File055. 竜の虚無
落下する赤いドラゴンを追うように、急降下する白いドラゴン。
その鋭い牙が並ぶ顎を赤竜に向けて開いたまま、地上から百メートルの位置で止まった。
赤竜が炎に覆われた地上に激突し、炭になった木片や火の粉を巻き上げる。
それを見届けて、白竜はようやく口を閉じた。
そのまま空中停止を続けている。
カイリは炎の中を駆けながらその様子を眺め、歯を噛みしめた。
竜の身体は強固な竜の鱗で覆われている。
だが四百メートルの高さから落ちて無事でいられるはずもない。
カイリの予想が正しければ、スザクは落下速度を緩めることもできず、地上に叩きつけられたはずだった。
全身骨折と内臓破裂くらいで済めばいい方であり、無防備のまま頭から落ちていればすでに死んでいる可能性すらある。
スザクにかけた〈障遮鱗〉が、一回だけだったことが悔やまれた。
(〈障遮鱗〉が残っていれば、落下の衝撃を受けずに済んだはずだ。それ以前に、あのブレスも回避できたはずなのに……)
スザクに火炎と稲妻のブレスがあるように、風系のビャッコにも多様なブレスがある。
そのことを予言書からの知識としてカイリは知っていた。
スザクのように直接火炎を吐くことはできないが、森や草原のように可燃物がある場所でそれを発火させる竜の超高温気体。
その逆で水分の凝固を伴う竜の超低温気体、毒や麻痺をともなう竜の有毒気体などである。
そしてスザクに放ったブレスは、それらとは一線を画す特別なものだった。
竜の虚無。
それは簡単に言えば対象を真空で包むブレスである。
気体を送る他のブレスとは逆に、気体を遠ざける。
スザクが羽ばたいても身体を浮かせることができなかったのはそのためだ。
だがこのブレスの真の恐ろしさは、その副次効果にある。
気体分子を遠ざけるのはナノマシンであり、真空とはナノマシンさえいない状態を意味する。
つまりスザクの周囲から、気体とともにナノマシンが消えたのだ。
半径百メートル以内からナノマシンが消えれば、もう竜には何もできない。
たとえ炎の戦場と化した地上が近づいても、真空を無効化することはできず地面に叩きつけられるしかないのである。
大地が凶器となり、重力に引かれた身体を砕く。
だがカイリにはまだ希望があった。
(ビャッコが警戒を解いていない。スザクがまだ生きている証拠だ)
ビャッコが百メートルの高さから降りてこないのは、スザクの近接距離に入ることを恐れているからに違いなかった。
予言書に万能型と記述されていたビャッコだが、防御能力ではゲンブに及ばず、火力ではスザクに届かないとされていた。
しかも火系のスザクに対しては属性の相性が悪い。
さらに地上は、スザクが最初に放ったブレスにより炎の戦場になっている。
再びビャッコが竜の虚無を放ったとしても、周囲のナノマシンは気体を遠ざけるよりも先にスザクが炎を操る命令を優先するだろう。
ビャッコがスザクからの反撃を警戒するのは当然だった。
(だがそれは、スザクにまだ意識があればの話だ。もしスザクからの反撃がないとビャッコが確信すれば――)
ビャッコ周辺の大気が歪み始めるのが見えた。
空気球による光の屈折が、空に透明な水玉模様を浮かび上がらせる。
ビャッコがスザクを戦闘不能と判断し、トドメをさすために近接距離に入ることを決めた証拠だった。
(〈障遮鱗〉の呪文を唱えている時間はなさそうだ)
カイリが自身にかけた〈方定〉付きの〈障遮鱗〉はガーディの村で唱えた二回分だけであり、二日前のエステル戦と先ほどの爆発で使い切っていた。
今彼の身体を地上の炎から守っているのは、スザク誕生よりも前に十回ほど事前詠唱していた〈衣蔽甲・度等1〉のうちの一回分である。
防御魔法の〈衣蔽甲〉は誤って発動しても危険が少なく、〈障遮鱗〉のように大量のエネルギーを消費することもないため、事前詠唱の有効期間が七日と長く設定されている。
「品浮・度等2」
足を止め、叫ぶカイリ。
エステル戦の直前に設定していた事前詠唱魔法の一つである。
〈品浮〉は事前詠唱の有効期間が三日と〈衣蔽甲〉より短いが、期限切れまでまだ一日の余裕があった。
大地に右手をつき、百メートル四方の地面を〈品浮・度等2〉で持ち上げ、斜めに起こしたところで手を放す。
即席の上り坂ができあがった。
(急げ)
自分を急き立てて坂を駆けあがる。
坂の先端のさらに向こうに、空気球に囲まれたビャッコの姿が小さく見えた。
(スザクの無事を確認している時間はない。その爆弾、まだ爆発させないでくれよ)
やがて坂を登りきったカイリが息を切らしていた。
