結晶眺めてる時と同じ顔してた」
「……それって、どんな顔なんだ?」
「ほんと~にっ!! 悔しいくらいに幸せ~な顔。どうして女の子二人を裏切って、塩の結晶なんかで幸せになれるのよ?」
俺が幸せな顔をして、心の底から幸せに浸っているのを理解しながら、貴様らは踏みにじってきたのか?
お前らは小悪魔ではなく本物の悪魔だな。
「それはな~複雑な男心だ。女にはこの浪漫は生涯理解出来ないものなんだよ……」
「鷹斗? 浪漫じゃご飯は食べられないのよ? 浪漫より大事にするべき女の子が居たでしょ?」
「はい、その通りで御座いました」
塩の結晶作りは完全な趣味だ。
そして男にとって趣味とは浪漫だ。
そして浪漫にうつつを抜かすと、生活に呆れられる。
……でも、シロ様も生活と全く関係の無いアレコレの開発に日々を費やしてたんだけどなぁ。
女の浪漫は許されるんだな。女尊男卑反対!!
「あ、ここ、ここ。この病院が~、翔子ちゃんの命を助けてくれた病院だよ♪」
地方の市営病院。
大学病院ほどではないが、町医者よりはよっぽど機材も人材も揃った病院だ。
「すっみませ~ん♪」
翔子は元気一杯の姿で受付に向かった。
……翔子、現役で病人の方々も居るんだから、空気読め。
今日は、翔子の過去を清算するためにやってきた。
支払えなかった入院費用、それがまず一番だった。
黒崎父さんとウチの父さんが、自分が支払うと言って火花を散らした。
十秒ほどでウチの父さんが完全敗北した。その気持ち解るよ、父さん。
だけど、ウチの母さんが次鋒を務めた結果、黒崎父さんを打ち破った。
すると、黒崎母さんが次なる壁として表れた。
火花とお茶とお菓子と会話を散らすこと三十分、折半と言うことで落ち着いた。
翔子は自分の負債を結局は他人に背負わせる形になって、居心地が悪そうだった。
少しでも、翔子の気を紛らわすための演技だったのかな?
その割にはウチの父さんと黒崎の父さんの背中が煤けていた。なんだか、友情も芽生えていた。
あれが演技ならオスカー像も夢じゃないだろう。
黒崎さん家のヒエラルキーがなんだか解った気がした。
高校生の頃の俺はウチは亭主関白だと思っていたけど、実態は違った。
ウチの父さんは、ただ言葉数が少ないだけの人だった。寡黙なのではなく面倒臭がり屋だった。
男にこそロマンチストが多いんだ。
言い換えるなら、地に足が着いてないカッコつけばかりだ。
女の人は現実に根ざしてる。
稀に夢見る乙女や勘違いした人も居るが、彼女達はATMさんが引き取ってくれるだろう。金持ちだし、暖かいし、愚痴も聞いてくれるし、弱音も吐かない、万々歳だ。問題はATMさんとお外へデートに行こうとすると警察官が飛んでくることくらいか。
過去の清算で、真っ先に病院の支払いを望んだ翔子の姿がそれを表現している気がした。
翔子は被害者であって、支払うべきは別の人物だと思うんだけどね?
