File052. 風系センサ
「どうかしましたか、リュシアス」
スザクが竜の呪いから解放される少し前。
風の神衣の中で、空中を移動していたビャッコは主人の異変に気づき停止した。
二人はすでに幼いスザクを視認できる距離まできている。
最初は、敵の竜に近づいたことで気を引き締めたのだろうとビャッコは思った。
だがリュシアスの心拍数はさらに上がり、発汗が増えている。
風系の竜であるビャッコは、周囲に存在する気体分子の運動から様々な情報を収集している。
その感知範囲は半径十メートル以内であり、どの竜にもある索敵範囲とは比べものにならないくらい狭い。
だが得られる情報の種類ははるかに多く、極めて感度が高いビャッコ特有の風系センサだ。
その中でも主人の体調にかかわる情報は、ビャッコにとって重要事項のひとつだった。
「……もう少し近づけてくれ」
「はい」
空中に浮かぶ二人の身体を前に進めるビャッコ。
スザクの方からも視認できるはずの距離だが、風の神衣を纏うビャッコたちを目で見ることはできない。
そしてすでに索敵範囲内にいるのはお互い様だった。
リュシアスは真剣な顔で前方を見据えたままだ。
ドワーフ族の平均視力はヒューマン族のそれよりやや低く、小数視力で〇・八と言われている。
逆にエルフ族の平均視力は二・二と高い。
それは地下で暮らすドワーフ族と、森で狩りをするエルフ族の違いとされる。
ドワーフ族が近接武器である剣や斧を、エルフ族が遠隔武器である弓を得意とするのもそのためだ。
だがリュシアスの視力はドワーフ族にしては高く、ヒューマン族の平均と同じ一・五だった。
土の精のダブドが旅の途中でリュシアスに語ったところによれば、それは遺伝によるものらしい。
かつて探鉱を生業とし、山や川で食料を調達しながら放浪していた彼の一族は、静止視力に加えて動体視力も代々高かった。
その動体視力が武術大会二十連覇に貢献したことは間違いないと、ダブドは真面目な顔で説明している。
それでもドワーフ族の割には高いという程度の視力であり、エルフ族のそれには及ばない。
リュシアスに判別できたのは前方にいる赤髪の幼女と、そのそばに立つローブを着た何者かだけだった。
彼の注意を引いたのは、その白を基調とした見覚えのあるローブである。
ほぼ無意識のうちに左手だけでベルトポーチのふたを開け、直径二センチ程度の小さな丸石を取り出すリュシアス。
それは土の精ダブドの休止携行形態であり、森の精フェスの種と同じ状態である。
近づくにつれてリュシアスは、白いローブを着ているのが黒髪の若い男であろうこと、そして男のそばに小さな影が浮いていることに気づいた。
リュシアスの心臓が跳ね、彼の左手がダブドの石を強く握るのをビャッコは感じた。
「……テクまでいるのか。間違いないな」
「リュシアス?」
ビャッコが再び移動を止めた。
リュシアスの顔に浮かぶ警戒の色は濃い。
ドワーフ領へ向かう旅の最中に、二百人規模の大盗賊団に囲まれたときでさえ動じなかった主人が、まるで神頼みでもするかのようにダブドの石を握りしめている。
「ビャッコ」
「はい」
ビャッコにとって、同じ竜であるゲンブとスザク以外の存在は脅威にはなりえず、意識の外にあった。
だが今、主人の口から聞こえたのは別の、初めて聞く名だった。
「身長が三十センチくらいの女が宙に浮いているのが見えるか? テク……テクニティファ・マティ・マヌファという名のフェアリ族だ」
ビャッコからスザクまでの距離はすでに百メートルほどしかなく、竜にとっての近接距離――ナノマシン操作可能範囲――に入るかどうかという近さである。
目と鼻の先とも言える距離だが、それにもかかわらずスザクにはまだ臨戦態勢に入った様子がない。
彼女が何かを待っていることを、ビャッコは姉竜だけに許された感知能力で感じ取っていた。
スザクは彼女の主人とおぼしき者に注意を向けている。
(スザクの主人がまだ戦闘許可を出していないのかしら?)
