File090. 応用力
「……フェアリ族が、汎数13の役名を使用しただと」
日科技研 多重独立防護層の第一層。
その管理室に設置された巨大スクリーンの再生映像を瞳に映して、家の精のレインが唖然とした。
その様子を見てエルフ族のサナトゥリアが微笑む。
「おもろいやろ? これはうちも想定外や。まさか自分オトリにして初代仕留めよなんて、まともな発想やあらへん」
「……え、いや、想定外なのは、フェアリ族が汎数13の――」
微妙に会話がかみ合っていないが、フェアリ族の特性についてはサナトゥリアももちろん知っている。
「その理由はうちもわからん。けどな、やっぱり注目すべきはそこやないんよ」
ライブ映像に戻った巨大スクリーンを背景に、レインがサナトゥリアを振り返る。
小人のレインが立つデスクに、組んだ両脚を載せたサナトゥリア。
エルフの族長エステルが認めるその聡明な頭脳と行動力により、族長代行まで務めた女の灰青色の瞳は冷静だ。
ふたりの視線が重なった。
「召喚されてまだ一か月程度の二十一代目が、二千年生きとる初代を出し抜いたんよ? まだ勝負はついてへんけどな。これは簡単そうで簡単なことやない。実は、四日前にも初代は不死システムで死に戻っとるんよ。何があったかは知らんけど、そんとき会うてたのも二十一代目のはずなん」
「……どういうことだ?」
「つまりな、二十一代目には今までのカイ・リューベンスフィアには無い何かがあるいうことや。うちが一か月前に接触したときには気づけへんかった何かが、な」
サナトゥリアやレインだけでなく、それに気づける者はこの世界にひとりもいなかった。
あの言葉を聞いたレイウルフでさえ、そこに思いいたることはなかった。
――俺の本当の強みは、高汎数の魔法を使えることじゃない。マティだけにしかまだ言ってなかったと思うけど――。
それはカイリが生まれつき持っている能力。
医学的にはサヴァン症候群の一種に分類されるそれは――。
――“瞬間記憶能力”――俺は一度見た文字列を完全に記憶できるんだ。
彼は、生まれたときからその能力と付き合ってきた。
文字を覚えた頃には、この子は天才だと両親に喜ばれた。
――だが、すぐに限界も見えた。
文字列限定の記憶力とは、過去に読んだことがある情報をいつも持ち歩いているという程度の能力に過ぎない。
つまり、学校のテストなどで記憶力を試されるような場合でもない限り、いつでも携帯デバイスでインターネット上の情報を調べられる状況のほうが、文字列に限定されない分よほどマシなのだ。
そして学校のテストでさえ、記憶力だけで満点を取れるわけではない。
日本史や世界史、地理など、記憶力がモノをいう教科であれば抜群の威力を発揮する。
だが数学や物理ではそうはいかない。
公式を暗記する手間は省けるものの、それらを使う上で求められる応用力までは“瞬間記憶能力”では身に付かないのである。
だからこそ、カイリが幼い頃から勉強に限らず遊びでも日常生活においても、ほぼすべての時間をあててきたのは、“応用力”を身に着けることだった。
与えられた状況・情報を整理し、できるだけ正確に把握する洞察力。
瞬間記憶の海の中から役に立つ情報を収集し、組み合わせて別の何かを生み出す発想力。
何千何万通りもある可能性の中から、もっとも有効と思われる最適解をおおまかに導き出す分析力。
通常の人間が膨大な時間を費やす知識習得の段階を瞬間記憶でスキップし、これらの力を磨くことだけに集中することで身につけた応用力は、常人から見れば未来を見通す予知能力と思われてもおかしくないほどのレベルになっていた。
その瞬間記憶に裏打ちされた応用力こそがカイリの本当の強みであり、運でも偶然でもなく、百戦錬磨の王を二度にわたり出し抜く結果となったのだ。
その応用力の一端に触れたのがマティである。
妹竜たちがセイリュウの信号を受けたその日の夜。
寝泊まりしているエルフ族の簡易宿舎でカイリは言った。
「マティ。今から君に、〈翻逸〉の魔法をかけようと思う」
その意味がマティにはわからなかった。
「どうしたんですか、カイリ? 私は言葉に困っていませんし、次のカイ・リューベンスフィア――二十二代目が召喚されることもないと思います。事前詠唱による〈翻逸〉の引き継ぎは必要ないと――」
「ええと、そうじゃなくて」
「?」
首を傾げるマティ。
その変わらない可愛らしさに癒されつつ、カイリが言葉を続ける。
それは、マティはもちろん、過去に召喚されたカイ・リューベンスフィアたちの誰一人として思いつかなかった発想だった。
