File041. ナノマシンシステム
天井から垂れ下がる淡色の布に囲まれた部屋。
四角い窓から差し込む陽光が布の裏側を照らし、大きな菱形模様を描いている。
カイ・リューベンスフィアの屋敷には天井自体を発光させるテクノロジーが残っていたが、簡易宿舎にあるエステルの部屋を満たすのは布越しの穏やかな自然光だった。
聞こえるのは川のせせらぎと周囲の森から届く鳥の鳴き声。
柑橘系の香りを放つ七つのティーカップが、二つの白い丸テーブルに分けて置かれている。
エルフ族が竜を発掘するために川のそばに建てた木造平屋の簡易宿舎には、エステルと騎士隊六名に作業員三十五名、それに使用人六名を加えた四十八名が寝泊まりしてもまだ広さに余裕があった。
そこで二日を過ごしたカイリが知ったのは、エルフ族独自の高度な建築術とドワーフ族に対する根深い嫌悪、そしてエルフ社会の矛盾だった。
エルフ領でカイリが見た第一催事場では幹の太さが十メートルを超える八本の高木がそのまま支柱に利用され、そこから広がる直径二メートル超の太い枝がかまぼこ型の巨大な天井を支えていた。
森の樹木をそのまま利用する造りは簡易宿舎も同じである。
エルフ族の建築設計ではまず自生の樹木や地形の強度バランスが前提にあり、そこに補強のための部材を加え、さらに建物に必要な機能を付加していく。
そのため自然状態の調査技術と樹木の成長予測技術はカイリの時代よりもはるかに発達しているし、自然の有機的な美しさに幾何学構造がトッピングされる独特の建築デザインは、森に暮らすエルフ族の文化を象徴するものである。
ドワーフ族はエルフ族の宿敵であり、彼らが何世代も前から頻繁に戦争を繰り返していることはカイ・リューベンスフィアの日記にも書かれていた。
使用人たちは一般的なドワーフの粗野でだらしない性格について悪態をついたし、騎士隊の口からは深刻な憎悪が吐き出された。
戦争で同僚を失った若い騎士はドワーフ族をケダモノと蔑み、その根拠を彼らに“繁殖期”があることとした。
もっとも隊長のラウエルによれば繁殖期があるのはワーウルフ族も同様らしく、彼らの祖先がともに北方の氷雪地帯に生息していたことに関連づける仮説があるという。
エルフ領への帰り支度をする若い作業員の一人は、エルフ社会が抱える矛盾についてカイリに漏らした。
エルフ族とドワーフ族は互いを嫌悪し、いつかは相手を滅ぼしたいとさえ思っている。
それにもかかわらず、エルフ領で使用されている金属製品や陶磁器のほとんどが実はドワーフ製だと彼は教えてくれたのだ。
それだけならまだしも、エルフ文化の象徴である木造建築術でさえドワーフ文化の金属加工術に支えられていると聞いてカイリは驚いた。
第一催事場の窓から見える金属製の光反射板は見事な鏡面に磨き上げられているし、箱発掘現場の縦穴に組まれた足場の金属パイプは百メートルの高さに耐えるほど軽くて頑丈だ。
いずれもエルフ族にはない技術であるが、商人を介して持ち込まれたそれらの金属製品がドワーフ製であることはあまり知られていない。
ただし材料や道具にこだわる一流職人たちの間では、公然の秘密になっているという。
「そのことで悩む人や怒る人もいそうですね……」
カイリの想像を若い作業員は一笑にふした。
「ははっ、そんな奴いるのかね? 俺たち職人は芸術家じゃねぇんだ。技術に正直だし、使う客が満足してくれるのが一番よ。自分より優れた技術を認めねぇのは、むしろプライドに反するってもんだ」
「そんなものですか」
「おうよ。ドワーフどもは憎っくき敵だが、それとこれとは話が別さ。奴らの金属加工術が他種族のはるか上をいってることは、このルーサ様が保障するぜ」
カイリはその若い作業員が自分よりずっと年上であることも、簡易宿舎の建築責任者だったことも知らなかったが、その言葉に感銘を受けたのだった。
(世界を救ったとしても、この人たちが戦争をやめるわけじゃない。それでも救う価値はきっとある。人類が築いてきたものが、受け継いできた魂が、この遠未来の地球に生きているんだ……)
カイリとマティ、それにスザクの三人が、天井から布が垂れ下がるエステルの部屋に呼ばれたのは三日目の朝のことだった。
部屋にはエステルの他にレイウルフ、ラウエル、ゲンブの三人もいて、七人で朝食をとった。
すでに朝食は片づけられ、今はエステルが用意した食後の香茶を飲んでいるところだ。
二つのテーブルの一方にエステル、レイウルフ、ラウエルとカイリがいて、テーブルの端にはミニチュアのテーブルと椅子が置かれマティが座っている。
その手には一人用のミルクピッチャーを思い出させる小さなティーカップがあった。
「今日はわざわざ私専用の家具や食器を探してきてくれて、ありがとうエステル」
優雅に微笑むマティに笑みを返すエステル。
「持ってきたのはレイウルフだ。おまえがこういうことに気が利くとは意外だな」
「いえ私は、今朝ここに来る前にソロン様に持たされただけです。九十一年前から大切に保管していたとおっしゃられていました」
なるほど、ソロンが――と、エステルがにこやかに言いかけたときだった。
「ところで今日は、サナトゥリアの話ということでいいのかしら?」
底冷えのするマティの声が、一瞬で場の空気を凍らせた。
もう一方のテーブルでは、飲食を必要としない竜の少女が二人と木の精が一緒に香茶の匂いを嗅いでいた。
***
「ナオマ……何だそれは?」
