ドキッ! 欠勤者だらけの月末支店!
その猫は、話によるとロシアンブルーという種で、美しい灰色の毛皮と大きな耳、それから愛らしい長い尻尾をもっていて、待合席で英字新聞を読んでいた。それだけみると、ただほほえましい話のようだが、今俺はその猫のせいでのっぴきならない状況に追い込まれていた。
そもそも、俺がこんな状況の陥ってしまったのは自分のせいでもある。そう、昼食のソースカツ丼定食(大盛りスペシャルサラダ付き)を多少食べ過ぎてしまった、という点だ。
「さかもっさん」
外回りを午前中済ませてから、溜まっていた書類仕事を始めて30分、俺は完全な睡魔に襲われていた。いや、眠っていたのは一瞬のことだったと思うが、後輩のしなのの小突きで俺は我にかえった。
「おい、さかもと! ずいぶんと暇そうだな。稟議は書けたんか? あぁん?」
俺の大あくびは、しっかりとハゲ課長の視界に入っていたようだ。俺はもごもごと、言い訳をいいかけるとハゲ課長は醜い顔をいっそう歪めた。
「暇そうなさかもとくんに、ちょっとお願いがあるんだがな。今日は月末だから、窓が忙しい。しなのと一緒にちょっと応援に行って来いや」
ハゲ課長、42歳独身、多少小太り。はっきりいって、この支店の中でもっとも暇なのはこの男である。そして、最も使えない男でもある。ちなみに、本人が自覚しているのかわからないが、口がゴミ箱みたいに臭い。この世の最悪を集めて、精錬した上で悪意で表面処理を施したような男であるが、もっとも最悪なのは、この男が俺の上司であるという点だ。
「はー? 応援ならひわい君に任せたらどうですか?」
勇ましくハゲ課長に口答えするのは、しなの。2年目の新人で、今は保険と投信が担当している。愛らしい外見とは裏腹に、ズケズケとモノをいう。噂によると、よいところのお嬢さんらしいのだが、本人に聞くと「うちはギャンブル狂いのパッパが以外は普通の家ですよ」と言うので、よくわからない。
「あー、ひわいな。あいつ、首痛いからって帰ったぞ。だからお前らしかいない」
ひわいというのは、しなのと同期の男で変な車をいつも乗り回していてよく事故っている。月曜から首が痛いと言っていて、痛々しく首の周りにコルセットを巻いていた。また縁石に、あの変な車を乗り上げたというわけではなく、寝違えたといっていた。優秀な男で、英語とロシア語と猫語に堪能なのだが、壊滅的に運が悪い。
そして、この俺、さかもと。26歳独身。地元の国立を出て、そのまま地元の地方銀行南海銀行につとめて4年目。この地蔵坂支店は2店舗目で、去年から付き合ってる市役所につとめてる彼女はいるが、今のところ結婚の話はない。
4年目というのは中途半端な存在で、新人でもないしそれなりに経験も積んできてるわけだから、周囲の期待もある。かといって、まだ同期との間で決定的な差と言うのも生まれてきてない。ひわいのような、学歴も能力もばっちりな子だと、よほどな失敗もない限り本店のそれなりな部門にいけるだろうが(運が悪くても調査部門に)、俺のような特に何の強みも能力があるわけでもない者にとっては、この中途半端な状態が将来を分かつ重要な時期であると言える。
だからこそ、資格試験はいつも一発合格できたし、営業ノルマも順当にこなしてきた。地蔵坂支店は、南海銀行の中でもそれなりに格のある支店で、本店の近くにある古くからある商業中心地に支店を構えていて、すぐ近くにはあおば銀行や、産業帝都銀行といったメガバンク。それから、隣県の博多銀行や、「西日本のヤクザ銀行」と呼ばれる長州銀行みたいな外来の地銀の支店なんかもある。要するに激戦区だ。
そんな、同期もうらやむような環境にあって、最も大きな問題がこの目の前にいるハゲ課長だ。なんと言っても、絶望的に能力がない。暴言、パワハラ、セクハラまがいのこともやってるのを目にする。支店長を筆頭として、下は一般職にも広く嫌われている男で、なぜこんな男がクビにならないのか不思議なのであるが、一応は上司である。
「つべこべ言ってないで、お客さんコレだけ待ってるんだから応援に行って来いや。なんせ、さかもとくんは、居眠りするくらい暇そうだしな。おい、わかったか」
まぁ、ここでその話は終わる。最悪がやってきたのは、窓(窓口の営業)に応援に行ったその後のことだった。
「あの、さかもとさん。あちらのお客様が、外国送金をご要望だそうで・・・」
消え入るような声で、パン食の子が声をかけきたのは、応援に入って30分ほどした頃だった。反射的に時計を見ると、2時ちょっとすぎ。営業時間終了を前に、窓の混雑が最も激しくなる時間のひとつだ。殺人的な時間、そう殺人タイム。
「しなのくん、悪いけど32番の番号札でお待ちのお客様、外為らしいんだけどちょっと対応頼めるかな?」
俺は、反射的に目に入ったしなのに声をかけたが、彼女はポニーテールの髪を振り乱しながら言った。
「ぶっぶー! 私、英検6級なんですよっ! そういうのは、港町で百戦錬磨の経験積んだ、さかもっさんがやられたほうが効率いいんじゃないですかっ!」
そういって彼女は小走りにローカウンターのほうに姿を消した。確かに、前の支店(つまり最初に配属された )港町支店というのは、輸出企業が多い関係もあり外為業務が多い支店でもあった。とはいえ、リテールが主な俺にとって、個人客の送金業務を時々やるくらいなもので、多少経験が多いくらいなものである。
英検6級という資格が存在するかどうかは別として(そもそも俺自身TOIEC650点を低迷している)、外為業務、特に外国送金というのは別に英語力が必要という業務ではない。外国為替業務を取り扱っている支店でも、外為業務は顧客に書類記入を行ってもらい、それを本部の外為センターにFAX(このIT化の時代にあって!)して処理をしてもらうだけの話である。語学力などと言うものは特に必要はない。
要するに、外国送金の取次ぎというのは、書類の記入内容が正しいかどうかを判断する、という点だけで足りる話なのだ。みんなが嫌がるのは、あまり経験がない上に、定常的に発生しない業務なので「わけがわからないので」嫌がってるだけなのだ。いくつか注意しないといけないところに気をつけていさえすれば、楽勝な業務だ。
「ポーン! 32番の番号札でお待ちのお客様。6番の窓口へお越しください」
そんな甘い考えで、引き受けてしまった番号札で現れたのは、例の灰色の妖怪であった。ここからが、俺の憂鬱の始まりなのであった。




