File061. 世界の滅び
天井から垂れ下がる淡色の布に囲まれた部屋。
四角い窓から差し込む陽光が布の裏側を照らし、大きな菱形模様を描いている。
カイ・リューベンスフィアの屋敷には天井自体を発光させるテクノロジーが残っていたが、簡易宿舎にあるエステルの部屋を満たすのは布越しの穏やかな自然光だった。
聞こえるのは川のせせらぎと周囲の森から届く鳥の鳴き声。
柑橘系の香りを放つ六つのティーカップが、二つの白い丸テーブルに分けて置かれている。
カイリが〈大産源〉の魔法を使ってから七日が経っていた。
竜たちの争いにより簡易宿舎から西側は荒れたものの、東側の森には鳥たちが戻ってきている。
「エステルは来ないのではないか?」
銀の髪とひげを持つ老人が嬉しそうな笑顔を作り、椅子から腰を上げる。
彼の視線は布の間に見える棚に吸い寄せられていた。
テーブルの上に置かれたミニチュアのテーブルからミニチュアのカップを持ち上げた妖精が、澄ました顔で青みがかった透明な翅をゆっくりと動かす。
「大人しくしていて、リュシアス。昔と違って、族長になった今のエステルは忙しいのよ。午前中の用事が長引いているんじゃないかしら」
「来なくても俺は、いっこうにかまわぬのだがな」
棚の前から戻ってきたリュシアスはティーカップの香茶を一息で飲み干し、そこへ手に入れたばかりの酒瓶を傾けた。
「テクも飲むか? ……あ、いや、何でもない」
何か恐ろしい出来事を思い出したかのように、慌てて酒瓶を引っ込めるリュシアス。
カイリは同じテーブルで、その様子を黙って見ていた。
マティは落ち着いて香茶を飲んでいるだけで、他人の部屋で他人の酒を勝手に飲み始めたリュシアスを咎める気はないようだ。
対照的に、同じテーブルにいる金髪の青年の表情は複雑だった。
(無理もない。この爺さん、宿敵であるエルフ族の施設で自由すぎるだろう。エステルさんやマティがそれを許しているんだから、レイウルフさんの立場で口出しできるはずもない)
レイウルフはリュシアスをどう扱っていいのかわからず、戸惑っているように見える。
「その、リュシアス殿もこの五日ほどはここを留守にしていたようですが、どちらにいたのでしょうか?」
「ん? まあ、いろいろとな」
神殿での業務に忙しいエステルが、なんとか時間を確保したはずの昼食会ではあった。
だがカイリたちはすでに昼食を食べ終わり、その片付けも済んでしまっている。
結局エステルには後でレイウルフから報告するということになり、カイリが一週間前の話の続きを語り始めた。
背後のテーブルでは、香茶を飲む三人の竜が聞き耳を立てている。
***
一週間前、ドワーフ族の襲来により中断されたカイリの話は、“魔法”の仕組みについてだった。
古の時代に造り出されたナノマシンという目に見えないほど小さな存在。
今や地球の表面はナノマシンに満たされており、ナノマシン同士がネットワークを形成して“魔法”を実現している。
それはフェアリ族に伝わる二十六冊の予言書のうち、二十五冊にあたる日本科学技術研究所の極秘資料に記されていた内容だった。
「話しておきたいのは、世界の滅びについてです」
その一言で部屋が静まり返った。
カイリが語ろうとしているのは、二十六冊目の本――カイ・リューベンスフィアの屋敷で最初に手に取った本の内容である。
リュシアスがカップに入った酒をあおり、喉を鳴らす音が大きく聞こえた。
「世界を覆ったナノマシンの効果はすぐに現れ、地球の――世界の自然環境は回復に向かい始めたそうです」
予言書――“沈まない太陽”。
そこには悪化した自然環境が、たった二七〇年の間に回復に向かった証拠が、山や谷を描くいくつかのグラフで示されていた。
地球がグレイ・グー化することもなく、すべてが期待通りに上手くいっているように見えた。
人類は、環境破壊という最初の“滅び”の危機を脱したのだ。
だがやがて、研究者たちのある誤算が、再び人類を“滅び”の危機に直面させることになる。
「最初に異変に気づいたのは、天文学者でした」
――月が地球から遠ざかり始めている。
そしてそれに合わせるように、地球の自転が減速を始めている――と。
天文学に相当する言葉はこの世界にもあるし、天文学者も存在する。
だが、マティたちにはピンとこないようだった。
それもそのはずで、この世界の天文学が研究対象とするのは太陽とピージだけなのだ。
月は存在せず、ほとんどの人々は星空さえ見たことがなかった。
「古の時代、太陽は空を移動していました。ところがナノマシンが世界を覆うと、その移動速度が徐々に遅くなり、やがて止まったんです」
月の話はしなかった。
世界の滅びとは直接関係がないというのもあるが、“月”に相当する言葉がこの世界の言語に存在しなかったからだ。
「太陽が空を……そうでしたね、カイリ」
太陽が空を移動する。
そういう世界からカイ・リューベンスフィアが召喚されていることをマティは知っていたし、その世界が実は古の時代だとカイリから聞かされてもいた。
それでも、生まれたときから西の空に貼り付いているあのオレンジ色の太陽が、かつては空を移動していたとはにわかには信じられない。