「ナノマシンです」
エルフ族特有の長い耳をぴくりと揺らせたエステルの言葉をカイリが訂正した。
――予言書の内容について、限られた人間だけで話がしたい。
そう希望したのはカイリだった。
もともとそのつもりだったエステルが多忙な業務の合い間に作ったのがこの朝食と香茶の時間である。
サナトゥリアの件が後回しにされてむくれていたマティが、真顔で首をかしげた。
「なのましんって何ですか?」
マティのその仕草が相変わらず可愛いことに感心しつつ、エステルが何も知らないことを確信するカイリ。
(やはり情報を握っているのはサナトゥリアの方か。エステルさんが竜のことを知っていたのは、サナトゥリアから聞いたからなんだろうな)
カイリの脳裏に浮かぶのはサナトゥリアの指先で揺れる一枚の紙切れ。
予言書から彼女が切り取ったそのページには、確かに書かれていた。
“ナノマシンシステム総合責任者認証方法”――と。
手にしたティーカップに口をつけてから、カイリはテーブルを囲むひとりひとりを見つめた。
もったいぶっているわけではない。
異世界ともいえる遠未来に生きる人々に、どう説明すれば伝わるのかを考えていた。
「今からおよそ五千万年前、超遺伝子とも言える詳細な惑星設計プログラムが内蔵されたナノマシンを、日本と呼ばれる国のとある研究施設が完成させたんだ」
マティはもちろん、テーブルを囲む全員がさっぱり理解できないという顔をしている。
それを予想していたカイリは、用意していた別の言葉に変えた。
「大昔に、目に見えないくらい小さな虫が生まれた。大きさは花粉や細菌よりも小さく、ウィルスくらい――じゃわかりませんね。とにかくとても小さな虫だと思ってください」
「はい」
マティが返事をし、エステルが頷いて続きを促した。
「その虫は自分で仲間を増やすことができます。人の細胞がそうであるように、同じ遺伝子を持ちながら様々な機能を持つ仲間を増やします。傷つけば自己修復し、周囲の必要な元素を取り込んで自己増殖を繰り返します」
ナノマシンは神経細胞のように互いにネットワークを形成し、思考し学習する。
必要な元素が足りなければ、そこにある元素で必要な機能を実現する構造を考案し改良を繰り返す。
強度が足りなければ強度を増す工夫を、環境に耐えられなければ耐えられる工夫を、多変量解析や機械学習を駆使して最適解を導き出す。
その結果としてナノマシンが後天的に獲得したのが座標固定能力だった。
それは一見すると運動量保存の法則に反しているかのように見えた。
ナノマシンが必要に応じて自らの相対座標を固定するその機能は、ナノマシンシステムにあらかじめ格納されていた個人用役名システム――別名、魔法システムを実現するブレークスルーとなるのだが、その原理が人類に解明されることはなかった。
ナノマシンが重力子に干渉する方法にたどり着いたのだと主張する研究者もいたが、その仮説が立証されることはなかった。
(このあたりの話は元高校生の俺には難しすぎるし、人に説明できるわけもない)
黙りこんでしまったカイリを気遣うようにエステルが発言した。
「仲間を増やすというのは、我々が子を産み増えるようなものか?」
「そうですね。ただし増えるスピードが全然違って幾何級数的――いわゆるネズミ算で増えます。一個のナノマシンは一分当たり平均一個の仲間を増やしたそうですから、二分で四個、三分で八個、四分で十六個に増えたことになります」
カイリの背後から聞こえる「子だくさん……」という言葉。
振り返るとゲンブが顔を赤くしていた。
おそらく何か勘違いしているのだが、気にしないことにするカイリ。
フェスの声で「絶倫 です」という、わけのわからない言葉が聞こえた気がしたが忘れることにした。
スザクだけがきょとんとしていることがカイリの心の救いだった。
五歳児に見える彼女は天使のようにあどけない。
「よくわかりません、カイリ。目に見えない虫が十六匹に増えることが、魔法の仕組みと関係があるのでしょうか?」
マティの質問にカイリが頷いた。
予言書に書かれていた内容のうち、まずは魔法について話すことにしたのだが、ちっとも進んでいない。
「たいした増え方には感じないかもしれないけど、こうやって増えていくと一時間後には一億の一億倍の数になるんだ。石も生物も空気さえも、その虫たちのエサになって、たった数時間でこの惑星はナノマシンの塊に姿を変える」
皆、ぴんとこないという顔だった。
「この世界全部が、一匹一匹は目に見えないくらい小さな虫だけの世界になってしまうんです。当時の研究者たちは、ぐにゃぐにゃでぶよぶよした灰色の塊をイメージしてそれを“グレイ・グー”と呼びました」
「ちょっと待ってください。魔法の仕組みの話ではなかったのですか? それに今の世界はそんなことにはなっていないでしょう」
口を挟んだレイウルフに頷くカイリ。
「すみません、ナノマシンが増えるスピードについて実感してほしかっただけです」
グレイ・グーの危険性はナノマシンが実現するずっと前、その構想が科学会で議論され始めた頃からすでに懸念されていた。
だから開発されたナノマシンには安全を最優先とする様々な制約があり、フェイルセーフを基本とする数々のインターロックシステムについて何百万回も試験された。
あるひとつの誤算を除けば、それは成功したと言ってよかった。
地球がナノマシンに飲み込まれるようなことにはならなかったのだから――。