File089. 龍威槍《ドラゴンランス》
朝陽に照らされる海面。
その面積のほとんどを失い縮小した太平洋の東の海岸線が、かつて日本と呼ばれた島国の東沖から北東へ伸びている。
蒸発により水分を失ったにもかかわらず塩分濃度が一定の範囲に維持されているのは、ナノマシンに最初から与えられていた地球環境改善プログラムの恩恵によるものだ。
狭い海域に適応した海洋生物たちが、古の時代とほぼ変わらない姿で繁栄している。
竜たちが二度目の竜脈の変化を感知したのは、一度目の感知からすぐのことだった。
立て続けに汎数13相当の魔法が使用されたのだ。
そのことに最も動揺したのはスザクだった。
『私……戻ってもいいかな? カイリのところに行きたい』
『たしかにセイリュウを相手に最も役立たずなのは、あなたね』
海面に意識を向けたまま答えるビャッコ。
そして竜の近距離通信回線における会話は、海中のセイリュウにも筒抜けだ。
摂氏四度に維持されていた海面から複数の水柱が斜めに立ち上り、それらのすべてが空中にいるスザクに重なる。
――そして凍った。
『――!』
氷に閉じ込められるスザク。
水系の竜であるセイリュウは液体を自在に操ることができる。
液体の温度を操作し、気化することも固化することも思いのままだ。
ただし気化したり固化したりした物質は、セイリュウの制御下から離れる。
すぐにスザクを包む氷が砕けた。
『ありがと、ゲン……』
水が氷になれば土系の竜ゲンブの制御下に入る。
だが次の瞬間には、スザクの身体が鋭くとがった氷柱に貫かれていた。
『あうっ』
直径十センチほどの氷柱が次々と体長十五メートルの紅竜を串刺しにし、大量の血を噴出させた。
水柱がスザクの赤いウロコに到達する寸前に、セイリュウが凍らせているのだ。
水が凍るまでは、ゲンブには何もできない。
『……仕方がない』
そうつぶやいたのはビャッコだった。
海上に強風が吹きすさび、ミサイルのようにスザクに殺到していた水柱の照準がずれる。
風系のビャッコと水系のセイリュウはナノマシンへの操作優先権が同等であり、個々のナノマシンに対して後からの指示が前の指示を上書きする。
つまり互いに相手の妨害はできるが、決定的な一打を与えることができない。
そして本来であればビャッコは、水系の竜が海上へ水柱を上げることすら防げるはずなのだ。
なぜなら空中は、風系の竜であるビャッコが圧倒的に有利なはずの風の戦場なのだから。
「ビャッコ姉、仕方がないって何よ。普通に助けてよっ」
白い光に包まれて人型に戻ったスザクが、海面に向け落下しながら文句を言う。
再び白い光に包まれて出現した赤い竜は無傷だ。
何事もなかったかのように羽ばたき、ゲンブとビャッコがいる高さへと戻った。
ビャッコはスザクには答えず、海面を見つめたままだ。
(私の調子が悪いわけじゃない。これが二千年を生きたセイリュウのアドバンテージだというの?)
竜は生きた期間が長ければ長いほど、扱えるエネルギー量が増大し強くなる。
その増大幅は小さくなっていくと予測されていたが、どこまで強くなるかは開発者たちにもわかっていなかった。
そのため予言書には詳細な記述が無く、汎数14や15に相当するエネルギーさえ扱えるようになるというのは、カイリの想像にすぎない。
それはまだ十年しか生きていないビャッコには信じられないことだった。
(たしかに生まれたばかりのときに比べて、ナノマシンを操作する風系プログラムの使用効率が向上している実感はある。それがどんどん最適化されて、結果的に扱えるエネルギーが増大していくのでしょう)
だが十年生きただけのビャッコに、二千年生きたセイリュウのプログラム使用効率を想像することは難しい。
(ただ……セイリュウは水柱を空中へ侵入させ、氷柱化まで実現している。私は小さな圧縮空気爆弾のひとつさえ海中へ侵入させることができずにいるというのに……)
そしてビャッコは気づいた。
『ふたりとも、絶対にここを離れないで』
『どうして? 私のこと役立たずって言ったの、ビャッコ姉じゃん。カイリのとこに行ったほうが絶対役に立つよ』
竜の鋭い歯をかみしめるビャッコ。
『わからないの? セイリュウの攻撃が風の戦場まで侵入しているのよ? その気になれば、この周辺半径十五キロの……元帥さんの予想が正しければその三倍以上の……領域を壊滅できるブレス攻撃ができるということよ』
『え……』
『それをしないのは――』
ビャッコの言葉をセイリュウ自身が引き継いだ。
『……気づきましたか? そこまでしないのは、あなたたちがこの場にいるからです。この場にとどめることがご主人様のご命令。そしてあなたたちの生死について今回は問われていません。つまり、もしひとりでもこの場を離れるようであれば、殺してでも止めます』
『…………』
それまで黙っていたゲンブが、初めて近距離通信回線に割り込んだ。
『セイリュウ姉さん。だったら、わたくしたちをすぐに殺して戻ればいいはずですわ。氷柱攻撃なんてすぐに回復可能な攻撃をする必要はないはずです』
『ええ、本当に。それはただの警告。私がいつでもそちらを攻撃できるという証明。エネルギーは有限です。すぐにブレスを使用しない理由は、ご主人様の邪魔をしないため』
汎数13相当のエネルギーは膨大だ。
