File091. 注煉邦刀《ムラマサブレード》
その瞬間、地響きとともに大きな瓦礫が近くに落下するのをカイリは見た。
続けて大小さまざまな瓦礫が周囲に散乱する。
頭上には、六角形の光の盾が連なり輝いていた。
例によって発動条件を“身体が傷つくこと”に設定された事前詠唱の〈障遮鱗〉が、〈鎮溢〉の効果時間切れと同時に落下を再開した瓦礫との接触により自動で展開されたのだ。
(予想より王の登場が早かったみたいだ)
視界にあった周辺の建物が音も無く一瞬で消え失せ、瓦礫の山と化していた。
〈鎮溢〉の魔法をかけられた者に特有の、ちょっとした時間跳躍体験である。
「あの…… カイリさん」
大きな双葉の陰からフェスが顔を出していた。
「フェス、種に戻ってくれる? 王が予想以上に慎重だった場合にはフェスに活躍してもらうつもりだったけど、もう必要ないみたいだ」
アーモンドに見える休止携行形態に戻ったフェスを、カイリはポケットにしまった。
(マティが放ってくれたはずの〈龍威槍〉で王が死んでいれば、復活するまでに少し余裕があるはずだけど……)
そう考えながら魔法の詠唱を始めるカイリ。
――高目移行・汎数……
シャラン
軽やかな鈴の音が聞こえた気がした。
同時に、地面に幅数ミリ程度の薄い亀裂が入る。
カイリが視認できたのは、その亀裂が周囲の瓦礫の山にまで達していることだけだった。
だが実際には数百メートル先で崩れかけた建物の壁にも、数キロ先に見える丘の表面にさえ、その亀裂は一直線に伸びていた。
まるで空間そのものを断絶したと錯覚させるほどの切れ味を見せたその武器は、金属の光沢を放つ普通の日本刀に見えた。
「ちっ……やはり〈障遮鱗〉を纏っていたか」
日本刀らしきものを手にして現れた王が、その斬撃を防いだ六角形のプレート群を目にして薄ら笑いを浮かべていた。
だがその目は笑っていない。
カイリの一挙手一投足を見逃すまいと開かれた両眼は、まるで狂人か悪魔のように濁っている。
ノマオイの村でカイリを見下していたはずの彼が、今はカイリを殺すことだけを考えていた。
カイリは詠唱を中断していた。
このタイミングで王が姿を見せたということは、間違いなく〈障遮鱗〉を発動済みだろう。
「お互いさまだ、ヒューマンの王。マティの〈龍威槍〉をおまえが防いだように、おまえの〈注煉邦刀〉も〈障遮鱗〉を破れない」
同汎数の魔法では攻撃より防御が勝るのがこの世界の魔法システムである。
つまり現状、互いに相手を殺すことはもちろん、傷つけることさえできない。
ただし〈障遮鱗〉の効果時間は無限ではないし、事前詠唱魔法として用意できる数にも限りがある。
そのストックが尽きれば役満の攻撃魔法を防ぐ手立てはなく、ストックが残っていても効果時間の切れ目は存在する。
カイリは〈障遮鱗〉の発動条件を“身体が傷つくこと”と設定することで自動発動を実現している。
それは落下する瓦礫や飛来する矢、あるいは〈一気通貫〉の雷撃が皮膚の最表面を傷つけただけで発動するため、カイリ自身が感じるのは軽い痛み程度で済んでいる。
だが役満の攻撃魔法を受けた場合にはその程度では済まない。
かつてエステルが放った攻撃魔法〈一気通貫〉の汎数は所詮2である。
そして役満の魔法が有するエネルギーはその一千億倍だ。
〈一気通貫〉が皮膚の表面を傷つけるのと同じ時間で、〈龍威槍〉は人体を蒸発させるだろう。
体感的には“一瞬”と言って差し支えない魔法の発動時間だが、けして“ゼロ”ではないのである。
つまり役満の攻撃魔法を防ぐためには、役満の防御魔法をあらかじめ発動しておく必要がある。
もともとカイリは、〈鎮溢〉から解放された直後に〈障遮鱗〉を詠唱省略魔法で発動させるつもりではいた。