「君に、日本語――古代語を話せるようになってもらう」
「え?」
「そうすれば、魔法習得におけるフェアリ族の欠点――正確な発音を聞き分ける才と、正確な発音を発声する才の不足を、補えると思うんだ」
ぽかんとするマティ。
その意味を、その結果として何が起こるのかをまだ理解していない。
「そんなことができるんですか? 〈翻逸〉はこの世界の言葉を話せるようになる魔法で――」
「そうじゃないんだ。だって、魔法システムを造った人たちが、この世界――遠未来の言語を知っていたはずがないんだから」
「?」
カイリは言った。
〈翻逸〉の魔法とは、対象者の脳の言語野にナノマシンが直接神経回路を形成することで、術者あるいは術者が指定した者の言語を身に着けさせる魔法だと。
そういう意味では、仮に過去のカイ・リューベンスフィアがこの方法を思いついたとしても、日本語に精通していなかった彼らには実現できなかっただろう。
「一応言っておくと、予言書に書かれていた正式な情報だよ。それでマティは高位魔法を覚えられるようになるはずだ」
二千年前に諦めたはずの高位魔法の習得。
カイリの説明はこの世界に生きてきたマティには難しかったが、何を期待されているのかは理解できた。
王に対抗する戦力に、フェアリ族の自分を加えようとしているのだ。
「わかりました。でも私にはカイリのような瞬間記憶能力はありません。たくさんある魔法を今から覚えるとなると――」
「安心して。この三日間で覚えるのはふたつの魔法だけでいい。とは言っても、ふたつとも役満だから要俳が長くて覚えるのが大変だとは思うけど」
「カイリには何か考えがあるんですね」
セイリュウの信号をスザクたちが受け取ったとき、カイリはすぐには向かわず丸三日間の準備期間を設けた。
王に対抗するために必要だと彼が判断した期間だ。
「王と対峙したときの、いくつかの想定パターンを話すよ。ただ、マティにやってほしいことはそんなに多くない。大変なのは役満をふたつ覚えてもらうことだ」
「はい」
その会話の中で、マティはあらためて認識することになった。
カイリがマティを、心から信頼していることを。
「そんな……もし私が呪文の詠唱に失敗したらカイリの生命が……」
「大丈夫だ。王は優位に立ってもすぐには攻撃してこない。確実に自分が安全であることの確認を優先する。だから、落ち着いてゆっくり唱えてくれればいいし、もし失敗してもやり直してくれればいい」
そしてカイリもまた、あらためて認識することになった。
マティがカイリを、心から信頼していることを。
「わかりました。必ず一度で成功するように練習します。他に気をつけることはありますか?」
少し考えたカイリがひとつだけ注文をつけた。
「重要なのは、最初にマティが役満を使うタイミングだ。あの王を出し抜くためには、何があろうとその時――王が一番油断するその時まで使うことを我慢してほしいし、それまでは誰にも知られちゃだめだ」
万が一、事前に王に知られれば、簡単に対策されてしまうのは目に見えていた。
「わかりました。まかせてください」
そう言って、真剣な表情で見つめてくるマティにドキリとするカイリ。
(ただの高校生だった俺が、あの王に対してここまで強い気持ちを持てているのは……全部、マティのおかげだ)
自分の内にある感情が、日に日に増して今にもあふれ出しそうになっていることをカイリは自覚していた。
ただそれを口にする勇気が今の彼にはまだ無い。
それ以前に、それを伝えるべき時期が今ではないこともわかっていた。
***
ドボッ
それはまるで、粘度の高い液体に沈んだときのような音だった。
視界が白い輝きに染まる様子は、あたかも〈離位置〉の瞬間のようだと王は思った。
(――それは無い。不死システムが稼働した副作用として、この地域ではしばらく〈離位置〉の役名は使えんのだからな)
不死システムは、分解、結合を担うナノマシン群を大量に消費する。
そのためその土地では、〈離位置〉や〈品浮〉といった物質の分解と結合を必要とする役名をしばらく使用できなくなるのだ。
もっとも各種ナノマシン群の存在比率はナノマシンシステムにより管理されていて、数日で補充されることになる。
〈離位置〉を発動できるようになるまで、あと数時間程度というのが王の見立てだった。
彼は膨大な熱流から自分の身を守る連なる六角形の光のプレート群を見つめた。
(この攻撃は〈龍威槍〉か。まさか小僧以外に役満を使える者がいたとは……念のため〈障遮鱗〉をかけておいて正解だった)