その足元は崖である。
(結構、体力がついたと、思っていたけど、まだ、全然だな。空を、飛べる魔法が、あればいいの、に)
前方上空にいるビャッコまでの距離はまだ百メートル以上。
(だが十分だ。ビャッコは俺の接近に気づいたはず。あとは……賭けだな)
これまで意識する機会がなかったが、魔法システムによる役名を発動させるには、対象との距離に制約がある。
百メートル。
魔法によってナノマシンを制御できる距離は、竜の近接距離と同じ百メートルである。
「近づいてこい、ビャッコ。おまえはスザクにもう反撃する力がないと判断したから、防御よりも空気球による攻撃を優先したんだろ? 今のおまえにとっての脅威は、スザクよりも役満を使う俺のはず。そして〈障遮鱗〉を見たおまえは、前方からの爆発やブレスが無効化されると気づいたはずだ。確実にダメージを与えるためには、空気球を四方から同時に爆発させる必要がある。つまり爆発させる前に、俺の百メートル以内に近づくしかない」
実際にはカイリに〈障遮鱗〉の魔法はかかっていない。
その呪文を唱える時間はなかった。
もしビャッコが百メートル以内に近づく前に空気球を爆発させれば、カイリは確実に死ぬだろう。
鼓膜を破った衝撃波の記憶が蘇る。
(情けないな、足が震えてきた)
だがそれを悟られまいと胸を張るカイリ。
カイリが余裕を見せれば見せるほど、ビャッコは〈障遮鱗〉を警戒するはずだった。
大きく羽ばたき、ゆっくりと空からカイリに近づく白いドラゴン。
(もう少し)
カイリは百メートルの距離を正確に把握することができる。
魔法の使用を重ねるたびに、自分の感覚が広がっていくのを感じていた。
ナノマシンネットワークは人の脳内まで入り込んでいる。
言語を自動翻訳する〈翻逸〉の魔法が機能するのは、脳内でナノマシンが活動しているからだ。
マスターたちは、なぜか魔法を発動可能な半径百メートルという距離を、自然に認識していました――というのは、マティの言葉である。
魔法が得意なエルフ族にさえそういう感覚はないらしく、異世界から召喚されたカイ・リューベンスフィアに特有の能力だとマティは思い込んでいた。
たが、おそらくそうではない。
カイ・リューベンスフィアは、例外なく〈翻逸〉の魔法をマティからかけられている。
〈翻逸〉が脳内ナノマシンと周辺ナノマシンとのリンクを強化することで、自分の役名が届く範囲にいるナノマシンの存在を、その気配を、脳内ナノマシンを介して感じているのだとカイリは解釈していた。
だからカイリにもなんとなくわかるのだ。
ビャッコとの距離がまだ百メートル以内ではないことが。
そして百メートル圏内に入る前に、ビャッコが地上付近の空中で停止した。
スザクの落下地点とカイリとの中間であり、どちらともまだぎりぎり百メートル以上を保っている。
彼女がスザクの位置を気にしつつも、カイリをいつでも攻撃できる態勢にあることは間違いなかった。
スザクにトドメをさすこととカイリを警戒することのどちらを優先するか、それを決めかねているように見える。
少なくとも今は、カイリの方を向いていた。
「どうした? そこから俺に爆弾を放っても、前方からの爆発にしかならないぞ」
聞こえる距離でないことはわかっているが、自分を鼓舞するためにそう言い放つ。
カイリの前方五メートル、たった五メートル先の空中に、複数の空気球が浮いていた。
そこがビャッコの近接距離のぎりぎり内側なのだ。
そのうちの一個でも外に飛び出せば、空気球の圧縮エネルギーが解放されカイリは一瞬で死ぬだろう。
(ビャッコは前方からだけの爆発では〈障遮鱗〉を突破できないと学習したはず。それでも簡単に近づいて来ないのは、俺の攻撃魔法を警戒しているのか)
ゲンブと会話した限りにおいて、竜は魔法システムの仕組みや大まかな体系については知っていても、ひとつひとつの魔法については全く知らないことがわかっている。
エステルから高汎数魔法の教示を求められても、期待に応えられなかったとゲンブから聞いていた。
(いいさ。ここまで近づいてくれれば十分だ)
カイリが身をかがめた時だった。
白竜の首が、スザクの落下地点を振り返っていることに気づいた。
(スザクへのトドメを優先させるつもりか?)
「スザクは動けない。おまえの相手は俺だ、ビャッコ」
そう叫んでみたカイリだが、ビャッコは背後を振り返ったままだ。
「ビャッコ、俺は――」
なおも叫ぶカイリの言葉が途切れた。
視界に赤いものが見えたからだ。
ビャッコのはるか後方。
そこに平然とした様子でホバリングする、赤い竜の姿があった。