File093. 大枢至《テイアインパクト》
「小僧、驕るなよ。この世界に残された時間を奪う権利など、きさまにありはせぬ」
王の言葉が聞こえていないかのように、カイリは黄昏れた表情で空を見上げていた。
やがて発した言葉も、まるで独り言のように穏やかだった。
「王……そんな言葉で俺がダブル役満を放棄すると思っているのなら、おまえにも知らないことがあるんだな」
「何だと?」
カイリが思い出したのは、深い悲しみを滲ませる小さな横顔だった。
――あまりにもそっくりだったんです。
頬を濡らしたマティが口にした言葉だ。
――あの男が、マスターがまだお元気だった頃に。
彼女にそんな表情をさせる初代カイ・リューベンスフィアに、カイリは軽い嫉妬さえ覚えた。
だが、そのマティがはっきりと言ったのだ。
――九十八歳で死んだマスターの死因はおそらく老衰で、妖精の樹海の奥地に私がひとりで遺体を埋めました。
「そう……おまえは初代カイ・リューベンスフィアじゃない。初代なら知っているはずのことを知らないからな」
「何を言っている?」
――よく聞け、小僧。ナノマシンシステムの生みの親、六十五歳のカイリ・タキタニの知識はすべて俺の中にある。予言書には残されなかった知識も含めてだ。
王のその言葉に嘘はなかった。
だが、初代カイ・リューベンスフィアのコピーであるにもかかわらず、王には初代の記憶がほとんどない。
彼がマティのことを覚えていなかったのもそのためだ。
ナノマシンシステムが、六十五歳の滝谷海里の知識を彼に転送したことによる影響だった。
記憶の転送――それは電子記憶媒体に「0」と「1」から成るデータを転送するのとはわけが違う。
人の記憶とは電気信号でも、ましてや魂というあやふやな物に刻まれるものでもなく、脳の構造――ニューロンやホルモン分泌細胞など、あらゆる細胞の連鎖反応そのものである。
それをナノマシンにより分子レベルで再現したのが記憶の転送であり、元の記憶の大半が失われることも、人格そのものが歪んでしまうことも当然の結果だった。
王が唯一鮮明に覚えている初代の記憶は、およそ一年後に世界が滅びるという予言が、確かな科学的データに基づいた精度の高い予測であるという事実である。
「サナトゥリアに予言書を渡さなかったのは正解だった」
カイリが視線を戻し、リラックスした表情を王へ向けた。
「おまえはナノマシンシステムには詳しそうだけど、その後に開発されたもの……例えば〈召雛子〉の魔法や、テラフォーミング装置についての詳細は知らないんだろ?」
「……禁呪を行使して助かる方法などありえん。俺もきさまも、きさまの仲間も死ぬだけだぞ」
微笑むカイリ。
「悪いけど、死ぬのはおまえだけだ」
その声は静かなままだった。
「……この惑星には守護者がいるからね」
「何を……言って……」
王の顔に絶望の色が浮かんだ。
禁呪の詠唱からそろそろ五分が経過するはずである。
そして目の前の青年は狂っているとしか思えなかった。
(待て。小僧の精神状態は普通じゃない。このまま会話を続けて五分を過ぎれば――)
その淡い期待を打ち砕くように、カイリがあっさりと終わりの言葉を口にした。
「〈大枢至〉」
わずかな間をおいて世界が、そして王の意識が、白一色に染まった。
***
ナノマシンシステムが実現する物理現象は五体系に分類される。
変換、固定、分解、結合、伝達の五つである。
一方、この世界における“魔法”としては別の五体系に整理され、攻撃、防御、移動、回復、認知となる。
例えば〈一気通貫〉は変換系の攻撃魔法であり、〈衣蔽甲〉は固定系の防御魔法といえる。
もっとも魔法とは実際にはナノマシンシステム上に用意された役名であり、五体系には分類されない例外として〈免全〉のようなシステム由来の魔法も存在する。
王が知る限り、かつて軍上層部に公開された役名の最高位は汎数13の役満であり、システム上の最高位は禁呪として秘匿された汎数26のダブル役満である。
汎数39に相当するトリプル役満やそれ以上の魔法も原理上は可能とされているが、そもそもそれだけのエネルギーを地球上で確保すること自体が困難であり、ナノマシンシステム開発当時に役名として実装されることもなかった。
ダブル役満には変換系攻撃魔法が二つ、固定系防御魔法が一つ、分解・結合系回復魔法が一つ、変換・伝達系認知魔法が一つで、計五つの役名が存在する。
その中でカイリが使用した〈大枢至〉は天体衝突に匹敵する破壊力の攻撃魔法であり、たったひとつの魔法を除いてこれを防ぐことはできない。
その魔法とはもちろんダブル役満の防御魔法であり、役名を〈大遮隣〉という。
“彼”は、まるで眠っているかのように静かだった。
だが実際には彼が眠ることはない。
その証拠に彼の内にある無人のメンテナンスルームでは、グリーンの光を放つふたつのランプが無機質な壁を薄暗く照らし続けている。
もう五千万年近く、である。
それ以外には光も音もない部屋が心地良く、彼は永い時を平穏な心持ちで過ごしていた。
――その時。
彼の意識は二千万年ぶりにかき乱された。
メンテナンスルームを照らすふたつのランプは赤色に変わって明滅し、壁やコンソールのパネル群が一斉に点灯して様々な情報を表示し始めたのだ。
