File059. 大産源《リジェネレート》
直線的な疾走と、頭上からの斧の振り下ろしというシンプルな速攻。
だからこそドワーフ族の、その武術大会で二十連覇を果たした男の、スピードとパワーが真っ直ぐに乗った一撃。
「……問題ない」
カイリの声は静かだった。
彼の頭に突き立てられた戦斧の刃が、頭に触れた状態でピタリと止まっている。
戦斧の運動エネルギーをほぼ百パーセント吸収したのは、カイリの表面を覆う青い光の膜である。
カイリが地上から飛び降りたときに、落下の衝撃により自動で発動した〈衣蔽甲・度等1〉。
度等によって延長されたその効果時間は、リュシアスの攻撃を無効化してまだ七、八分を残していた。
怒りに身を任せたドワーフは戦斧を放り投げ、岩のようにゴツゴツしたこぶしでカイリを殴り始める。
彼が放つその一発一発の瞬間荷重は実に一トンに達したが、カイリが感じるのは指先でつつかれた程度の感触だった。
「戻せッ……ビャッコを戻しやがれッ……!」
「もちろん治します」
カイリの短い返事にリュシアスの手が止まる。
「なに?」
その一瞬の隙をついて、リュシアスの眼前に飛び込む小さな影があった。
「リュッ、リュシアスッ! カイリになんてことをするのよ!」
「……テク、か」
銀ひげのドワーフが目を細め、腕を降ろす。
彼があらためてビャッコへ視線を送ると、半透明だったはずの姿が元に戻っていた。
ただし、ベージュ色のスーツスカートからのぞく白い脚は一本だけである。
「治す、と言ったな、小僧」
苦渋の表情を浮かべるリュシアス。
「いつまでに、どう治すというのだ? 失われた脚を戻す方法など――」
「貴様らしくないな、リュシアス。歳をくって、ずいぶん短気になったものだ」
その声に反応し、真っ先に顔を上げたのはレイウルフだった。
「エステル様、お気づきになられたのですね」
エルフの族長が、上半身を起こしていた。
***
簡易宿舎の窓から見える景色は一変していた。
竜どうしが争った後に残ったのは、どこまでも続く黒い焼け跡。
炭で覆われた山の起伏はその形を大きく変え、竜が“兵器”であることを知らしめている。
カイリが視線を室内へ戻すと、ずいぶん落ち着いたように見えるリュシアスと目が合った。
ただしその顔は憔悴し、目だけがギラギラと光っている。
おそらく彼は、竜たちが争った昨日から一睡もしていない。
カイリとリュシアスの間には簡素なベッドがあり、そこに白髪の女が寝かされていた。
千五百のドワーフ兵を運び、ゲンブを軽くあしらい、スザクを殺そうとした風系の竜。
エルフ族にとっても、カイリにとっても敵対する竜であるビャッコは、昨日から意識を失ったままである。
彼女から意識を奪った〈翻弄頭・度等9〉“昏倒”モードの効果が継続していた。
ビャッコに対する治療をこの時間まで引き延ばしたのは、エステルの判断である。
狭い部屋の入口近くには宙に浮くマティと、頭にフェスを載せて立つ人型のスザクがいた。
「もうすぐ来るよ」
スザクの言葉からやや遅れて姿を見せるエステル。
その後ろにレイウルフとゲンブが続いた。
「遅いぞ、エステル」
リュシアスの怒りを押し殺した低い声を無視し、カイリに告げるエステル。
「待たせたな、二十一代目。この部屋の周囲はラウエルの騎士隊で固めてある。誰かに邪魔されることも、見られることもないはずだ」
「よいから、さっさと始めろ! 俺はまだ小僧を信用したわけではないのだからな。もしもビャッコの意識と脚が戻らねば――」
バン!
