File063. 泣き叫ぶ声
「〈鎮溢〉ではない――ということでしょうか? それほど広範囲で長時間の停止だったとは、全く認識していませんでした」
「正確には六一三秒ですわ、父上」
レイウルフのセリフにゲンブが言葉を重ねた。
地下洞窟で二人が固まっていたときの様子を、マティが説明したところだ。
その前のレイウルフの話によれば、〈鎮溢〉とは敵の動きを封じる魔法である。
歴史上でカイ・リューベンスフィアだけが使えた伝説の魔法であり、世に知られる最高汎数の魔法でもある。
汎数4の魔法〈消散言〉が敵の魔法詠唱を封じるのに対し、汎数6の魔法〈鎮溢〉は敵のあらゆる行動を封じる。
魔法を受けた相手は、彫像のように動かなくなるという。
ここは空の上。
上方では青を背景にして、長く伸びたオレンジ色の雲が勢いよく流れている。
眼下に連なる山々の稜線は赤く染まり、西の彼方にオレンジ色の太陽が浮かぶ。
厚さ三センチの金属板は二十畳ほどの広さがあった。
その上は空気の壁で守られており、まるで室内にいるように静かで風圧を感じることもない。
ドワーフ軍が襲来したときにリュシアスたちを運んでいた金属板であり、それを飛ばしているのは前方右隅に立つビャッコだ。
その足元にリュシアスがあぐらをかき、前を見つめている。
「そうね、相手の動きを封じるというより、もっと大掛かりな感じで――」
「タイムストップって何? マティ。時間を止めるってゆーこと?」
マティの言葉にスザクが疑問を重ねた。
金属板に直接座っているのはリュシアスだけであり、彼とビャッコ以外は簡易宿舎から持ち出した二つの薄いマットレスを向かい合わせのソファのように並べ、そこに腰を下ろしていた。
レイウルフとゲンブが並び、その向かいにマティとスザクが座って四人で話している。
カイリはスザクから少し離れた場所に座り会話を聞いていた。
「時間?」
「だって、時間を停止するんだよね?」
「タイムをストッ……プ?」
マティが首を傾げている。
それを見たカイリの頬が緩んだ。
(この角度から見るのは、珍しいかも)
カイリ、マティ、スザクに、レイウルフとゲンブ、そしてリュシアスとビャッコ。
この七人が早朝に簡易宿舎を出発してから二時間弱が過ぎていた。
向かう方角は北北西。
ちょうどドワーフ領の東端をかすめて抜けたところである。
マティとリュシアスが先代のカイ・リューベンスフィアであるカインと、九十年前に旅をした北端あたりまで来ていた。
一度訪れた場所なので、この付近まではマティの〈離位置〉で移動することもできた。
だがそこから先を徒歩で進むくらいなら、ドワーフ族が置いていった金属板を利用して初めからビャッコに飛ばしてもらうほうが楽だろう――というのがリュシアスの提案である。
半径三メートル以内の人と所持品しか運べない〈離位置〉では、二十畳の広さがある金属板まで瞬間移動することはできなかった。
彼らの目的地はまだまだ遠い。
立てたヒザに頬杖をついたまま、カイリが口を開いた。
「スザク、“タイム”とか“ストップ”っていう単語は、マティたちにとっては古代語だよ。その意味がわかるのは俺と、この世界では竜と精霊くらいかな」
「そっか」
うんうんと妙に納得した様子で頷くスザク。
「じゃあ、私が教えてあげるっ。タイムっていうのは時間で、ストップっていうのは止めるっていう意味だよ。だからタイムストップっていうのは時間停止って意味に――」
「……ありえません」
小声で口を挟んだのはゲンブだった。
「なによぅ、ゲンブ」
「役名を実現しているのはナノマシンシステムですわ。その実態は、様々な役割を担った多様なナノマシンが連携するナノマシンネットワーク。原子、分子を操作することはできても、時間という基本的な物理パラメータに干渉できるとは思えません」
「え、ゲンブ、なんでそんな難しいこと、知ってんの?」
ぽかんと口を開けたスザクが目立つが、マティやレイウルフも似たような表情だ。
「スザク、あなたにも役名やナノマシンの知識はあるでしょう? それに、魔法の仕組みについてカイリさんが前に説明してくれたじゃない」
「単語やその意味はわかるけど、……よくわかんない」
