File049. 風の神衣
上空に浮く金属板から飛び降り、落下する女とドワーフの男。
女は金属板の上で交わした会話を思い出していた。
――命じてください、リュシアス。あなたをドワーフの族長にすることを。
――俺の望みはそういうことではない。
ビャッコが初めてリュシアスと出会ってから、この会話を繰り返すのは三度目である。
二週間前。
竜であるビャッコが主人と認めたリュシアスという男は、彼女を連れて九十一年振りに故郷への帰還を果たした。
北米大陸に位置するドワーフ領の地下には百五十万を超えるドワーフたちが暮らしており、ずっと地下空洞に一人で閉じ込められていたビャッコはその活気に圧倒された。
同時に、ドワーフ男たちの遠慮のない好色な目つきにうんざりすることになる。
ビャッコの外見はヒューマン族のそれであり、ヒューマン族はこの大陸で活動する商人の多くを占める種族なので、ドワーフ領でも珍しい種族というわけではない。
だが彼女はかなり目立つ美人であり、しかもドワーフ族が繁殖期の真っ最中だったのだから、男たちの反応は仕方がないことでもあった。
それでもビャッコにちょっかいをかける者がいなかったのは、彼女を連れるリュシアスが悪い意味で有名人だったからだ。
風系の竜であるビャッコは、大気を操り周囲の音を自由に拾うことができる。
彼女はドワーフ領で、口数の少ない主人からは聞かされなかった様々な情報を得ることができた。
ドワーフ族は武器を扱えば地上最強の種族と言われており、その中でもリュシアスは過去に武術大会で二十連覇を達成した経歴を持つということ。
それにもかかわらず、ドワーフ族の中では“逸れドワーフ”として蔑まれていること。
その主な理由が、ドワーフ文化の礎となっている“大鉄鉱床”が枯渇すると、九十一年前に人々に訴え続けたせいだということもわかった。
大鉄鉱床はこの時代のドワーフ族にとって信仰の対象ともいえる存在であり、リュシアスの言葉は異教徒による罵詈雑言であるかのように受け止められたのだ。
そして言葉少なく誤解を受けやすいリュシアス自身の性格と、ドワーフにしては繊細で思慮深い彼の性質は、快活で豪胆なドワーフ族の中で浮きやすかったのだろうとビャッコは推測した。
プライドの高いビャッコは、自分の愛する主人がそんな境遇にあることを許せなかった。
彼女には、リュシアスを世界の支配者にできるほどの竜としての“力”がある。
一言命じられれば、軽く散歩に出るくらいの感覚でドワーフ族を支配できただろう。
そう進言したのだが、彼女の主人がその申し出を受けることはなかった。
すでに三回断られているビャッコである。
――リュシアス、“風の神衣”を纏います。
リュシアスの耳の中の空気が鼓膜を小さく震わせ、ビャッコの言葉を彼に伝えた。
落下しながらビャッコの目を見つめ、頷くリュシアス。
次の瞬間、大気に拡散していたナノマシン群がビャッコの意思を受けて大気中の気体分子に干渉する。
風の神衣――リュシアスがそう名付けたそれは、実際には衣ではない。
その実態は大気に密度差を生じさせて光を屈折させる光学迷彩である。
ナノマシンを介して気体を自由に操るビャッコにのみ許された風系の機能であり、他者からは姿を消したように見える。
さらにビャッコは音――空気の振動――と、匂い――気体分子――を遮断することもできるため、他者がその存在を感知することはかなり難しくなる。
ただし触れることはできるし、注意深く地面を観察すれば見つけることも不可能ではない。
例えば足元の踏まれた草を、踏まれていないように見せるわけではないからだ。
二人の眼下には、円状の岩壁に囲まれて動かないドワーフの部隊がいた。
彼らの足が地面に固定されている様子を、風の神衣と同じ原理による空気のレンズで観察したビャッコがリュシアスに報告する。
――彼らを解放しますか?