黒崎父さんから翔子は「余っても返さなくても良い。自由になるお金も必要だからね?」と念を押されていた。
だから、この結末は予想済みだった。
「あのね……先生が、払ってくれたんだって……。参ったなぁ、翔子ちゃん、お金持ちになっちゃった♪」
ウチの家から百万円。黒崎の家から百万円。
翔子の父さんの話を聞く限り、健康保険の類に入っていた可能性も低い。
それだけの手術をして入院もしたなら、二百万でも足りない可能性があった。
「あと、お医者さんと婦長さんに怒られた。大手術の後にフラフラっと出てくなんて、命が要らないのかって怒られちゃった♪ カウンセリングの先生も用意してくれてたんだって……お腹のこと、辛いだろうからって……えへへ、翔子ちゃん悪い子だ♪」
周囲の人達は、俺が思っている以上に大人をしてくれていた。
黒崎父さんは前もって病院から支払済みであることを聞かされていたんだろう。
その上で、翔子の気が済むように送り出してくれていたんだ。
ウチの父さんは……何にも考えてなかった気がする。ワンテンポ遅い。
「流石に~、宇宙人さんに治してもらっちゃいました~♪ なんて言えなかったけど、元気にしてるって言ったら喜んでくれたよ? ……知らないうちに皆に心配掛けちゃってたんだねぇ~。ほんとうに翔子ちゃん悪い子だ♪」
中学二年か三年の女の子が、失って、お腹を駄目にして、病院から消えた……。
真っ先に自殺を連想するよな。自分が命を助けた女の子が自殺したと知れば、そりゃショックだ。
人の命が指の隙間から零れ落ちる感覚なら俺は知っている。
激しい無力感と際限無い後悔と自己嫌悪ばかりのどうしようもないクソッタレな感覚だ。
まさか、その後を一年間もホームレスで過ごし、更には宇宙人にレストアされて戻ってくるとは夢にでも思ったなら病院に行け。もしくは予知能力者か何かだ。病院以外の何処かに務めろ。そして隕石の落下を予知してくださいお願いします。
丸々余った二百万円は豪遊させてもらうことにした。
主に、タクシー代だ。
既に俺の膝が限界を迎えていた。
俺こそが今、この病院のお世話になるべきなんじゃなかろうか?
タクシーを使ってGO! YOU! だ。あ、俺も居るからGO! WE! だった。置いていかないで?
しかし、タクシーに全日貸切なんてサービスがあるとは知らなかったな。
メタボな俺と若干それより小さな巨乳の女の子。不思議な組み合わせの二人にタクシーの運転手さんが全日貸切というシステムを親切にも教えてくれた。
……ここまで、黒崎父さんが手配してくれていた。病院を出た俺たちをハイヤーがお出迎え。豪遊も許されなかった。
ウチの父さんがワンテンポ遅いなら、黒崎父さんはツーテンポ以上速い人だ。
色んな意味で格の違いを思い知らされた。父さん、ファイト♪
次に向かった先は翔子の実家だった。
翔子の、親元だった。
外から見ても一目で解るシングルルームのボロアパート。
六畳一間の1Kにユニットバス付きの、リゾートアイランド基準では大豪邸だ。
蛇口を捻るだけで水どころかお湯も出る。さらにはスイッチ一つで灯りも火も着くんだぞ?
これが大豪邸じゃなかったら何が大豪邸だ!! ただし、威圧感溢れる黒崎さん家は除く。
「豪邸だな」
「豪邸だよぉ? 凄いでしょ? でも、賃貸だから翔子ちゃん家のものじゃないけどねぇ♪」
そうでした、レンタル豪邸でした。
「火も使えるし~電気も使える。お水だってバシャバシャ出るんだよ? それに、なんと言っても雨漏りしないの、凄いでしょ?」
「凄いな、ほんとに凄い大豪邸だ」
自然のうちに翔子の頭を撫でていた。
このシングルルームで父と娘、二人で過ごしていたんだな……。
「でもねぇ~、この大豪邸にも不満があったんだ~、設備が不足してたんだよ?」
「火も水も電気も使えてもまだ不満か、そりゃ随分と贅沢な話だな」
「うん、翔子ちゃんはとっても贅沢な女の子なの。贅肉をふんだんに使った肉布団が用意されてないと嫌なの。だ~か~ら~、この物件はポイしちゃいま~す♪」
あぁ、宇宙人さんの知性すら上回る贅沢な肉布団。
今現在、時価にして地球上で最も贅沢な家具が備わってないと嫌なのか。
そりゃ贅沢すぎる女の子だ。罰が当たるぞ?
