File098. ハイエルフ族
抱えたカゴには、すでに結構な量の山菜が入っている。
陽に照らされた巨木を見上げると、少女は腰に付けていた布で汗を拭いた。
枝と枝の間で光る“精霊騎士”の位置はすでに高い。
(ぎょーさん採れたし、そろそろ帰ろ)
そんなことを考えながら、サナトゥリアは足元に落ちている枝を足先でつついた。
朝にこの獣道を通ったときには左右から容赦なく伸びていたはずの枝葉が、今は折られて地面に散らばっている。
隣の山にいるはずの大熊が、縄張りを離れてこちらまで来たのかもしれなかった。
ただ、刃物で切り払われたようにも見える枝先が、幼いサナトゥリアの心に漠然とした不安を生んでいた。
帰途につくサナトゥリアの長い耳が、ピクリと小さく震えた。
鋭さを増した目つきでそっと道を外れ、音を立てることなく茂みの陰に身を潜める。
森に流れる緩やかな風が葉擦れの音を運び、遠くを流れる川のせせらぎが微かに耳に届いた。
そのまま数分が過ぎると、複数の足音と声が近づいてきた。
「――っかりだぜ」
「ですよね。まあでも、ちょっとしたストレス解消にはなりましたよ。あのじじい、魔道士隊の隊長に顔が似てましたし」
「あ、それ、俺も思ったっす。魔道士隊の奴ら、魔法を使えねぇ弓兵隊の俺らをいっつも見下しやがるんすよね。スカッとしたっすよ」
サナトゥリアと老人の小屋がある方向から、耳の長い三人の若い男たちが歩いてくる。
茂みの陰からその姿を確認したサナトゥリアは驚いた。
老人以外の人間を目にするのは初めてだったからだ。
特にリーダー格らしき男の外見が目を引いた。
一般的にエルフ族はヒューマン族より肌の色が白く、髪も明るい色が多い。
だが、その男の肌と髪は病的なほどにさらに白く、赤みがかった瞳が目立っていた。
身体も小柄で、両脇にいる二人より明らかに弱そうにサナトゥリアには見える。
それでもその男がリーダー格であることを、それぞれの態度が示していた。
「おまえら、簡単だな。俺は納得してねぇぞ。禁断の山に住んでんのが、あんなじじいってな、どーいうこったよ?」
「あ、そうですね。禁断の山には“悪魔憑き”の美女が棲んでいるってぇ噂だったのに。“悪魔憑き”なら人権もねぇし大した魔法も使えねぇから、俺らが好き放題できて罪にもならねぇって筈だったんですよね」
「いたのは、じじい一人だったっすからね。ムカついて思わずボコボコにしちゃったっすけど……まさか、死んじゃぁいないっすよね?」
「かまうこたぁねぇよ。“悪魔憑き”なら問題ねぇし、禁断の山にいるってぇ時点で、まっとうな人間じゃねえこたぁ確かだ」
男たちが漏らす笑い声に、ガサガサと草を掻き分ける音が重なった。
一瞬驚いた彼らだが、その音が猛烈な勢いで遠ざかっていくのを確認するとすぐに気にしなくなった。
枝を掃った後の下り道とはいえ、山を出るまでに半日近くかかるのだ。
逃げていく獣を追う余裕はなかった。
「急ぎましょう。禁断の山に来ていることが隊にバレたら、いくらハイエルフのテギニスさんでも、さすがにマズイですよ」
「ああ、そうだな。帰ったらパーティすんぞ。美人の彼女持ちが新人にもう一人いるそうじゃねぇか」
「え、また貢がせるんすか? 二週続けてだと、さすがに足がつかないっすかね? そのふたり、たしか訓練兵時代からの優等生カップルで、隊長らにもウケがいいって――」
テギニスと呼ばれた男の目つきが険しくなる。
「ああ? 俺らはここまで苦労してやってきて、なんも報われてねぇんだぞ。別のご褒美があって然るべきだろうが?」