スザクの動向に注意しながら、ビャッコはリュシアスとの会話を続けても問題ないと判断した。
金属板からの降下時に使用した空気レンズを再び発現させ、そのピントを調整する。
「背中の翅にある翅脈までよく見えます。お知り合いですか? 闘いに巻き込まないよう細心の注意を――」
「問題は白ローブの方なのだ。カインについて――カイ・リューベンスフィアについて、話したことがあったか?」
この世界において、白系統のローブは種族を問わず聖職者が好んで着るものだが、聖職者自体が少ないので見かけることは稀である。
リュシアスが見慣れたそのローブを、かつて身に着けていたのは魔術師だった。
九十年以上前に一緒に旅をした男の名をカインという。
二十代目のカイ・リューベンスフィアだ。
「いいえ」
ビャッコが空気レンズを白ローブの着用者へ向ける。
スザクの主人と思われる黒髪の青年だった。
ビャッコの知らない顔であり、ドワーフ領へ戻る途中で何度か見かけたヒューマン族に見える。
ビャッコのデータベースによればアジア系に分類される容貌だが、その情報が古すぎることを彼女は学習していた。
「カイ・リューベンスフィアとは百年に一度召喚される魔術師なのだ。二千年にわたりそのサポートをしているのがテク。エステルと同じで、彼らも九十年以上前の旅の仲間だった。ただ一緒に旅をしたカインは淡褐色の髪だったのだから、あの白ローブはカインではなく、俺の知らない次のカイ・リューベンスフィアだろう。問題は、カイ・リューベンスフィアには汎数6までの魔法を使える可能性が――」
その時、ビャッコの顔色が変わった。
姉竜だけに許された妹竜を感知する能力。
おおよその距離と方角、おおまかな状態や感情まで知りえるその力が、スザクの変化を捉えていた。
「――うかつでした、リュシアス。まさか竜を瞬時に成長させる方法があるとは思いませんでした」
「なんだと?」
リュシアスにも見えた白く輝く光。
その光がおさまっていく。
「スザクが成竜に成長しました。カイ・リューベンスフィアおよびスザクへの警戒レベルを引き上げます」
ビャッコの顔が引き締まるのをリュシアスは見た。
「ですがまだ、私のほうが優位です。子竜と成竜ほどの差はなくなりましたが、成竜どうしであっても年齢によって扱えるエネルギーには差があります。そしてカイ・リューベンスフィアについては、汎数6程度の役名では私を傷つけることも、私からの攻撃を防ぐこともできません」
「……強がるな、ビャッコ。カイ・リューベンスフィアのことはともかく、属性の相性についておまえが強く警戒していたのは知っているのだ。ゲンブという成竜は、そのせいでおまえに手も足も出なかった」
見つめ合うビャッコとリュシアス。
一瞬の間の後、ビャッコの眼鏡がキラリと光った。
「たしかに楽勝というわけには、いかなくなりました。ですが火系の竜には他の竜にはない重大な欠陥があります。ブレスにだけ気をつければ問題ありません」
「欠陥、だと?」
ビャッコがリュシアスの鼓膜を震わせた。
耳の中に響いた女の声は落ち着いている。
「なるほど」
納得するリュシアス。
ビャッコの指摘が確かに火系の竜ゆえの明確な欠陥だと思えたからだ。
「スザクはゲンブと一緒にここで五十時間を過ごしています。ゲンブ同様、エルフ族に与していることは間違いありません。私にはブレスさえ通用しないゲンブはともかく、スザクは戦闘経験を積む前に、今ここで削除しておくべきだと考えます。それに……」
ビャッコは感知していた。
スザクの意識が臨戦態勢を経て、戦闘態勢へと移行したことを。
「……向こうもやる気のようです」
「わかった」
リュシアスとしては、族長のレブリオスとタオスが始めたこの争いを止めるつもりだった。
そのために彼らが狙うエステルをこっそりと攫ったのだ。
ドワーフ族に犠牲を出すことと、旅の仲間だったエステルが失意の中で死ぬことを避けたかった。
だがエステル以外のエルフ族に犠牲が出るのはかまわない。
リュシアスもまたエルフ族に仲間を殺されたドワーフであり、それは他のドワーフと変わらない。
そしてビャッコ以外の竜には興味がなく、ビャッコが勝算のない闘いをするとも思わなかった。
ビャッコはリュシアスの女であり、彼が死ぬまで彼のそばにいると誓ったのだから。
リュシアスの願い――ドワーフ族の発展――のために、その障害となる者を排除しようとする彼女の意思を、止める理由はないのだ。
「テク様の身は傷つけないよう配慮いたします。ですがスザクと、場合によってはカイ・リューベンスフィア様については――」
「わかっている。俺がいても邪魔になるだろう。ここで降ろしてくれ」
「わかりました。ただしスザクのブレスは危険ですし、風の神衣に防御機能はありません。ダブドを起こして地下に避難していてください。できるだけ早く終わらせます」
「無理はするな。おまえに何かあれば、俺も生きてはおれぬのだ」
その言葉が嘘ではないことをビャッコは知っている。
彼女の風系センサにとって、人の嘘を見わけることなど容易いことだった。
そして同じセンサが、リュシアスにもあればいいのにと思う。
もし彼にも風系センサがあれば、ビャッコの身体がスーツの中で熱く火照ったことを彼は知るだろう。
気絶したままのエステルが入った袋とリュシアスを地上に残し、ビャッコが空に浮いた。
その姿がスリムなスカートスーツごと白い光に包まれる。
眩しさに目がくらむリュシアスだが、その光を太い腕で遮ると、地下からなにかモヤのようなものが湧き出して光に吸い込まれていくのが見えた。
それがナノマシンによって運ばれる原子群であることをリュシアスは知らない。
すぐに光が消え、純白の竜が姿を見せていた。
竜形態のビャッコである。
背に生えた大きな翼を羽ばたかせたビャッコには、ひとつだけ気掛かりがあった。
それは地下の送電線に流れた汎数13相当のエネルギーのことである。
あの場でゲンブも同時に感知していたことは間違いなく、誤検知ではありえない。
スザクが成竜化したのはそれより後であり、彼女がその原因とは思えなかった。
(考えている時間はなさそうね。ゲンブとは違い、末っ子はやる気満々だわ)
夕陽を反射する鱗をルビーのようにきらめかせ、ビャッコよりもひと回り小さい赤竜が迫っていた。