口をとがらせて眉根を寄せるスザク。
性格の問題なのか、人工知能の性能が違うのか、二人の差がどこからくるのか、カイリにはわからなかった。
(同じ竜でも、個体差がかなりあるよなぁ)
幼さと美しさと凛々しさが同居するスザクの横顔を眺めていたカイリは、ふとマティの視線に気づいた。
そろそろ答えを出してほしいという合図のようだ。
「……俺が使ったのは、度等を乗せた〈鎮溢〉だよ。スザクとビャッコの戦闘を止めるためだ。度等っていうのは、魔法の汎数を引き上げて威力を上げ、効果範囲を広げ、効果時間を延ばす……まぁ、裏技みたいなものかな」
「度等? そんなの竜の知識にもないよ。どれくらい増えるの?」
興味深げに尋ねるスザクに、隠す様子もなくカイリが答えた。
「度等一つで十倍だよ。
この前の〈鎮溢〉では度等を七つ乗せたから、ええと、一千万倍……かな」
「七十倍じゃないんだ……」
「度等一つで桁が一つ上がる」
近くではレイウルフが愕然としていた。
マティはため息をついている。
「度等なんて、知ってた?」
スザクはゲンブに話題を振ったつもりだった――が、返事がない。
見ると黒髪少女はカイリを見つめていて、スザクの言葉が聞こえなかったようだ。
(なんだろ? 最近、ゲンブがカイリを見ていることが多いような……。カイリが〈大産源〉を使った日くらいからかなぁ? もっと前からだっけ?)
首をひねるスザクの横で、マティもまたゲンブを見た。
その視線がすぐにカイリへと戻される。
「〈鎮溢〉というのは、どういう魔法なのでしょうか? マスターたちと過ごしてきた私も、レイウルフと同じ認識でした」
「そうだな……名前はタイムストップだけど、実際に時間を止めるわけじゃない。原子の動きを止めるんだ。ナノマシンの相対座標固定能力を最大限に生かした魔法だよ。効果範囲内のすべての原子の動きを止める。もちろん気体分子も含めて。俺としては“絶対零度”っていうほうがしっくりくる気もするけど、実際には原子の振動まで止めるわけじゃないらしいから、絶対零度とも違うんだろうな」
目に見えるスケールで考えれば、止まっていると言って差し支えない。
原子の振動までは止めないと言っても、それなりのエネルギーを原子から奪うことになるため、発光などの現象は見られなくなる。
「どうした、ビャッコ?」
リュシアスの声が隅から届いた。
全員の視線が白髪の女に集まる。
「……声、です、リュシアス」
灰白色の瞳が縁なし眼鏡越しに前方の地平線を見据えていた。
カイリたちには何も聞こえない。
「遮音を解除します」
ビャッコの言葉と同時に、轟音が全員を包んだ。
金属板を包む空気の障壁が風を切る音である。
「――――!」
「――――ッ!」
自分たちの声さえ聞こえなくなる面々。
その騒音は五秒ほどで止んだ。
「聞こえましたか?」
どうやらビャッコが遮音効果を復活させたようだったが、板上のメンバーは顔を見合わせるばかりである。
発言したのはカイリだった。
「ビャッコ、今の騒音の中で別の音を聞き分けられるのは、風系の竜である君だけだ。何が聞こえたんだ?」
「…………」
ビャッコは完全にカイリを無視している。
だがそれはカイリも承知の上だった。
八日前にベッドの上で目を覚まして以来、ビャッコはリュシアス以外の者と言葉を交わしていない。
例外はエステルの腕をつかんだときだけだった。
ビャッコの失われた左脚を再生したことで、リュシアスはカイリに対する態度を軟化させ、自分から旅の同行を申し出たほどだ。
だがビャッコは大きな問題を起こしてはいないものの、かたくなに会話を拒んでいた。
「ビャッコ」
「……停止します」
リュシアスが声をかけると、ビャッコが金属板を空中で停止させた。
そのうえで遮音が解除されたようだった。
地上の生物の鳴き声や葉擦れの音、川のせせらぎ、そういった環境音もここまでは届かない。
かなり静かである。
風の音くらいは聞こえそうなものだが、それも聞こえなかった。
ビャッコがノイズキャンセリングのようなことをしているのかもしれない。
――そうカイリが考えたときだった。
ぁああああっ……ああぁあ…………あああああああっ!