それがマティの素直な感想であり、そうだろうなとカイリも思うのだった。
なぜ地球の自転が減速を始めたのか、それはカイリにもわからない。
天体の自転周期が公転周期に一致する現象を、天文学用語で“潮汐固定”という。
潮汐固定を生じる条件は厳しいものではなく、宇宙では珍しくもない現象である。
地球に潮汐固定が生じない最も大きな要因は、月の存在だった。
月の引力は地球の速い自転速度を維持し、地軸の傾きをほぼ一定に保つ役目を果たしていた。
だから月が遠ざかることで地球の自転が遅くなったという説明はできる。
しかし月が遠ざかった理由は不明であり、ましてや地球表面にしか存在しないはずのナノマシンが、月に影響を与えたとは考えにくかった。
ナノマシンが地球を覆うことで、磁場や重力に何らかの影響を与えたという説も予言書には書かれていた。
だが多くの研究者たちは、そんなことはあり得ないと考えていたようだ。
「第二の世界滅亡の危機。それが、太陽が沈まなくなったことです」
「待ってください、カイリ殿。太陽が沈まないだけで世界が滅びるというのは、少々大げさではありませんか?」
レイウルフが疑問に思うのも無理はない。
太陽が沈まないこの世界は確かに存在し、滅びてなどいないのだから。
今からおよそ五千万年前。
地球の自転速度が遅くなりはじめ、公転速度に一致したところで減速が止まった。
それによって何が起こったか。
常に太陽に同じ面を向けるようになることで、昼側の海は蒸発し砂漠化した。
夜側は氷の世界だ。
どちらも人類が生き残れる環境ではない。
そこまではカイリにも想像できた。
だが実際には地球の自転が減速を始めただけで、カイリには想像もできなかった災厄が世界を襲っていた。
地球表面を覆う海水は、自転による遠心力を受けることで赤道方向に膨らんでいる。
自転が減速したことで遠心力も弱くなり、赤道付近から高緯度地方へと海水の移動が始まったのだ。
赤道付近では海面が干上がり、高緯度地方では陸地が海に沈んでいく。
地球自体も赤道方向に膨らんでいるからである。
また地球の自転は、宇宙空間で地球を覆う磁場を作り出している。
それが太陽風――太陽から届く危険なプラズマから、地球を守る役目を果たしているのだ。
自転が減速することで、その効果も失われていった。
そしてやはり一番恐ろしいのは、一日の時間がどんどん長くなっていくことだった。
灼熱の昼が十年続き、極寒の夜が十年続く頃には、ほとんどの動植物が死滅しているはずだった。
だが人類は、この二度目の世界滅亡の危機を乗り越えた。
幸いだったのは、自転減速の進行が本当にゆっくりだったことだ。
ナノマシンシステムが稼働し、その二二五年後に相対座標固定能力を手に入れたとき、地球の一日はまだ一時間も延びていなかった。
“沈まない太陽”が出版されたのは、それからさらに四十五年後のことである。
その頃、ある拡張プログラムをナノマシンシステムに実装するプロジェクトが始まっていた。
「この世界の空は二層に分かれていますよね。下層の風速に比べて上層の風速はとても速い。古の時代では考えられないほどに、異常な風速です。それを作り出しているのが――」
上空十キロから二十キロのあたりを、音速の半分ほどの速度で東西方向に駆け抜ける超高速電磁ジェット気流。
電荷を含むその風は、太陽風から地球を守る盾の役割も果たしている。
ナノマシンシステムが成功にたどり着くまでの試行錯誤にかける時間は、百年も必要ないだろうと言われたいた。
空を見て、この世界が存続していることを考えればわかる。
プロジェクトは成功し、ナノマシンシステムは成功にたどり着いたのだと。
その成果が――。
「――テラフォーミング装置です」
太陽が沈まない世界。
生物が生き残る可能性があるとすれば、それは永遠の昼と永遠の夜の境界。
太陽光がほぼ水平に当たる、その帯状の部分にだけ可能性が残されていた。
ただし何もなければ、そこで生き残れるのは、せいぜい微生物くらいのものだ。
今マティたちが生きていられるのは、ナノマシンシステムが制御するテラフォーミング装置のおかげである。
「てら、ほーみ……?」
マティが小さな頭を傾けている。
そのいつもの仕草を見て、心を和ませるカイリ。
「テラフォーミング装置。この世界の命綱だ。それが、今から正確に……」
カイリは頭の中で簡単な引き算をした。
予言書を読んだのが十四日前で、その時に世界の滅びが三六四日後だと知った。
つまり……。
「三五〇日後に破壊され、世界が滅びる。それが三度目の、世界滅亡の危機だ」
カイリはテーブルを囲むマティ、レイウルフ、リュシアスを順に見つめた。
「その危機を回避するために、四体目――最後の竜を手に入れる必要がある」
その時、垂れ下がる布の向こうから、〈離位置〉の白い光が漏れた。
慣れた手つきで布をめくり現れたのは、ストレートの白髪をかき上げるエルフの族長である。
その端正な顔が一瞬で引きつった。
「おい、誰がそのワインを飲んでいいと言った? エルフ領の最高級品だぞ。ちょっと待て、まさか全部ひとりで飲んだのか?」
顔を赤くしたリュシアスが、ティーカップの上で酒瓶を逆さまにしていた。