File040. 自由な竜
高く舞い上がった土煙が、風に運ばれ薄れていく。
〈一気通貫・度等2〉を放ったカイリの目に映ったもの。
それは岩肌だった。
広場の端まで続く切り立った岩壁が視界を覆っていた。
その高さは十五階建てのマンションほどもあり、見上げると押しつぶされそうな圧迫感がある。
荒れた地面となぎ倒された森の木々を見て、岩壁が地面の下からせり出したものであることがわかった。
カイリやマティがいる場所と、エステルやその部下たちがいる場所が完全に分断されている。
驚きのあまり口を大きく開けたままのマティ。
かつて彼女が驚嘆した〈燐射火囲包・度等3〉の火球を超える迫力であり、これほどダイナミックな魔法をエステルが使えるとは思えなかった。
そしてカイリは、そもそもこんな魔法が存在しないことを知っている。
地鳴りが響き、岩壁がゆっくりと沈み始めた。
それを眺めながら感慨にふけるカイリ。
(これが固体を操る土系の竜の力か。これほどの質量を動かすのに、いったいどれほどのエネルギーを消費しているのか……)
竜は役名の知識を持っているが使用できず、使用する必要もない。
その理由がこれだった。
兵器として存在する竜が扱うエネルギーは膨大であり、成長した竜のそれは汎数13の役名――役満に相当する。
人が扱うために用意された汎数13以下の役名など竜には不要なのだ。
攻撃するにしろ防御するにしろ、彼女たちとわたり合うには役満が必須である。
再び舞い上がった土煙が消えたとき、岩壁は地面の下に消えていた。
掘り返された荒れ地の向こうに、黒髪の少女が両腕を広げて立っていた。
耳が長くとがったエルフ族ではない。
カイリより少し年下の日本人にしか見えなかった。
高校の制服を着せれば素直で可愛い優等生の後輩、しかも校内一の美少女というのがカイリの第一印象だった。
(首輪の人やスザクを見たときにも思ったけど、もう間違いないな。どうやら竜の人型は、日本人好みの美形に設計されているらしい)
これが米国の設計なら、もう少しワイルド感やグラマラス感が出そうな気がするカイリだった。
「君が、“ゲンブお姉ちゃん”――か」
カイリの呼びかけで少女が視線を上げた。
返事の代わりにカイリを襲うすさまじい殺気。
〈障遮鱗〉に守られながらも反射的に萎縮してしまうのは、人としての本能だと諦めるしかなかった。
(それでも少し、慣れてきた気がする)
そんなカイリの顔が赤くなった。
それだけの余裕を持てるようになったとも言える。
少女が身に着けたエルフ族の衣装――サナトゥリアが着ていたのと同じ多種の色が鮮やかな服――だったものが、黒く焦げてボロボロになっていた。
それが崩れるように地面に落ち、風に舞う。
彼女が築いた絶壁は間に合っていなかった。
エステルは確かに〈一気通貫・度等2〉の光にのまれ、少女の出現と岩壁の生成はその直後だった。
少女のはるか後方にある森では黒こげになった木々の一部が燃えており、百億ボルトの雷撃が残した一筋の爪痕となっている。
それでも〈一気通貫・度等2〉が直撃したはずの少女は無傷で、その白い裸体を包む光が消えると新たな衣服が生成されていた。
白の小袖に緋色の袴。
カイリの記憶では巫女装束と呼ばれるものであり、ストレートの黒髪が映える。
「申し訳ありません、エステル様。相手の竜が参戦するまでは出るなという言いつけを破り、相手の役名を防ぐこともできず、いただいた服をだめにしてしまい、そのうえ……」
「いいんだ、ゲンブ。決着はついた」
エステルの声だった。
「……そのうえ、わたくしの出る幕ではありませんでした」
背後を振り返り、頭を下げて謝罪するゲンブ。
カイリに向けられた殺気は消えていた。
何事もなかったかのように佇むエルフの族長がそこにいた。
髪の毛一本さえ焦げていない。
「まあ、そうだが。私が無傷なのは、これのせいだ」
そう言いながら小石を頭上に投げるエステル。
それが重力に従って落下し、彼女の白い髪に触れた途端、六角形の光る盾が出現して小石を弾いた。
「それは汎数13の防御系役名では――」
「そうか、汎数13の魔法か、これは……」
やれやれといった様子でエステルが息を吐き、カイリを見据えた。
「気づいたのは光にのまれたときだが、これはおまえの仕業だな二十一代目。――いつ発動させた?」
「あなたの〈一気通貫〉が俺に当たったときです。俺自身と、俺が敵対者と認識する相手の両方に〈障遮鱗〉が発動するよう設定していました」
それにより一人当たりの防御力は半分に落ちたが、それでも汎数2や4の攻撃魔法を防ぐには十分だった。
もう一度息を吐いたエステルが、諦めた様子を見せる。
「私よりおまえの方に余裕があったというわけだな」
「お互い様です。あなたの〈一気通貫〉は俺を確実に殺せるはずの脳や心臓から外れていた。それでも〈障遮鱗〉がなければ重傷だったでしょうけど、あなたほどの達人がミスで外したとは思えない」