「そうそう。それに、テギニスさんに逆らえる新人なんてもういねぇよ。先週の奴らも隊長に訴えるなんて言い出さなきゃ、事故に遭うこともなかったのによ。馬鹿な奴らだぜ」
「はは……そうっすよね。隊長たちだって、ハイエルフとは揉めたくねえってのが本音でしょうし」
ダラダラと歩く男たちは三人とも十代後半であり、それくらいの年齢であればエルフ族でも外見と実年齢との間に差はほとんどない。
それはエルフ領に暮らしながらも、とある理由で富と一部の治外法権を有する少数種族のハイエルフも同じである。
男たちが歩き去った後の茂みの陰には放り出されたカゴが転がり、山菜が散らばっていた。
***
必死に山の中を駆けるサナトゥリア。
小屋の前へたどり着くまでに、それほど時間はかからなかった。
最近の老人は身体がすっかり弱っていて、一日のほとんどを寝て過ごしている。
老人の優しい笑顔と、たった今聞いたばかりの恐ろしい話が頭の中でうまく結びつかなかった。
急いでドアを開ける。
「じーちゃん……!」
すぐに中の暗さに目が慣れて、サナトゥリアは動かない老人に駆け寄りヒザをついた。
そして、目を見開く。
「じ、じーちゃ……」
顔も腕もアザだらけの老人の瞼が、震えながらゆっくりと薄く開いた。
いつものように皺だらけの右手でサナトゥリアの頭を撫でようとするが、腕が途中までしか上がらない。
その腕の痛々しさが、手を握ることをサナトゥリアに躊躇させた。
「だ……大丈夫やぁ、サナ。あいつらぁ、サナのことには気づいてへん……」
「じーちゃん、しっかりしぃ!」
腹の一部が陥没し、左腕と両脚が変な方向に曲がっている。
身体の中で、無事なところはどこにも無いように見えた。
「約束してや、サナ……里の人間には近づかんて。絶対に……山ぁ降りんて」
「うん、うん、約束する。じーちゃん、うち、どないしたらええん? どないしたら、じーちゃん助かるん?」
「…………」
優しく微笑む老人。
そして、――動かなくなった。
生命の火が消えた老人の顔を、サナトゥリアはじっと見つめていた。
それからゆっくりと立ち上がり、老人が残してくれたもののことを考えた。
食料の調達法、小屋の修理の仕方、服や靴の作り方――。
そのどれもが、今のサナトゥリアにはどうでもよかった。
(それから……四つの汎数1の魔法)
最初に教えられたのが〈薬杯〉だった。
“白”、“発”、“中”の三つのモードをすべて使えるようになっている。
(でも……〈薬杯〉じゃ、役に立たん)
死んだ人間は生き返らない。
たとえ死ぬ前であったとしても、生きているのが不思議なくらいの重傷だった老人を〈薬杯〉のような低汎数の回復魔法で救えるはずもなかった。
(次、教わったんが――)
小屋の中に、サナトゥリアの幼い声が響く。
――高目移行放棄・汎数1
――通模・要俳
――解にて塵に帰し、列をもって再なる全と成す
――転配
――役名
「〈離位置〉」
老人を埋葬する前に、彼女にはやることがあった。
***
二回の〈離位置〉でサナトゥリアは見つけた。
まだ山を降りる途中の三人組を。
歩きにくい獣道を面倒そうに歩く男たちのちょうど後方に、サナトゥリアが最後の〈離位置〉で姿を現した。
「……じーちゃんに、何の恨みがあったっていうん?」
いきなり背後からかけられた声に三人の足が止まり、ゆっくりと振り返る。
「ほお」
テギニスが赤い目を細めて両側のふたりに合図を送った。
「……いましたね。思ったより幼いようですが」
「うわ、ロリじゃないっすか」
