File092. 禁呪
事前詠唱には有効期限が存在し、その期限を過ぎれば魔法は発動しない。
有効期限の長さは役名ごとに決められており、安全上の理由から暴発時の危険度が高い魔法ほど短く設定されている。
そのため特に攻撃魔法の有効期限は短く、さらに高汎数の魔法になればなるほど短いという特徴がある。
今カイリが唱えている魔法の有効期限は役満よりも短く、五分しかない。
その有効期限を無期限に上書きする〈方定〉という隠し役名も存在はするのだが、その対象となる魔法は汎数13以下に限られる。
そのため、やはり今カイリが唱える魔法には適用できない。
彼が詠唱している魔法の汎数は、26なのだから。
「ばかな……やめろ小僧……それを地上で使って、どうなるかわかっているのか?」
王の濁った目に落ち着きはなく、額には汗が浮かんでいる。
「……無茶だとは、わかってる」
九十秒間の長い詠唱を終えたカイリが答えた。
役名を明示する前に言葉を発したことで、彼が事前詠唱として設定したことがわかる。
「ダブル役満――将来、宇宙戦争にまでナノマシンを持ち出すことを想定した役名だ。この規模のエネルギーを地上で解放すれば、二次、三次の災害も含めて人類は地上から消えるかもしれない」
冷めた目で笑うカイリ。
「地球上では“禁呪”とされる魔法……だけど、どうせあんたからセイリュウを奪えなければ世界は滅びるんだ」
「くそっ、間に合わん」
今カイリが唱えた魔法の有効期限は役満よりも短く、五分しかない。
つまりあと五分もたたないうちに、カイリが禁呪を発動させる可能性があった。
狼狽する王。
あと数時間は〈離位置〉を使えず逃げることはできない。
ダブル役満の攻撃魔法に耐えようと思うなら、同じダブル役満の防御魔法で防ぐしかない。
だが今からそんな高汎数の魔法を詠唱していれば、その長い詠唱が終わる前にカイリは余裕で魔法を発動するだろう。
そして彼らの直下――その地下深くには、王が自分の身よりも心配するものがある。
――多重独立防護層・第五層に眠る不死システムである。
***
「初代からの指示はなんて?」
尋ねるサナトゥリアに背を向けるレイン。
「……俺への指示だ」
それだけを口にしたレインが多重独立防護層・第一層管理室で働く二十四体の家の精全員を集めた。
「……ついてこい」
その言葉は二十四体の家の精に向けられたものだったが、サナトゥリアに向けられたようにも聞こえた。
本来であれば、そんなはずはない。
そうであればレインは、明確にサナトゥリアへ指示を伝えたはずだからだ。
無言のまま部屋を出るレインに他の家の精たちが続き、小人の行列をつくる。
小さく微笑んだサナトゥリアが、迷わずその中に混ざった。
***
人の姿に戻ったセイリュウが海面に立っていた。
その近くに浮く分厚い板状の氷の上にはビャッコ、ゲンブ、スザクの三人がやはり人の姿で立っている。
互いの思惑が一致している以上、争いに意味はなく、そうであれば竜の姿でいる必要もなかった。
ただ黙って向かい合っているだけだった彼女たちが、ほぼ同時に顔色を変えて足元へ視線を落とす。
「これは……役満? いえ、そんな汎数じゃない。こんな……これってまさか……」
その変化をもっとも敏感に感じ取ったゲンブが声を震わせた。
海のさらにその下。
海底の地下深くを、とてつもない量のエネルギーが一方向へと流れ集められていく。
「他の大陸からもエネルギーを奪ってる? こんなの、プレートごと吹き飛ぶ規模よ……地球が壊れるわ」
ビャッコの怯える声をかき消すように、静かにつぶやくセイリュウ。
「ダブル役満――“禁呪”が使用されるのは、システム完成以来、初めてのことでしょうね」
「どうしてっ? セイリュウの主人は、今すぐ世界を滅ぼすつもりなのっ?」
叫ぶスザクを見て、セイリュウが微笑んだ。
「ご主人様はそんな魔法を使いません。少なくとも、あの場所では絶対に。おそらく、あなたの主人でしょう」
「そんなっ」
愕然とするスザク。
「世界を救うカイリが、そんな魔法を使うわけないよ。そうでしょ、ゲンブ、ビャッコ姉っ」
「…………」
誰も何も答えなかった。
ただ、自分たちがこの場にとどまる理由が無くなろうとしている――そう感じていた。
***
「ここじゃ駄目よ。あっちの端に寄って。全員、今すぐに!」
そう大声を上げたのはマティだった。
それを見たリュシアスが呆れたように声をかける。