「……あのね、お父さん、居なかった。知らない人のお家になってた。……行き先は、刑務所だったのかなぁ? 網走までタクシーであばしらなきゃ駄目かなっ?」
俺は、翔子の父親の顛末を聞かされていた。
俺が、口にすべきだと有無を言わさぬ瞳で告げられた。
俺の、役目だった。そして俺以外に伝えさせる気も無かった。
「被害者不在のため検察が及び腰になり不起訴処分。家に帰ってからはアルコール三昧。そして肝硬変になって、一年と三ヶ月前に亡くなったって話だ」
「そっか……そっか~……折角、翔子ちゃんが知恵を絞って命懸けで逃亡してやったのに、自分勝手に死んじゃったか~。馬鹿親父のば~か……」
リゾートアイランドに翔子が連れて行かれた時には、もう既に亡くなっていた計算だ。
大手術を行った後にフラフラっと病院を出て行けるわけが無い。
激痛と苦悶の中で翔子は故意に病院を逃げ出したんだ。
警察が面会に来ても拒絶した。元々、病院側が被害者の精神面を考えて強く拒絶していた。
はやく翔子の父親を犯罪者にしてしまいたい警察と、女の子の心を守ろうとした病院と、そんな父親ですら守ろうとした翔子の思惑が重なって、そんな娘の心も露知らずに翔子の父は酒に溺れて亡くなった。
世間から見ればド畜生のクソ親父。翔子から見れば、それでもたった一人の肉親だった。
翔子の父親からすれば、翔子だけがたった一人の肉親だった。蹴っておいて……だからこそ、蹴ってしまったのか、たった一人の肉親だった。
生きてる人間の気持ちは解らないし、死んだ人間の気持ちはもっと解らないな……。
掛ける言葉が見つから無かったのでリゾートアイランド方式、無限ナデナデで誤魔化した。誤魔化されてくれた。
そして、しばらくすると俺の腕が攣って、心配される側が心配する側に変わるんだ。自称無限の有限だ。
今日はよく持った方だと思う。
腕が攣るのって、割と痛い。結構、すんごく、痛い。でも、翔子よりは痛くない。
最後に向かったのは、翔子の通っていた中学校だ。
計算すればたった二年と少しだ。十年引き篭もっていた俺ほど違いを感じるわけじゃないだろう。
それもまた、残酷だな。自分は大きく変わった、なのに、学校の校舎は何にも変わってない。
秋の平日、校舎の中では普通に普通の授業が行われていた。
「ここが~、翔子ちゃんの最終学歴の中学校だよ? 翔子ちゃんは高校に行けなかったから、中卒になるんだね~」
「翔子…………お前の最終学歴は小卒だぞ? 中学卒業して無いだろ? 俺は高校中退だから中卒だけどな?」
「……………………………………………………………………やだー!! 翔子ちゃん中学卒業したいっ!!」
中学校を卒業するため巨大隕石に立ち向かうのか、それは勇者の物語だな。
「まぁ、止めておけ。お前の身体は中学生男子には目の毒過ぎる」
「そっか、そうだね~♪ 男を惑わす魅惑の小悪魔こと翔子ちゃんでした♪ ……若い先生も惑わしちゃう、悪い子?」
「うん、悪い子だ。小悪魔だ。そして惑わされない俺は聖人だな」
「豚だけにブッダ? うわっ、鷹斗のジョーク、さむ~い♪」
そんなジョークは言ってない!!
そしてナチュラルに俺を豚と呼ぶなっ!!