微かに聞こえたそれは、女の泣き叫ぶ声のように思えた。
だが地上でいくら大声を上げたとしても、聞こえるような高度ではない。
声が意味を成していないせいで、遠吠えや風の音のように聞こえなくもない。
「…………」
全員が耳を澄ます中、やがて声は聞こえなくなった。
「すごく……悲しそうだった」
つぶやいたのはスザクだ。
他のメンバーは押し黙ったままである。
「予定ではそろそろ北西に進路を変えることになっています。どうしますか、リュシアス?」
「…………」
無言で立ち上がったリュシアスが、マットレスのところまで歩いてきた。
「……どうする、カイリ?」
泣き叫ぶ声が聞こえたのは進行方向からやや右――真北からである。
「声が聞こえてきた方向に、何かありそうかな?」
「むう、昨日話したように、俺とビャッコが来たのもここから北西の方角だ。ここから南に進んでドワーフ領へと帰郷した。北へは行ったことがないのだ」
「私も行ったことはありませんが――」
声を上げたのはレイウルフだった。
「もしどこまでも北に進むのであれば、氷雪の絶壁に到達すると思います」
「そうだな。だが氷雪の絶壁までは、まだずいぶん遠いのではないか?」
「たしかにリュシアスのいう通りですね。空の移動で距離感はつかめませんが、眼下にはまだ雪さえ見あたりませんし」
カイリは判断しかねていた。
かなりの上空で、しかも下からではなく北から聞こえたということは、声の主はとんでもなく遠い場所からとんでもない大声を上げたということになる。
まず人の声ではないだろうと考えるのが妥当だ。
だがその正体は見当もつかない。
ここが本当にファンタジーの世界であるならともかく、幽霊や亡霊というわけでもないだろうとカイリは考えていた。
(普通に考えれば、竜探しを優先すべきだ。でも、もし今の声が惑星規模の何かだとしたら? あるいは、竜レベルの何かだとしたら……)
四体目の竜が飛び立つ音を、カイリは森の中で聞いたことがあった。
その人型が、首輪をつけたチャイナドレスの女であることも確信している。
つまり、四体目の竜はすでに孵化しており、世界を自由に移動できる状態にある。
カイリたちが今目指しているのは予言書に記された場所。
四体目の竜――セイリュウ――の卵が埋められた場所であり、そこで何らかの手がかりを得ようとしているにすぎない。
(旅の途中で首輪の人の手がかりをつかめるのなら、それに越したことはないと思っていた。ここは、調べるべきなのかもしれない……)
その時、リュシアスが何かを思い出したような顔をした。
「ちょっと、待ってくれ」
そう声をかけてベルトポーチを探るドワーフ。
彼のごつごつした手のひらに現れたのは、直径二センチ程度の小さな丸石である。
「ダブド、ちょっとよいか?」
丸石が白い光を発して消えた。
すると、リュシアスの太くて短い脚の陰から小人の老人が姿を見せた。
「あー 久しぶり じゃ、リュシアスさん」
リュシアスと土の精の会話は二分ばかり続いた。
カイリが土の精を見るのは初めてである。
予言書の知識から、彼が六精霊の一種、土の精であろうことは見当がついた。
(やっぱりフェスと同じで、小さいだけの人間にしか見えないな)
「――そうか、間違いなさそうだな」
話を終えたリュシアスが顔を上げる。
「もしよければ北へ寄って行かぬか、カイリ。上空から眺めるだけでもよい」
「何かあるのか?」
カイリの問いにリュシアスがはっきりと答えた。
「ダブドはかつて俺の祖先たちと共に、北から移動して来たのだ。つまり北には――ドワーフ族の故郷がある」