慎重な王は、〈鎮溢〉で固まるカイリに近づく前に、普段は使用しない防御魔法を身に纏った。
事前詠唱も数回分をストックしているが、それらは保険として残し、新たに通常の長い詠唱で〈障遮鱗〉を発動したのだ。
カイリが〈鎮溢〉で固まっているからこその判断だった。
そして王は、より慎重にならざるを得なかった。
カイリの他に役満を使用する者がいるという事実は、完全に想定外だったからだ。
竜たちを遠ざけさえすれば、自分がカイリを相手にしている限り不死システムは安泰だと考えていた。
その想定が崩れた今、王はいったん引くことを選択した。
(やはりこの小僧は油断がならん。まずは〈龍威槍〉を発動した者の正体と動向を把握する必要がある)
王が事前詠唱の〈枢暗光〉を発動する。
竜脈損傷の心配はしていない。
ここ日科技研の地下には、発電設備から直接伸びる極太の専用竜脈が存在することを知っていた。
「く、くくく……」
額を押さえて笑う王。
〈枢暗光〉が〈龍威槍〉を放った者の正体を明かしていた。
(フェアリ族が役満を使っただと? 発動条件をあのフェアリ族の行動に指定した事前詠唱か? いや、それは無い。防御魔法ならともかく、攻撃魔法、しかも役満であれば、事前詠唱の有効期間は二十分も無いはず……いったい、どんなトリックを使いおった、小僧)
王は魔法を熟知し、魔法を使う戦闘に長けていた。
カイリに対して慎重に対応しているつもりではあったが、召喚されたばかりの子供に負けるはずがないと、負けていいはずがないという驕りが残っていたことを自覚した。
(この二千年間、俺に対抗できる存在などいなかった。それでも常に慎重に、用意周到に動くことを心掛けてきたつもりだったが……ああ、認めよう、小僧。おまえは俺に匹敵する力を持つ敵であると――)
「……とか、今頃考えとるかもな、初代は」
そう解説するサナトゥリアに視線を向けるレイン。
「……何が言いたい?」
「この戦闘、もう先が見えたいうことや」
不可解だという表情を見せるレインに、サナトゥリアがデスクから脚を下ろし、レインに顔を近づけてニヤリと笑った。
「二十一代目が初代に匹敵する力を持っとるとか、ありえんやろ」
「……そうか? 奴はもう二度も最高責任者を出し抜いたのだろう?」
「ちゃうちゃう、逆や」
さらに顔を近づけるサナトゥリア。
ひそめた声でそれを口にした。
「……二十一代目のほうが圧倒的に強いわ。まるで大人と子供や。普通に考えれば逆やし、うちも騙されとったけど。あとは二十一代目のペースで進む未来しか見えへん」
レインが息をのんだ。
「……どうしてわかる?」
「初代は〈鎮溢〉の効果時間が切れるんを承知で、距離取ったやろ。あれ、たぶん、二十一代目の狙い通りや」
まるで当たり前のことのようにサナトゥリアは話した。
「うん、初代の不幸はな。たぶん自分より強いやつがおらんかったことやな。とっさの事態に対していったん引くいうんは、強者だから許されるんよ。確実な勝利のためにな。けど弱者なら、そこで押さな勝ち筋は見えてこん。これ、うちの経験則な」
自慢気な顔のサナトゥリアを見て、息を漏らすようにレインが笑った。
「……俺が生まれた頃には、学校という教育システムがあった。特に進学校という場では、何年もかけて常に自分の限界に挑戦することを求められたそうだ。最高責任者にはそれが無かったか……二千年の間に忘れてしまったのだろう」
「百戦錬磨の百戦が、全部ぬるかったら錬磨にならへんいうわけやね」
それで――と、レインが続けた。
「……俺たちは命令に従うだけの精霊だが……おまえは最高責任者が負けてもいいのか?」
「うちのことはサナって呼んでて言うたやん。もう仲間やろ?」
苦い表情を見せるレインだが、否定はしなかった。
サナトゥリアは微笑んだままだ。
「うちはな、どっちの味方でもないんよ。初代かてうちを信用しとるわけやない。ただ利害関係が一致しとるて思うとるだけや」
「……一致しているのか?」
「うーん、うちにはな、昔、やると決めたことがあるんよ。そんでな、うちはやると決めたことは、どんな手段使うてでもやる。それだけや」
不満そうなレインを見て、サナトゥリアが申し訳ないという表情を作った。
「約束通り、ちゃんと全部話すて。この戦闘が決着するまで待ってえな」
「……承知した」
そこでレインの表情が急変した。
「どないしたん?」
「……最高責任者から指示が出た」
巨大スクリーンには、向かい合う王とカイリの姿が映し出されていた。