少女のみすぼらしい衣服が、里に暮らす者ではないことを露呈していた。
「……噂が真実となった瞬間だな」
「ちびっこいのは趣味じゃぁないんですが、顔は美人ですね」
「あ、俺は好きっす。ここなら、何をしてもバレないんすよね? いいんすよね?」
服や靴は傷んでいるが、少女の金髪はきれいに手入れされ肌にはツヤがある。
何より意志の強さを示す美しい双眸が、男たちの征服欲を刺激した。
「じじいへの恨みか……恨みね。……恨みはねぇが、おまえみてぇな美少女を山奥に閉じ込めてひとりで楽しんでいやがったロリコンじじいを、俺たちが成敗してやったってぇところだな」
「そうそう、俺たちは正義の味方よ」
「悪のじじいから美少女を救い出した俺たち……いいっすね。かっこいいっす!」
サナトゥリアの目が細められた。
すでにこの人間たちを罰することに決めていた彼女だが、そこに情状酌量の余地がないことを知る。
男たちが彼女を囲むようにゆっくりと広がった。
少女が本当に“悪魔憑き”かどうかはわからないが、見た目は五、六歳の幼い少女である。
いずれにしても汎数1より上位の魔法を使えるとは思えなかった。
彼らが慎重になっている理由は〈離位置〉で逃げられるのを恐れてのことだ。
詠唱が終わる前に押さえ込んで、口を塞ぐつもりだった。
「許さへん……絶対」
唇を噛むサナトゥリア。
心のうちに膨れ上がる憎悪は、年齢相応の容量をとっくに超えていた。
取り囲まれ、男のひとりが手を伸ばしてきたタイミングだった。
彼女がこの二か月で覚えた三つめの魔法が発動する。
「〈燐射火囲包〉!」
「ぅ熱っ!」
「こいつ」
小さな炎が男の指先を熱して驚かせた。
その隙に背を向けて獣道を駆け上がる少女。
「あんな子供が事前詠唱だと? マジかよ」
「びっくりっすね。魔道士隊の奴らより優秀なんじゃないっすか?」
「だがやはり汎数1の魔法しか使えねぇようだな。〈一気通貫〉だったらしばらく動けねぇとこだ」
にやりと笑うテギニス。
「追うぞ。小屋まで一本道――楽しい狩りの時間だ」
やがて男たちは、少女が道をそれて茂みの中に飛び込むのを見た。
「小屋まで行っても逃げ場が無くなるだけって、気づいたんすかね?」
「あのちんまいのに茂みの中をチョコマカされると面倒ですよ」
「急げ。ここまできて逃がすかよ」
彼らにはドワーフ族ほどのタフさは無い。
それでも弓兵隊で鍛えられている肉体派だ。
まるで肉食動物のような獰猛さで、少女が飛び込んだ茂みに突っ込んだ。
「痛っ」
「何だ?」
激痛を感じて怯む男たち。
目の前にサナトゥリアが立っていた。
腕を組み、無表情で男たちを見つめている。
ブゥーン
すぐに不気味な音が響き渡り、うねる黒い霧に視界が覆われた。
「ああああああああああ!」
「ぎゃああっ」
「ぐああああ!」
森に絶叫が上がった。
「オオタカバチて、知っとる? 二回続けて刺されると、即死するんやて」
淡々と語る少女。
その身体が青い光の膜で覆われている。
覚えたばかりの四つ目の魔法――〈衣蔽甲〉が、彼女の身体をオオタカバチの針から守っていた。
藪の奥にそびえる巨木の根元には大きな洞があり、そこに高さが一メートルを超える塊があった。
オオタカバチの巣だ。
そこに荒々しく近づいた侵入者を、ハチたちが許すはずもなかった。
動かなくなった三つの人の形をしたもの。
それらを見おろす少女の頬に、涙が滴った。
「仇はとったんよ、じーちゃん。うち……これからひとりで、どないしたらええん?」
禁断の山は何も語らず、ただ静かに少女を包んでいた。