「なんだ、テク。ダブドの作ったこの地下壕へ急げと言ったのはおまえだろう。安心しろ、俺たちがモタモタしていた間に、ダブドが壁の厚さを百メートル以上に厚くしてくれていたのだ。入口も塞いだし、たとえビャッコの全力攻撃でも耐えると思うぞ。それに、部屋の真ん中だろうと端だろうと変わらぬだろう。落ち着け、テク」
――ドガン
その瞬間、リュシアスの踵と顔面の近くで爆発が起きた。
ものすごい勢いで後ろに転がる丸い肉体。
「な……」
「あー すごい の」
驚くレイウルフと感心する土の精のダブド。
壁に激突し、尻もちをついたまま額をさするリュシアスの顔は青い。
「だ、誰かテクに酒を飲ませたのか?」
これくらいで大けがをするようなドワーフ族ではないが、かなりの痛みと過去のトラウマによる怯えを感じているように見えた。
首を横に振ったレイウルフが、簡易宿舎での出来事を思い出す。
――テクも飲むか? ……あ、いや、何でもない。
エステルが大切に残していた酒を、リュシアスがひとりで飲んでしまったときの一幕だった。
慌てて酒瓶を引っ込めたときと同じ表情のリュシアスがつぶやく。
「そうか、飲んでいないということは、本気で怒っているのだな、テクは。おまえらも急いでこっちに来たほうがよい」
主人の様子が尋常ではないことを悟ったダブドが、慌ててリュシアスの指示に従った。
レイウルフは冷静に今起きた現象を分析している。
(あのような爆発魔法は見たことも聞いたこともありません。先ほどテクニティファ様は汎数13の魔法を使ってみせましたが……やはり私が知らない高位魔法なのでしょうか……)
実際にはマティが習得している高位魔法は〈枢暗光〉と〈龍威槍〉の二つだけである。
そしてレイウルフはすぐに気づいた。
(いえ、テクニティファ様が高位魔法を習得されたのは、少なくともカイリが召喚されてからのはず。リュシアスが今の魔法を知っているということは、おそらく先代カイ・リューベンスフィアと旅をしていた九十年前には習得されていたということになります……)
恐怖に顔を引きつらせたリュシアスが口をぱくぱくと開閉しているが、レイウルフがそれに気づく様子はない。
(考えられるとすれば、今の魔法の正体はおそらく事前詠唱された汎数1魔法〈拝丁〉の多重展開。しかも個々の〈拝丁〉の威力が相殺されず、逆に増幅し合うような絶妙な配置とタイミングで、何十発、何百発と発動されたものだとすれば……しかし、そのような複雑で緻密な操作が人に可能なのでしょうか……)
レイウルフの思いつきは、恐ろしい真実にたどり着こうとしていた。
(もしそんなことが本当に可能ならば、カイリに聞いた度等さえ使わずに、あらゆる攻撃魔法の汎数をいくらでも引き上げられるということに――)
レイウルフの思考を中断させたのは、真っ青になったリュシアスの叫び声だった。
「早く来い、レイウルフ! テクの“回転する死の嵐”をくらいたいのか!?」
顔を上げたレイウルフの前方にマティが浮いていた。
その両手は持ち上げられ、ピアノを弾くかのように指が広げられている。
「言ってもわからない子は……力づくでわからせるしか……ないわ……ね」
マティの目が座っている。
左の小指がぴくりと痙攣すると、レイウルフから少し離れた場所で空気が弾けた。
「テクの言うことを聞け、レイウルフ! あの指が滑らかに動き出せば、この防空壕が内側から破壊されてしまうぞ!」
現実に戻ったレイウルフの顔からサッと血の気が引いた。
その細長い身体が不自然な体勢のまま、素早く移動する。
リュシアス、レイウルフ、ダブドの三人が集まる部屋の隅に飛来したマティの顔は真剣だ。
「だめよ、もっと身を寄せて。でないと死ぬわ」
「そうは言うがテク、これ以上は……」
「リュシアス?」
「わ、わかった。わかったからその手を下げてくれ」
「ダブドは休止携行形態に戻ったほうがいいですね」
ダブドが作った地下壕はそれなりに大きく、十メートル四方ほどの広さに二十メートルほどの高さがあった。
それにもかかわらず、部屋の角から一メートルもない場所に全員が身を寄せている。
土の精のダブドは休止携行形態となり、リュシアスのポーチに収まった。
そして細身のレイウルフは角に貼り付くように立っている。
だがリュシアスの丸い体型だけはそれ以上縮めようがなかった。
マティの額に汗が流れる。
(王との接触場所が、セイリュウの信号発信地点よりずいぶん手前だった。それでも〈枢暗光〉を使ったときに確認したから、この角の位置まで離れれば地上にいない限り助かるはず……)
「リュシアス、もっと腹を引っ込めてちょうだい」
「ううっ」
屈強な戦士の目に涙が浮かんでいた。