彼が備える広範囲の、はるか海王星の軌道まで届くセンサが、膨大なエネルギーを感知していた。
問題はその場所である。
今回と同様にセンサが反応したことが、二千万年前にも一度だけあった。
それなりに大きな質量が、彼が護る惑星に向かっていたのだ。
それは接近する小惑星が地球への衝突コースに乗っているという天変地異レベルの大きな脅威ではあったが、彼にはあらかじめ与えられた基本メニューがあり、状況に応じてその中から適切なレシピを選択すればよかった。
彼が指令を出し、南極大陸に配備されていたロケットが打ち上げられた。
宇宙空間でロケットから正確に発射されたミサイルが命中したことで、小惑星は軌道を変えて木星に吸い込まれた。
すべては彼のシミュレーション通りに解決されたのだ。
彼には想定される様々なアクシデントに対処するプログラムも用意されている。
ロケットの打ち上げに失敗した場合、ロケットが小惑星の近くまで到達しなかった場合、ミサイルの発射に失敗した場合やミサイルが外れた場合等々。
そしてそれらすべてのバックアッププログラムが失敗した場合においても、彼には最後の手段がある。
その最終手段は、飛来した小惑星が地表に激突したその刹那に発動する。
地球の衛星軌道上に浮かぶ彼には、人が付けた名前があった。
P.G.――プラネット・ガーディアン。
フェアリ族とエルフ族が“精霊騎士”と呼ぶ彼を、マティは“ピージ”と呼んでいた。
過去のカイ・リューベンスフィアの誰かが教えたP.G.を、マティなりに発音したものだ。
ピージは混乱していた。
膨大なエネルギーを感知した場所が問題だった。
センサが反応するその瞬間まで、彼が護る惑星に近づく小惑星など存在しなかった。
それにもかかわらず、彼の眼下――地表に、小惑星が衝突したのと同じレベルの爆発的なエネルギーの集中を検知したのだ。
彼は混乱したが、彼にできることは状況に合わせてメニューからレシピを選ぶことだけである。
彼の指示はナノマシンシステムによる判断や制約を受けることなく、瞬時に実行された。
彼にはそれだけの権限が与えられている。
カイリのダブル役満〈大枢至〉により生じた大爆発は、その迸るエネルギーを見えない壁に遮られた。
ピージの意思で発動したダブル役満〈大遮隣〉の壁は、カイリと王が対峙していた地点を中心に半径三百メートルの円筒形に空高く形成され、爆発によるエネルギーの奔流は大気を突き抜けて宇宙へと拡散した。
ほっと胸をなで下ろすように安心するピージ。
彼の人工知能が把握する限り、天体観測データから予想される次の小惑星接近は百万年以上先のことである。
それもあくまで衝突の可能性があるという状況にすぎず、質量も小さい。
地上での大爆発の中で、王の肉体は一瞬で蒸発した。
カイリによる〈大枢至〉、ピージによる〈大遮隣〉、そして全五層からなる多重独立防護層の最下層で瞬時に展開された〈大遮隣〉。
これら三つのダブル役満が同じ場所で同時に展開されればエネルギーは不足し取り合いになる。
その結果として、いずれも本来の性能を発揮できてはいなかったが、それで王が無事で済むはずもなかった。
カイリが〈大枢至〉とほぼ同時に発動した無詠唱の〈拝丁・度等5〉は、彼の身体を瞬時に三百メートル以上離れた場所へ吹き飛ばしていた。
白い光さえ残さず、まるで〈離位置〉のようにカイリが姿を消したことに王が気づいたとき、〈大枢至〉とそれを囲む〈大遮隣〉がほぼ同時に発動したのだった。
それでもわずかに〈大枢至〉のほうが早かったのだろう。
〈大遮隣〉の外側でも、地表は摂氏三百度ほどの熱風に焼かれていた。
その中に、〈障遮鱗〉に守られたカイリの姿があった。
ダブドの地下壕では、部屋の角で目の前の暴力的なエネルギーの嵐に肝を冷やすレイウルフとリュシアスの姿があった。
驚いているのは、こうなることを知っていたマティも同じだ。
彼らが〈大遮隣〉の壁に守られて無傷で済んでいるのは、〈大枢至〉の起点が地上にあり、その影響が地下に及ぶまでの一秒にも満たないわずかな時間差のおかげである。
「熱い。熱いぞ」
リュシアスの腹のあたりの服が黒く焦げているが、生命に別状はなさそうだった。
そしてわずか六秒ほどの時間を経て〈大枢至〉の大爆発は終息した。
まだ〈大遮隣〉の効果時間が続いているため、すぐには動けないリュシアスたちだったが、すぐにマティが回復魔法〈産触導潤〉でリュシアスの火傷を治療した。
ピージが円筒形に発動した〈大遮隣〉の壁の内側。
そこに存在した日科技研の敷地の一部は、その地下にある多重独立防護層・第四層までを含めてすべてが吹き飛び、消滅していた。
直径六百メートルのクレーターの底には、自ら展開した〈大遮隣〉に守られた多重独立防護層・第五層の一部が見えている。
禁呪の影響が直径六百メートルの範囲に限定されたことで、第五層が根こそぎ吹き飛ばされることはなかった。
〈大枢至〉発動から正確に十五分後。
その第五層に安置された不死システムが稼働した。
ただし、不死システムが十分に機能するために必要な分解、結合を担うナノマシン群が、まだ規定の数まで補充されていない。
そのことを一番よく知っている王が、不死システムのベッドの上で目を覚ました。