File058. 半透明の女
「あの…… 戻ったみたい です」
突然聞こえた幼い声。
その声にゲンブは驚き、黒い瞳を瞬かせた。
あどけない顔で見上げてくるのは木の精のフェス。
その姿はパステルグリーンのミニワンピースを着た幼女の小人であり、身長はわずか十五センチほどしかない。
最近はスザクのボリュームがある赤髪の上でくつろいでいることの多い彼女だが、姿を見ないこともある。
そして気づくとそこにいるのがフェスであり、突然消えたり現れたりするのは木の精に限らない精霊の一般的な習性だと知られていた。
だがゲンブは知っている。
精霊はけして“一瞬”で現れるわけではない。
なぜなら精霊たちが出現する原理は〈離位置〉と同じであり、小さな身体とはいえ、その再構築には一秒ほどの時間がかかるからだ。
ただ精霊には、それを人の視界から外れた物陰で行うという習性があるようだった。
そのため彼らの出現を目の当たりにする機会はめったになく、いつの間にか居ると感じる場合がほとんどである。
ところが今足元の地面に立つフェスは、本当に“一瞬”で現れたとしか思えなかった。
物陰から姿を見せるはずの精霊がいきなり目の前に現れたことも異常なら、ナノマシンが原子を組み上げる際に生じる電子遷移の発光が全く無いのも異常だった。
そしてゲンブは気づく。
彼女の索敵履歴に、空白の時間が存在することに。
「ほんとだ、声と音が普通に戻ってる」
声を発したのはフェアリ族のマティだった。
身長が三十センチほどの彼女もまた、索敵マップ上の座標を突然移動させていた。
「ゲンブ、レイウルフ、ふたりとも大丈夫?」
「どうかなさいましたか、テクニティファ様」
ゲンブの横で不思議そうに言葉を返すレイウルフ。
彼にとって精霊がいきなり姿を現すのはいつものことであり、翅をもつフェアリ族がいつの間にかそばに来ていたとしても驚くほどのことではない。
ただ彼は、自分とゲンブを気遣うマティの言葉に違和感を覚えたにすぎない。
(今、何かが起きたのだわ。父上は気づいていない……)
ゲンブは瞬時に自己診断プログラムを起動し、自己の全機能に異常がないことを確認した。
同時に知る。
履歴に空白の時間が存在する機能が、索敵だけではないことを。
(フェスが出現するまでの六一三秒間、わたくしの全機能が停止していたのだわ……)
ゲンブは愕然とした。
そのおよそ十分間は、攻撃を受けても認識さえできなかったということだ。
気づかないうちに死を迎えていたかもしれない――。
その事実は、竜である彼女にさえ魂が冷えるような恐怖をもたらした。
(竜に対してこんなことができるのは……そうね。これはきっと、スザクとビャッコ姉さんを止めるために使われた何かの魔法だわ。その魔法に父上とわたくしが巻き込まれたということでしょう。……本当に強い、あの人は……)
物思いにふけるゲンブの耳に、三つの声が届いた。
「あなたたちは、まるで彫像のように固まっていたのよ。地上もそんな感じだったから、おそらくカイリがかけた魔法の影響だと思います」
「彫像……というと、もしや伝説の魔法、〈鎮溢〉でしょうか? 過去にカイ・リューベンスフィアが使用したという最高汎数の魔法で、六秒間相手の動きを封じると――」
「ビャッコに魔法だと!?」
マティとレイウルフの声はよく知るゲンブだが、それに続く男の声には聞き覚えがなかった。
索敵に反応を感じ、反射的に振り返るゲンブ。
その深みのある声の主は、銀のひげをたくわえたドワーフだった。
エステルが入った袋をかついでいた怪しい男だが、ゲンブが地下戦場に引き込んだ際に、その衝撃で昏倒した間抜けな――気の毒な男でもある。
それがリュシアスに対するゲンブの認識だった。
その男が目を覚ましたことで索敵に反応したのだ。
「ここはどこだ? ビャッコは無事なのか――」