頷く主人を見て、ビャッコはリュシアスの考えを想像した。
リュシアスは“支配者”になることを望まない。
彼の願いは“ドワーフ族の発展”である。
地下洞窟からビャッコを救い出した後、一度故郷に戻ることを決めたリュシアスとの旅の中で、ビャッコはそう理解した。
個人的な欲求は個人の力でつかみ取るものだと彼は考えている。
他人の力をあてにしてでも叶えたいと彼が望むのは、ドワーフ族全体の発展だった。
リュシアスにとって、レブリオスとタオスはかつて同じ戦場に立った戦友ではあるが、性格は相容れない。
それでもリュシアスが彼らを立て、今もビャッコを連れて支援に向かう理由がある。
彼らがドワーフ族の長であり、彼らの命令で動くドワーフたちを守りたいからだ。
(たとえ逸れドワーフと蔑まれてもリュシアスは……いえ、そもそも逸れドワーフになった理由が、ドワーフ族全体の未来を考えての探鉱の旅なのだわ)
地面が近づき、ビャッコが地中の空気に干渉した。
土は固体である。
そう認識することはおおよそ正しい。
だが土は、水や空気を含んでいるからこそ土なのである。
土から水分が奪われれば、砂となる。
空気もないとしたらそれは石だ。
植物は石を避けて根を張るが、土の中に根を伸ばすことはできる。
土が石よりも柔らかいのは水や空気を含んでいるからである。
植物の根が水を吸い上げるだけでなく、土の中で呼吸をしていることは、植物に少し詳しい者なら誰でも知っていることだろう。
ドワーフ部隊の足を固定していた地面は、砂地と化してその拘束力を失った。
ゲンブの意思よりもビャッコの意思が優先されたためだ。
二体の竜が同じ場所のナノマシンに干渉したとき、その優先順位があらかじめ決められている。
風は火に弱く、火は水に弱く、水は土に弱く、土は風に弱い。
それがこの世界における精霊たちのルールであり、同じ精霊系の存在――ナノマシンシステム上に存在するプログラム――である竜もまた、同じルールに支配されている。
ナノマシンに与えられた土系の命令が、土系よりも強い風系の命令で上書きされたのだ。
ゲンブが築いた岩壁は比較的密度が高く、そこに含まれる空気は少ないがゼロではなかった。
ビャッコが土中の空気を構成する窒素分子や酸素分子に運動エネルギーを与えれば、それは熱となり水分を蒸発させ、岩壁を瞬時に砂の塊へと変える。
自重に耐えられず崩壊し、雪崩のように流れる砂が近くにいたエルフ数名を呑み込んだ。
その頃にはエルフの族長エステルの身体は、リュシアスが背にする袋の中にあった。
リュシアスがエステルを気絶させ、風の神衣の中に引き込んだのだ。
「不意打ちですまないな、エステル。今日の争いを止めるには、おまえが姿を消すのが一番なのだ」
エステルが姿を消した直後、大地のナノマシンに裏切られたゲンブは大量の砂とともに地面へと流された。
風の力で宙に浮き、風の神衣の中からその様子を見おろすビャッコとリュシアス。
ビャッコの灰白色の瞳に感情の色は見えないが、近距離でのみ使用可能な竜どうしの通信回線が繋がった。
『ゲンブ、土系のあなたは未来永劫、私には勝てない。あなたに恨みはないけれど、リュシアスが大切にするドワーフ族に手を出すことは許しません。おとなしく引きなさい』
『ビャッコ姉さん……』
それは二人にとって初めての会話だったが、まるで久しぶりに会話する姉妹のように自然だった。
その時――。
ドクン!
二人の竜が同時に動きを止めた。
ハッとした顔を互いに向ける。
ビャッコからはゲンブが砂にまみれていることしかわからなかったし、ゲンブからはビャッコの姿が見えず空を仰いだに過ぎない。
だがそれでも、二人はたしかに大地の脈動を同時に感じ、互いに相手も感じたことを確信していた。
(たった今、この地で竜レベルのエネルギーが消費された)
彼女たちが感じたのは、地下の竜脈を流れた膨大なエネルギーである。
近くで竜がブレスを吐いたか、それに相当するエネルギーが一瞬で消費されたときにだけ感知できる。
魔法でいえば汎数13相当のエネルギーであり、ゲンブはすでにそれを知っていた。
カイリがエステルとの闘いで汎数13の防御魔法〈障遮鱗〉を発動したときに、その場にいたからだ。
だがビャッコは知らなった。
カイ・リューベンスフィアという魔術師の存在も、九日前にその二十一代目が召喚されたという事実も。
『スザクが何かしたようね』
『…………』
ビャッコにわかったのは、エネルギーが流れた方向とスザクのいる位置が一致しているということだった。
竜の姉は妹のおおよその位置を把握できる。
それがビャッコに勘違いをさせたのだとゲンブは気づいた。
(たぶん今のはカイリさんの魔法。スザクのそばで、何か高位の魔法を使ったんだわ)
スザクがブレスを吐いたのなら、周囲になんらかの影響が出ないはずがなかった。
それをビャッコもわかっているからこそ、“何かした”とだけ言ったのだ。
そしてその“何か”がわからないことが、ビャッコの警戒心を刺激した。
スザクが火系の竜だからである。
火系の命令は風系の命令よりも強い。
姉竜のビャッコは、三日前にスザクが生まれたことを感知していた。
生後三日の竜はまだ幼体であり、扱えるエネルギーは小さいはずだった。
そう考えてビャッコはスザクをなめていた。
だが先ほど竜脈を流れたエネルギーは成体の竜が吐くブレスに相当するものであり、もしスザクがそのエネルギーを扱えるとしたら厄介である。
『ドワーフ族に敵対するというのなら、相手にするのは早ければ早いほどいい……』
ビャッコの声に殺気を感じたゲンブが狼狽する。
『待って、ビャッコ姉さん!』
ビャッコからの返事はなかった。
宙に浮いて風の神衣をまとうビャッコを視認することは不可能である。
そして竜の姉に妹の居場所がわかっても、妹に姉の居場所はわからない。
ゲンブが見上げた空に見えるのは、青空を横切る紫色の煙だけだった。
エルフ族が仲間に撤退を告げるために放った信号火矢の煙である。