だが、もし瓦礫の落下がなく〈障遮鱗〉が自動で発動していなければ、かなりきわどい状況だっただろう。
(〈障遮鱗〉の効果時間は二十五分。しばらくは安全だけど、問題はおそらく発動の瞬間を王に見られたことだ)
〈障遮鱗〉による光の盾は攻撃を受けていなければ出現しないため、効果時間の終わりを敵に悟らせにくいという利点がある。
だが発動の瞬間を見られていては、それも意味がない。
(逆に言えば、二十五分間は王が本気の攻撃を仕掛けてくることはないということだけど)
カイリがそう考えているときだった。
唐突に、王がその言葉を口にした。
「小僧、きさま……カイリ・タキタニだな?」
「――――!」
驚きが表情に出るカイリ。
ニヤリと笑う王が続けた言葉に、カイリは耳を疑った。
「やはりそうか。そう思えば、たしかに奴の面影がある。なるほどな、汎数13までの魔法を使いこなす理由は“瞬間記憶”というわけだ」
“瞬間記憶”――カイリのその生まれつきの能力を知る者は、この世界でも召喚前の世界においても限られている。
それを王が知っているという事実に、カイリは衝撃を受けた。
なぜ王がそれを知っているのか見当もつかないのだ。
(落ち着け、俺。これは、王の情報網……いや違う。王の正体を知る手がかりでもあるはずだ)
そう思うカイリではあったが、それだけで王の正体に迫れるはずもなかった。
王とは、エラーで生まれた初代カイ・リューベンスフィアのコピーに、六十五歳の滝谷海里の知識が転送されたことで人格が歪んでしまった存在である。
つまり――。
「よく聞け、小僧。ナノマシンシステムの生みの親、六十五歳のカイリ・タキタニの知識はすべて俺の中にある。予言書には残されなかった知識も含めてだ。さらには、この世界で生きた二千年の経験もある。ナノマシンシステムが支配するこの世界で、知識は力だ。つまりどう足掻いても、召喚されて一か月のきさまは俺に殺されるしかない。それくらいのことは、きさまにも理解できるだろう?」
その言葉は、カイリを脅しているようにも、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
それ以外に真実などありえない。
それが事実、そして現実――と。
実際のところ、王にはさらに不死システムという最強のカードがある。
何度殺されても生き返る王に対し、カイリは一度でも死ねば終わりだ。
なにかひとつをミスするだけで、カイリは死ぬ。
それが役満どうしの戦闘であることはカイリにもわかっている。
その狂人じみた、悪魔じみた凄みが、カイリを呑み込もうとする――。
――この世界を救ってください。
翅の生えた小さな妖精が、カイリの胸で泣いていた。
それは現実ではない。
だが現実にあったことだ。
翅の生えた小さな妖精が、かわいい困り顔で頭を傾ける。
黒髪が流れる。
翅の生えた小さな妖精が、穏やかに微笑み見つめてくる。
心臓の鼓動が激しくなり、顔が熱を持ち、手足が震える――。
――マティ、俺は……。
――君との約束を覚えている。
いつの間にか閉じていた目を開くカイリ。
王が何かを言っている。
その目は狂人か悪魔のようだ。
だが、そのすべてはカイリを守る〈障遮鱗〉の向こう側での出来事にすぎない。
心の水面が鏡のように静まっていた。
(そうだ。俺にできることは何も変わらない)
そして情報が素直に整理される。
(王は、滝谷海里をナノマシンシステムの生みの親だと言った。おそらくそれは本当のことだろう。スザクが口にした“タキタニさん”とは、六十五歳の俺自身のことだったんだ)
それが自然に納得できた。
カイリは一度空を見上げ、王の登場により中断していた魔法の詠唱を再開した。
――高目移行・汎数26
――通模・要俳
――天地の神し理なくはこそ……
王の顔色が変わった。