万が一ヒューマン王が役満を使用するのとほぼ同時にセイリュウがブレスを吐けば、その瞬間だけエネルギーが不足する可能性がある。
『ですが、あなたたちがここを離れそうであればブレス攻撃も厭いません。ありえないことですが、あなたたちの攻撃が水の戦場まで届きそうな場合も同様です』
ゲンブが複雑な表情でつぶやいた。
『がまんして、スザク。わたくしたちだって、世界を救うためにはセイリュウ姉さんを殺すわけにはいかないわ。もどかしいけど……セイリュウ姉さんとわたくしたちの思惑は一致しているのよ』
相手をこの場にとどめること。
それがこの場の全員がここにいる理由。
『本当はすぐにでも大切な人のそばに戻って役に立ちたい。その願いも、全員が同じだわ』
ゲンブの言葉を最後に、竜の近距離通信回線に静寂が訪れた。
***
――高目移行・汎数13
その呪文を耳にして、レイウルフの動きが止まった。
ありえないことが目の前で起こっていた。
すぐに要俳が通模され、転配されて役名が丁寧に完成される。
「〈枢暗光〉」
そうつぶやいたのは、空中に浮かぶフェアリ族のマティだった。
レイウルフは汎数13の呪文はもちろん、魔法の名称さえ知らない。
ただ、マティに使える魔法が汎数1といくつかの汎数2魔法だけのはずだと知っている。
(フェアリ族には魔術師が高位魔法を習得するために必要な四つの要素のうち二つが不足していたはずです。それは正確な発音を聞き分ける才と、正確な発音を発声する才――)
レイウルフは、確かにマティが「汎数13」の数字を口にするのを聞いた。
そしてマティの呪文詠唱はそれだけでは終わらなかった。
――高目移行放棄・汎数13
続けざまに唱えられる汎数13の魔法。
長い詠唱によりそれが完成される。
「〈龍威槍〉」
もしカイリだったなら、汎数13の魔法を立て続けに使用することを躊躇しただろう。
それだけのエネルギーを強引に地下の竜脈から吸い上げるのだ。
日科技研の設備に、そしてヒューマン領全体に、どんな影響が出るかわからない。
何も影響は無いかもしれないし、文明を停滞させるほどの影響が出るかもしれない。
地下の竜脈はすべてのエネルギーの源だが、その“太さ”は場所により様々だ。
だが、今この瞬間にもカイリの生命が奪われかねない状況にあって、マティに躊躇はなかった。
宙に浮くマティの右上に、直径が二メートルほど、長さにいたっては十五メートルにも達する長大な光の槍が出現する。
槍というよりも大陸間弾道ミサイルのようだ。
そこに凝縮されているのは、竜のブレスに匹敵する凶悪無慈悲な量のエネルギーである。
それが〈枢暗光〉により割り出されたある一点――マティたちの位置からは死角になり見えなかったヒューマンの王が立つ場所に向けて、放たれた。
「テクニティファ様――!」
レイウルフが無意識に叫び、近くにいたリュシアスが目を見開いた。
その光の槍は〈探矢緒〉の完全上位互換であり、威力は〈探矢緒〉の十兆倍に相当する。
ただし、直接の影響は直径二メートルの直線軌道上のみ。
〈鎮溢〉で停止しているカイリやフェスには影響しない。
光の槍が、膨大な熱量によりあらゆる物質を貫通し破壊する。
地上に建造された化学プラントを、かつて研究員たちが激務をこなしていた実験棟を、執務し議論を交わした事務棟や会議棟に穴を穿ち、それらすべてが崩れていく。
カイリの頭上にもいくつかの瓦礫が降り注いだが、それらは〈鎮溢〉の効果範囲に入ると空中で静止した。
「なんて破壊力だ」
度肝を抜かれたという表情で声を漏らすリュシアス。
緊張が解けたマティが肩で息をしている。
〈枢暗光〉の効果時間が終わるまで、あと六秒。
「王は……生きています。魔法で防がれました。けど……」
王がその場から一旦離れたことをマティは〈枢暗光〉により確認していた。
事前のカイリとの打合せでは、上手くいけば王が死に、不死システムにより復活するまでの十五分程度の時間を稼げるはずだった。
そこまで上手くはいかなかったものの、カイリが受けた〈鎮溢〉の効果時間は切れたようだ。
カイリが何かの呪文詠唱を始めたことを確認したところで〈枢暗光〉の効果時間が終了した。
「テクニティファ様、いつの間にそんな高位魔法を習得されて……」
「その話は後で。ダブドのところまで急ぎましょう。私たちの安全確保が遅れれば、それだけカイリが魔法を使えない時間が長引くわ」
つまり、それだけ強力な魔法をカイリが使おうとしているということ。
そう理解したレイウルフは、今度こそ急いでダブドが待つ地下の部屋へ急いだ。
「やれやれ」
そう言いながらも全速力で走るのはリュシアスだ。
脚の長さはレイウルフのほうが圧倒的に長いのだが、走る速さはリュシアスのほうが速い。
そのリュシアスに空を飛ぶマティが追いついた。
「なあ、テク。この展開を予想していたのか?」
「ええ、カイリがね」
「もう少し上手くできなかったのか? 結構、ピンチだっただろう?」
レイウルフがすぐ後ろに付いてきていることを確認しながらの会話だ。
「いろいろ理由があるのよ。そうね、一番大きな理由は〈枢暗光〉を使うタイミングかしら」
「?」
理解できないという顔のリュシアスだったが、今急いで話すことでもないと思いなおす。
「レイウルフ、先に行くぞ」
そう言い残し、ドワーフの丸い身体を一気に加速させた。