翔子が寒いと言うから抱きしめてやった。これで暖かいだろう。そのための我が脂肪分だ。
カタカタと震えていた翔子の体が、そのうち暖かさを取り戻して落ち着いた。
学校って不思議だな。暖かかったり、寒かったり、そして、怖かったり……。
翔子が何に怯えていたのかは解らないがギュッと抱きしめていた。
大丈夫だ。解らなくても、大丈夫なんだ。
そう、とにかく大丈夫だとリゾートアイランドで学んだ。
ただ、ここは日本島だった。
二十代後半のメタボが、十代半ばの少女を中学校の正門の前で抱きしめていた。……事案発生中だ。
「えっと、そこの人達……お前、雛森か?」
「げっ!! ハゲ沢!!」
「滝沢だっ!! ちょっとこい!! お前には教師として話さなきゃならん!!」
……瞬間だが、翔子の中学時代の一面を垣間見た気がした。
魅惑とか小悪魔とか関係なく、普通に悪い子だったっぽいな。
学校にある来賓用のスリッパを初めて履いた。
普通のスリッパだった。来賓用なんだからもうちょっと気を使っても良いだろうに。
俺の通っていた中学校とは内装が随分と違っていた。
俺の通っていた中学校はタイルが一杯で全体的にゴツゴツでガサガサした感じだった。
翔子の通っていた中学校は、全体的にヌルヌルのスベスベだった。これは寝心地が良さそうだ。
……田舎なのになぁ。俺のほうが都会っ子なのになぁ。
ただ、十年ほどのジェネレーションギャップがあるだけだ。
しかし、学校の来客室なんて入る機会があるとは思わなかった。
小中高と毎日のように通いながら、校舎のなかで入っていない部屋が腐るほどあることに気が付いた。女子トイレとかな。
革張りの椅子は座り心地が良いのに居心地は悪い。不思議な感覚だ。
流石に学校の中で手を繋ぐのは躊躇われた。何となくだ。何となく、駄目な気がした。
事務のオバちゃんがお茶を淹れてくれた。美味しかった。
翔子はこの中学校を卒業していない。
だから、一応、この中学校に在籍していることになっている。
机も無く、椅子も無く、名簿にも載っていないが、卒業するまではこの中学校の在校生だ。
少なくとも滝沢先生の中ではそうだった。
なので翔子は滝沢先生からお説教を受けていた。
何も、詳しい事情など知らなかったのだろう。
もし、本当の事実を知っていたなら翔子に土下座しているところだ。
何度、お前んとこの淫行教師が翔子を傷物にしたから消えたんだよと怒鳴りたくなったことか。
でも翔子は「悪いことしちゃいました~♪」といった態度で、のらりくらりの全スルーを決め込んでいた。
滝沢先生とのそんなやり取りを、翔子は懐かしみ、楽しんでいるようでもあった。
邪魔しちゃ、駄目だよな……。
やがて授業の終わりを告げる懐かしのチャイムの音が聞こえると、生活指導の滝沢先生に代わって校長先生と俺よりも若い男の先生が入ってきた。
……そうだ、そうなるんだよな。
新卒の先生で、翔子がホームレスとリゾートアイランド生活を過ごして二年だから、計算上は二十半ばになる。俺よりも、若いんだ。
さっきから、ズキズキと心臓が煩くて仕方がない。
おい、心臓、さっきから煩いぞ!! 我が鼓動よ止まれっ!! 死ぬわっ!!
「えっと、雛森……さん。元気に、してたか?」
翔子はそんなギコチナイ男の挨拶も全スルーした。
「先生、病院代を『建て替え』てくれたんだって? ごめんね? ありがとう。それで、どれくらい掛かった? 二百万円で足りる?」
「あ、あぁ、百五十万と少し、だ」
「そう、じゃあ利子込みで二百万円。これで清算したから。じゃあね、さようなら」
翔子はポンと二百万円を机に置くと、俺を立ち上がらせようとして失敗した。
片手で持ち上げられるほど俺は軽い男じゃないぞ? 何のための三角関係か忘れたか?
