File078. 湖
鉄格子つきの小窓から覗くのは曇り空であり、室内に届く光は弱い。
四方を石壁に囲まれた薄暗い牢の中で、赤髪の少女がヒザを抱えていた。
「うーん、ここって半地下っぽいけど、竜の姿に戻れば壁ごと壊せるかなぁ?」
竜は人型になってもそれぞれの系統に属した物質を自在に操ることができるし、身体の頑丈さや索敵・通信能力もそのままだ。
魔法のような多彩さはないものの、単純な戦闘力でいえばそれだけで十分な脅威と言える。
もっともスザクの場合は、身近に火系状態の物質がなかなか存在しないという問題があり、今がまさにそうだった。
人型になることで失われるのは飛翔能力と、竜が最大の破壊力を発揮するブレス攻撃。
そして身体の大きさとそれに見合う筋力だ。
竜型にしろ人型にしろ、物理的な力はほぼ見た目通りとなる。
――あなたの容姿は目立ち過ぎるから、もう少しだけそこにいて。
そうマティから言われておとなしくしているスザクだが、さすがにこの現状に飽きていた。
「マティのほうが目立つと思うんだけどな」
スザクの不満気な声が、狭い部屋にこだましたときだった。
部屋の隅にある小さく分厚い木製の扉の下から明かりが漏れた。
スザクとマティがこの牢に入るときに使われた扉だ。
木製と言っても鉄材で補強されている上に外から大きな南京錠がかけられている。
少女の力で開けられるはずもないその扉の下に食事を差し入れるためのすき間があり、そこから光が漏れて揺れていた。
蝋燭か松明の炎のようだ。
スザクの索敵がとっくに捉えていたその小さな反応が、扉の向こうの通路から声を発した。
「おい、おまえ、何をやらかして捕まったんだよ? おまえってヤバイやつなのか?」
少年の声だった。
スザクにそんな知り合いはいない。
記憶にあるのは、この村に入ったときに話しかけた少年くらいである。
(あのときの子かな?)
スザクの美貌を見て顔を赤らめていた少年のことを思い出す。
「べ、別に助けにきたわけじゃないぞ。ちょっとくらい、話し相手になってやってもいいかなと……」
なにやらゴニョゴニョと話す少年。
スザクの索敵に、少年以外の反応はない。
竜のことを知らない村人や精霊騎士団からすれば、スザクは十四、五歳の少女にすぎない。
この村では魔法を使えないのだから、一緒に牢に入れたフェアリ族も含めて特に見張りを付ける必要を感じなかったのだろう。
そして少年がなけなしの勇気を振り絞ってやってきた理由が、一目惚れした少女に会うためであることに、スザクが思いいたるはずもなかった。
「うん、ありがとねっ」
そう元気よく答えたスザクがすっくと立ちあがる。
「危ないから離れててね」
少年の手元にあった蝋燭の光が青白く大きく広がり、彼の前髪を焦がした。
「うわわっ?」
炎はまるで生き物のように蠢き、扉の下から牢の内側に滑り込んでさらに巨大化した。
「んふふっ、数百度くらいじゃ石は溶けないよね。二千度くらいなら溶けるかな?」
通路に面した牢の壁が青白い炎に舐められ赤く発光する。
外に出るだけなら木と鉄でできた扉を焼失させるほうが早いのだが、ストレスを溜めていたスザクは正面の石壁を一気に溶融させ、大穴を開けた。
外に逃げていく少年の反応をスザクの索敵が捉えている。
「カイリは近くにいないみたいだし……マティに言われたとおりにするしかないかぁ」
――次にビャッコたちからコールがあったら、スザクもここを出て合流しなさい。
未だにコールは無いが、コールが無いこと自体も気になっていた。
***
曇り空の下。
村はずれにやってきたスザクが目にしたのは、この村の生活や農作を支える水源――大きな湖だった。
その湖畔にゲンブとビャッコの姿は見当たらない。
「誰もいない……ね。困ったな」
スザクがどうしたものかと考えあぐねていると、ピシャッと水が跳ねる音がした。
「魚?」
湖の水面が盛り上がるのをスザクは見た。
――次の瞬間には水の中だった。
膨大な量の水がまるで生き物のように動き、広がり、スザクが何かを判断する間もなく強力な水圧で飲み込んだのだ。
(え? え?)
水中で慌てるスザクの周囲から水が離れ、気泡のような空間ができる。
だが実際には空気の泡ではない。
水中に造られた真空空間だった。
水の分子群と一緒に、スザク周辺のナノマシンが遠ざかる。
その距離が百メートルを超えれば、もう何が起ころうとスザクは竜の力を使えない。
だがすでに、スザクにできることは何もなかった。
(なに? 何が起こって……)
湖の奥底の乾いた地面の上でよろめくスザク。
身体から水分を奪われた生物の死体が散らばっている。
声を出せず、周囲の音も聞こえないのは真空のせいだ。
そして周辺ナノマシンの不在により、竜化も、索敵も、通信も、すべての機能が停止していた。
体内で活動するナノマシンの一部も引き抜かれたようであり、思考も身体の動きも鈍っている。
(ああ、そうか。何かに似てると思ったら、ビャッコ姉の竜の虚無に似てるんだ。あのときはゲンブの地下空洞に落ちて助かったけど……今回は……)
竜の生体機能は、そのすべてをナノマシンシステムに頼っている。
(このまま、システムから切り離された状態が続けば、竜は――)
笑えるほどに絶望的な状況であることを、スザクはようやく理解した。
***
穏やかな湖の水面に立つ女がいた。
魔法ではない。
この世界にそんな魔法は存在しない。
〈品浮〉という魔法は存在するが、それは実際には術者を浮かせる魔法ではなく、ナノマシンにより物体の外形情報だけを残して分解し、移動先で再構成する魔法である。
原理的には〈離位置〉とよく似ているが、大きな違いがふたつある。
人を移動できないこと。
そして移動先を限定されない代わりに、外形情報を誘導することで移動ルートを明確にする必要があることだ。
その理由は、再構成に使用する原子群を〈離位置〉が現地調達するのに対し、〈品浮〉では元の原子群を輸送するからである。
水面に立つ女の足元には透明度の高い水を通して、真空の泡に包まれて湖の底に横たわる三つの人影が見える。
スザク、ゲンブ、ビャッコの三人である。
「竜ゆうても、たわいないもんやなぁ。ゲンブちゃんなら対抗できたはずやけど、油断しすぎやね」
湖の上を通り過ぎる風が、ショートボブの金髪を揺らした。
その近くでは、翅の生えた半透明の小人が宙を舞い、両肩にはそれぞれ赤いトカゲと小人の老人が載っている。
服のポケットからは小人の青年が、そして手のひらに載せた小さな壺からは小人の娘が顔を出している。
そんな彼女の身体の表面を、まるで電飾か発光するクラゲのように、いくつもの小さな光が列をなし、点滅しながら移動していた。
「この感じやと、竜としてのプログラム再起動できんようなる完全な“死”まで、あと数分てとこ? 後から来たスザクちゃんのほうが先に死ぬことになりそうやね」
足元を見つめる女の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
宿屋でカイリとエルローズたちの前に、ヒューマンの王とセイリュウが姿を見せた頃のことである。
王にとって脅威となるはずの竜たちへの対処は、カイリの知らないところですでに完了しようとしていた。