大きな音が廊下に響き、外を見張っていた騎士隊隊長の肩がビクリと跳ねる。
昨夜から族長の機嫌が悪いことを知るラウエルは、黙ったまま親指で口ひげをさすった。
室内に響くのは、壁を叩いたエステルの不機嫌な声である。
「リュシアス、おまえは捕虜の立場だということを忘れるな」
「やかましい。俺は小僧のハッタリを見極めるために留まっているだけだ」
リュシアスもまた、忌々しいという顔色を隠そうともしない。
彼は拘束されているわけではなく、手枷さえ付けられていなかった。
二人の剣幕にカイリが驚き、スザクが困った顔で周囲を見回す。
だが室内に充満する剣呑な雰囲気を、まるで意に介さない者が一人いた。
呆れ顔のマティである。
「百年経っても変わらないわね、あなたたちは。落ち着いて、エステル。リュシアスも私を信じて。カイリは必ずビャッコを救い、世界を救います」
「テク、おまえは容易く人を信じすぎるのだ。二千年間、おまえが何人のカイ・リューベンスフィアに期待を裏切られたと――」
疲れた様子でイライラするリュシアスの鼻先で、刺突用片手剣が光を反射した。
抜刀したエステルの、灰緑色の瞳が細められる。
「それ以上を口にするな、リュシアス。本当に貴様らしくないな」
ビャッコの治療を遅らせたことが、想像以上にリュシアスの精神を追い詰めていたことに気づくエステル。
だがたとえ気心が知れた仲間だとしても、言っていいことと悪いことがある。
「テクニティファが抱えるものを理解することなど、おまえには……私にもできん。だがな、これだけは言っておく」
ため息を漏らし、声のトーンを落とすエルフの族長。
「おまえがどう思おうと、二十一代目は特別だ。私がゲンブを――九十年の歳月をかけてたどり着いた竜を、預けてもかまわないと思ったほどにな。だから――」
――安心しろ。
ささやくようなエステルの言葉は、カイリの耳にまでは届かない。
ただ明らかに、自分を見るリュシアスの目の色が変わったことに気づいた。
「カイリっ」
突然声を上げたのはスザクだ。
話しかけるタイミングを待っていたようだった。
「ビャッコ姉の魔法を解いても、もう大丈夫だと思う。私はビャッコ姉と話がしたい」
同じ竜であるゲンブに自然に目がいくカイリ。
ゲンブが頷くのを見て「わかったよ、スザク」と答える。
「脚を治したら、すぐに〈翻弄頭〉を〈免全〉する」
「お待ちください」
異を唱えたのはレイウルフだった。
「もしここで再び彼女が暴れたら……そうでなくとも逃げられれば、次にいつ竜を手に入れるチャンスが来るかわかりません」
その言葉にリュシアスが敏感に反応する。
「ふざけるな! ビャッコは俺のものだ。死んでも貴様らに渡しはせぬぞ」
「大丈夫ですわ、父上」
ゲンブがレイウルフの右腕に手を添えていた。
「わたくし以上にビャッコ姉さんはカイリさんを恐れていました。逃げるという選択をためらうほどに、です。妹竜に姉竜の状態を感知する能力はありませんが、昨日の行動を見ていればわかりますわ」
「ビャッコが人を恐れただと……」
リュシアスの言葉を無視して、カイリが呪文の詠唱に入る。
――高目移行・汎数13
「レっ、汎数13……。小僧、ふざけて――」
その数字に驚き、そして驚いているのが自分だけであることに気づくリュシアス。
竜脈の流れを感知したゲンブとスザクが床を見つめた。
――通模・要俳
――天、地、海、それらを照らす光の許
「なんなのだ……その呪文は」
リュシアスの顔に懐疑と期待と恐れが入り混じる。
カイリの呪文詠唱には一片の淀みもなかった。
――世を成す万物の元にして素となる雫の
――本を参照し基から下へ導き
――戻すことを求む
カイリとビャッコを交互に見つめるリュシアス。
――転配
――役名
呪文が完成する。
「〈大産源〉」
その時、簡易宿舎が大きく揺れた。
日本人であるカイリは、それが地震だとすぐに気づいた。
(〈大産源〉の魔法に地震を起こす効果なんて、ないはずだけどな……)
突然の大地の揺れに驚いたのは、カイリたちだけではなかった。
炭で黒くなった山あいに散らばる、千五百のドワーフ兵たち。
彼らはゲンブの竜の石化から解放された後、カイリが唱えた〈翻弄頭・度等4〉の標準モード“混乱”によって、一晩中混乱していたのだ。
互いに殴りあう者、その場に座り込み動かない者、わめきながら放浪する者など、その行動は様々だった。
地震の発生が、そんな彼らの精神をさらに追い込んだ。
彼らは混乱しながらも山が連なる方向――ドワーフ領がある西へと一目散に駆け出したのだ。
その中には百人以上の部下に殴られ、ボコボコに顔を腫らしたレブリオスとタオスの姿もあった。
彼らにかけられた〈翻弄頭〉の効果時間は、残り三時間ほどである。
簡易宿舎の一室で、ビャッコが目を開けていた。
そこには俯いて背中を震わせ、涙を流すゲンブの姿があった。