白竜の姿を探して周囲を見回すリュシアスの声は、途中から突然の轟音にかき消されることになった。
少し前にこの地下空間に響き渡ったのと同じ音と振動。
ゲンブから十メートルも離れていない場所で、天井が崩落していた。
大量の土砂とともに地上から落ちてきたのは赤い鱗を持つ竜――スザクである。
既視感を覚えるゲンブ。
赤竜の身体が白い光に包まれ、赤髪の少女に戻るのが見えた。
大きな怪我がないことは、姉竜の感知能力でわかっている。
(スザクを傷つけるような魔法を、カイリさんが使うはずがないわね)
「索敵に反応がありませんわ。スザクは気を失って……あっ」
驚きの声を上げるゲンブ。
同時に皆の視線が瓦礫の上に集中した。
天井の穴から飛び降りてきた黒髪に白いローブの青年。
真っ先に声を上げたのは妖精だった。
「……カイリ!」
まるで何日も会っていなかったような懐かしさが込もるマティの声。
「無事だった……の……ね?」
その声が尻すぼみに小さくなった。
地上にいるカイリがこちらへ近づいてくることを、ゲンブは索敵で知っていた。
彼女が驚いた理由は、カイリが天井の穴からいきなり飛び降りたことにある。
その落差、二十メートル近く。
ドワーフならともかく、普通のヒューマンが無事で済む高さとは思えなかった。
だがカイリは躊躇することなく飛び降り、不安定な瓦礫の上に体勢をほとんど崩すことなく着地したのだ。
しかも地上からの光に照らされたその両腕に、スカートスーツ姿の美女を抱えたままで、である。
ドキリとするゲンブ。
(あれ……? カイリさんって……こんなに格好良かったかしら?)
まるで映画のワンシーンのような華麗さをゲンブは感じていた。
ただしそんな呑気な感想を抱いたのはゲンブだけである。
マティをはじめとする他の者たちは、カイリが抱える女の異様さに言葉を失っていた。
いわゆる“お姫様だっこ”をされた女は身体を丸めた姿勢のまま、まるで人形のように動かない。
編み込まれたルーズアップの髪は大きくほつれ、まつ毛の長い目は閉じられたままだ。
問題は、スーツを含めたその女のすべてが半透明であることだった。
しかもそのせいでわかりづらいが、彼女には左脚が無い。
それが愛する女の変わり果てた姿だと気づいた男が、怒りと殺意で全身の筋肉を膨らませた。
「ビャッコォッ!」
***
地下空洞の瓦礫の上に降り立つカイリ。
その彼の手に、半透明の女がいる。
度等を乗せた〈鎮溢〉で動きを止めた後、同じく度等を乗せた〈翻弄頭〉で意識を奪った。
彼女の体重を全く感じないのは、度等を乗せた〈品浮〉の魔法がかかっているからだ。
人間にはかからないはずの魔法、〈品浮〉。
半透明の人間など見たこともないであろうマティたちが驚くのは当然だった。
だがビャッコは人ではない。
竜とは精霊と同じくナノマシンシステム上で動作するプログラムである。
では竜に〈品浮〉がかかるのは当然かと言えばそうではない。
カイリが使った魔法は〈品浮・度等12〉であり、その汎数は13に達する。
――竜に有効な魔法の汎数は13以上のはずです。
簡易宿舎でゲンブがエステルたちに説明した言葉。
ゲンブの記憶領域にあったその知識は正しい。
カイリは近くに横たわるスザクの状態を調べるため、一旦ビャッコを降ろした。
そして巨大な穴だと思っていたその場所が、広大な地下空洞であることに気づく。
彼の目が暗さに慣れるのと、その視界が銀色の何かに遮られたのはほぼ同時だった。
「ビャッコォッ!」
鼓膜に響く大声。
鋼色の閃光が走り、重い刃によって切り裂かれた空気が唸りをあげる。
「カイリ!」
「カイリさん!」
マティとゲンブの悲鳴が幻聴のように遠くに聞こえ、何が起こったのかカイリにはわからなかった。
カイリの頭に、鋼鉄製の戦斧が突き立てられていた。