そこまで言って無言で見つめあう二人。
言うべき言葉、聞くべき言葉があった。
が、そこに割り込む小さな影。
「もう、……終わり?」
幼い声が近くで聞こえた。
声の主を視界の下方にとらえたエステルが目を見開く。
ボリュームのある赤い髪、きりりとした眉と大きな紅い瞳。
五歳くらいの幼女がそこにいた。
頭には木の精を乗せている。
「あー、出てきちゃったか。待っていてくれって言ったのに」
ぽりぽりと頭をかくカイリにニヤリと笑うエステル。
「おまえの竜も命令違反か? 竜はその主人に絶対服従と聞いていたが」
「スザクは箱のシステムを使わずに生まれました。契約に縛られない“自由な竜”なんです」
「ほう、なるほどな。ゲンブもそうだ。私はこの娘を気に入っていて、正直手放したくはなかったが……」
ほのぼのと話す二人に、呆然とするゲンブ。
そしてなぜかニコニコしているスザク。
彼らを見て叫ぶ者がいた。
叫ばずにはいられない者がいた。
「ど、どういうことですか、カイリ! ちゃんと説明してください。私がどんな気持ちで、二人の戦いを見ていたと……思っ……へ……」
マティの両目に涙が浮かんでいた。
その小さな体が震えている。
「あ、えーと……」
困るカイリに助け船を出すエステル。
「悪かった、テクニティファ。だが認めたのだ。二百万のエルフを率いるこの私が、おまえの連れをな。そのために必要なことだった」
顔を上げるマティ。
「認めた……?」
「そうだ。二十一代目が、竜を手に入れるにふさわしい器だとな」
言うべき言葉をエステルが口にし、聞くべき言葉をカイリは耳にした。
だが――。
「わたくしは父上の竜です」
きっぱりとした言葉。
ゲンブが真っ直ぐな瞳でカイリを見つめていた。
幼いスザクがなぜか困った顔で、カイリの足にしがみつく。
今のゲンブに殺気はないが、好意もない。
それは当たり前だとカイリは思う。
彼女もまたスザクと同じ自由な竜であるのなら、彼女の行動は彼女自身が決めることになる。
(出会ったばかりの、しかもエステルさんと戦った俺に好意など持てるはずもない……)
「父上……か。エステルさんとは別の、慕う主人がいるんだね。今はそれでかまわない。俺はまずその人に、次に君に、認めてもらうよう努力するよ」
箱のシステムで人が孵化させた竜であれば、その人の意思で竜を移譲することができる。
だが自由な竜であればそういうわけにはいかず、主人を殺せばすむという話でもない。
(最初は卵を見つけるだけだと思ったのに、すでに生まれた竜――首輪の人がいることを知った。こんどはさらに自由な竜だった……か。難易度は上がる一方だな)
気がつくとゲンブのそばにエルフの男が立っていた。
眉をひそめるマティ。
「あなたは妖精の樹海で私を襲った……」
「申し訳ありません、テクニティファ様」
謝罪するレイウルフ。
カイリは彼の顔を見ていなかったが、マティの言葉で察した。
召喚されたばかりの森で受けた威嚇射撃。
その恐怖で腰が抜けたことを思い出し、情けない気分になる。
すぐにエステルが口を挟んだ。
「すまない、テクニティファ。レイウルフは命令に従っただけで、責任は私にある」
「エステル様のご命令ではありません」
「エルフ族の責任は私にある」
腰に手を当てたマティが呆れ顔で言った。
「謝ってくれたから、もういいです。エステルの命令じゃないなら、族長代行のサナトゥリアの命令なんでしょう。それについては後で話しましょう」
マティの目が座っている。
この場では口にしなかったが、サナトゥリアがカイリを殺そうとしたことを忘れてはいない。
思い出が詰まった屋敷を燃やすはめになったことも。
サナトゥリアがカイリたちに接触したことは知っているものの、何があったかまでは知らないエステル。
彼女は額に冷や汗を浮かべたまま何も言わず頷いた。
そしてカイリは、むしろそんなエステルに同情した。
(二百万のエルフを率いるエステルさんでも、マティにはかなわないのか……)
高校生の自分がマティにかなうはずがなかったと、深く納得するカイリだった。
ゲンブの袴の裾を、スザクの小さな手がつかんでいた。
見おろすゲンブの視線を、にぱっと笑うスザクの顔が迎えた。
***
「あんたらが族長さん? 話のわかる人で嬉しいわぁ」
ショートボブの金髪が揺れる。
女エルフの細身を舐めるように見つめる濁った四つの赤い目があった。
部屋には酒の匂いが充満し、床には数本の徳利と少女のように見える数人の小柄な女が転がっている。
「糞エルフの小娘ェ。くだらん情報なら、この場で犯して殺すゥ」
「殺してから、犯すゥ」
低い声と高い声が続けて聞こえたが、どちらも不快であることに変わりはなかった。
だがサナトゥリアに怯む様子はない。
「知りたかったやろ? エルフの族長の居場所」
そこはドワーフ領の最深部だった。
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