隠しているつもりだろうけど、翔子の手が震えていたから俺の膝が震えることは無かった。
翔子が怯えるなら俺は怯えない。俺が怯えるなら翔子は怯えない。
オラが村名物のパオもどきだ。
しかし人間って帯つきの現生が出てくると、瞬間的に固まる生き物なんだな。
固まっているうちに、俺が先行逃げ切りの形をとり、翔子が手を引かれて後を付いてくる。珍しいレース展開だった。
むしろ、翔子の膝が笑っていたからつられて俺の膝が笑いそうになり困った。ここで転ぶのは流石にカッコ悪いので気合を入れて踏ん張った。
色んな人の色んな声が聞こえたが鼻歌交じりに全スルー。それが翔子の答えだった。
ハイヤーに乗り込むその瞬間まで若い男の先生が付いてきたが、翔子は無視を決め込んでいた。
俺が先に乗り込んで、翔子が乗り込み出発しようとするその際、翔子は言葉を交わした。
「ねぇ先生? 私の人生が百五十万円ぽっちだなんて思わないで? たったそれだけの金額で清算した気にならないで? 先生が私の人生をぶち壊しにした事実がそんなもので消えるとは思わないで? 先生が私の人生を壊したの。それが全てよ? さようなら、下半身に負けたお猿の先生」
贖罪の機会も、謝罪の機会も与えなかった。
ここは現実で、日本で、百五十万円はそれなりの大金だ。それだけの金額を支払うことで何かを清算した気になっていたのだろう。
清算した気になって、のうのうと教職を続けていたのだろう。
翔子はその清算を清算し、きちんとした事実を本人に返した。
愛し合っていた? だからどうした。
合意の上だった? だからどうした。
不可抗力だった? 俺は抗えたぞ?
事実は、一人の少女の人生をボロボロにした、その一点だけで十分だ。
「ねぇ? アタシ、悪い子?」
「あぁ、悪い子だ。滝沢先生をハゲ沢と呼ぶ悪い子だ」
「えへへ♪ そうだね~悪い子だね~♪」
運転手さんの目も気にせずに、翔子は俺の胸の中で泣いた。
何に対して泣いたのかはよく解らなかったけど、俺はただ頭を撫でて慰めた。
翔子の生まれ育った町は田舎だった
最後の言葉を耳にしたのは俺と翔子と若い先生と、地元のタクシー会社の運転手さんだけだ。
お金の話。少女の人生が壊れた話。下半身に負けた話。三つが繋がれば何がどうなったのか、簡単に想像が付くことだろう。
やることをやった、出来るものが出来た、起きることが起きた。ただ、それだけの話だ。ただ、それだけの悲しい話だ。
この道の先がどうなっているのか、それは……タクシーの運ちゃんのみぞ知る、だ。
運転が少しばかり荒々しいので、ちょっと今だけはプロ意識を持って交通安全には気をつけて欲しい。お願いします。その速度は怖いです。
道に信号が少ないから飛ばし放題だ。
…………翔子の生まれ育った町は田舎だったんだ。
◆ ◆
「私、中学校はギリギリ卒業しましたよ?」
「俺は高校を卒業したッスよ?」
俺は中卒だった。
シロ様も中卒だった。
廃人眼鏡は高卒だった。
翔子ちゃんは小卒だった。
さっそく三人でからかった。
伝説の最終学歴小卒。
「やだー!! アタシ絶対に中学卒業したーい!!」
今が四月過ぎなら良かったのになぁ。
残念ながら秋だ。今から通っても卒業のための出席日数が足りないぞ?
そもそも翔子は教育課程上では中学二年生らしいしな。あと二年かかる計算だ。
シロ様は、来年の春から夏休みまでの高校生活を優雅に楽しんでみるそうだ。
小柄な身体が違和感を感じさせない女子高生の誕生だ。
お前の場合はボンキュッボンで違和感だらけの女子中学生だから止めとけ。中学生男子には刺激が強すぎる。
隕石とも、違和感とも、年齢差とも戦う、色んな意味で勇者にならないと中卒にはなれないんだぞ?
黒崎父さんに頼み込んでみたらしいが、こればかりはどうにもならなかったそうだ。
伝説の勇者になるか、伝説の小卒になるか、それを選択する翔子様の自由意志による決断を尊重します。
宇宙人さんにも相談した結果、そのような答えが返ってきたそうだ。
……アホか。




