File039. 障遮鱗《プロテクト》
本気で戦わなければ、わからないことがある。
馴れあって空気を読んで角が立たないように過ごすのは、平和な日常の処世術だ。
カイリが身を置いていた“受験戦争”も、今から思えば平和そのものだった。
滅亡まで一年を切ったこの世界で、本気で世界を救おうとする者が欲するのは、穏やかに日々を過ごせる隣人ではない。
性格に難があっても、馬が合わなくても、容姿や出自が悪くても、そんなことは一切関係ない。
世界を救うための信念と実力、その二つがあれば信頼できる。
道なき道を、生命を賭してともに歩む仲間として認められる。
笑顔で挨拶を交わしても、何もわかりはしない。
本気で戦わなければ、本気と実力を知ることも、知らしめることもできない。
そして中途半端な志と力しか持たない相手には、命を預けることも、竜を預けることもできはしないのだ。
しばし動きを止めたエステルだが、カイリによる〈消散言〉が発動すると同時にカイリに向かって駆けだしていた。
彼女が数十年ぶりに覚えた恐怖は、すでに意識から消えている。
カイリは「ショウサンゲン」と発声した。
事前詠唱魔法の発動条件は、なにも正式な役名である必要はない。
条件さえ決めておけば無詠唱でもかまわないし、独自の呪文でもかまわない。
周囲の音が消えたことで、「ショウサンゲン」の発声を条件として〈消散言〉が発動したことをエステルは悟った。
〈消散言〉は対魔術師戦で無敵を誇る魔法である。
だが――。
(私の本気と実力を確認した、だと? それを見せるのはこれからだ、二十一代目)
風のような動き、そう表現するのがしっくりくる速さと滑らかさだった。
エステルが移動しながら腰から抜いたのは、細身の刺突用片手剣。
〈消散言〉は対魔術師戦で無敵を誇る魔法である。
だがエステルは、魔術師ではなかった。
(対人・一の型、“乙女の青真珠”)
鏡面仕上げの細い刀身が陽光を反射し、五筋の閃光が走った。
エステルの長く白い髪がなびく。
魔法ではない。
純粋な剣術である。
エルフの族長エステルは、まだ森林防衛隊隊長だった頃にドワーフ族から白い悪魔と恐れられた一騎当千の魔法剣士であり、魔術と剣術、さらには弓術においても師匠級の実力を有していた。
カイリには視認できない剣先が残光だけを目に焼きつけて、人の急所である目、喉、鳩尾、膀胱、金的の五か所を正確に、容赦なく、ほぼ同時に射抜く五連撃。
――のはずだった。
(……だめか)
エステルの目の前で、すべての剣撃が六角形の板状に光る何かに弾かれていた。
それは次々と現れては消える盾のように見える。
(〈一気通貫〉と矢の雨を退けたのも、これか。〈衣蔽甲〉とは違う、はるかに強力な防御魔法。史実において〈衣蔽甲〉以外の防御魔法は知られていない。ゲンブが口にした汎数13の魔法は、本当に存在するのかもしれんな)
エステルの白い髪の生え際から汗がにじんだ。
リザードマン族の村でカイリが〈方定〉をかけた事前詠唱魔法。
それがこの六角形の光る盾を無数に発生させる防御魔法〈障遮鱗〉だった。
術者に接触する物体の運動エネルギーや振動エネルギーを吸収する〈衣蔽甲〉とは違い、〈障遮鱗〉はあらゆる物質を押し返す。
六角形の盾は雷を構成する荷電粒子さえ押し返し、川の水が岩を避けて流れるように〈一気通貫〉を受け流した。
発動条件は以前〈衣蔽甲・度等1〉を設定したときと同じ“身体が傷つくこと”。
カイリに達した雷は、皮膚の表面を軽く火傷させただけである。
大電流が身体に侵入するよりも速く、〈障遮鱗〉は発動した。
〈障遮鱗〉の汎数は13である。
軍上層部に公開された魔法の最大汎数が13であることから、汎数13の役名を役満とも呼ぶ。
公開された役満は全部で十五個あり、そのうちの攻撃魔法はいずれも大量破壊兵器に相当する威力があるとされている。
ちなみにスザクを強制孵化させた隠し役名〈召雛子〉も役満のひとつである。
その知識を予言書から手に入れたとき、カイリは攻撃用の役満を永久に使わずに済むことを願った。
核兵器のように放射能をばらまくことこそないものの、地形を変えるほどの破壊力を持つ魔法には違いないのだから。
カイリの鼻先にエステルの顔があり、視線がぶつかった。
漆黒の瞳と灰緑の瞳がしばし見つめ合う。
(あなたは俺に傷一つつけることはできない)
話しかけようとしたカイリだったが、声を出せないことに気づいた。
エステルが目の前にいることで、彼女を中心に展開している〈消散言〉の効果範囲内にカイリも入っていた。
(これも計算ずくか……。あなたのカイ・リューベンスフィア対策は完璧だ、エステルさん。二十代目までのカイ・リューベンスフィアなら、全員があなたの前に屈しただろう。でも……)
カイリが小さく腕を動かした。
それに反応して素早く距離を取るエステル。
「そう。俺はあなたが知るこれまでのカイ・リューベンスフィアじゃない。あなたにとって未知の魔法を使う未知の存在だ。だから俺のちょっとした動きにも、あなたは警戒せざるをえない」
〈消散言〉の効果範囲外になったカイリの言葉。
エステルはそれを認めざるを得なかった。
なぜならとっくに過ぎているはずの〈消散言〉の効果時間が、まだ続いているからだ。
魔法の汎数を引き上げる度等の存在をエステルは知らない。
カイリが発動させた〈消散言〉は、度等をひとつ乗せることで効果時間を十倍に延ばしていた。
〈消散言〉の影響下では〈離位置〉で逃げることも、気休めの〈衣蔽甲〉を張ることもできない。
投げつけたレイピアは、当然のように〈障遮鱗〉に弾かれた。
そしてエステルの視線の先で、カイリの口がゆっくりと動いた。
「一気通貫」
カイリが発動した〈一気通貫〉は、事前詠唱時に度等を二つ乗せることで汎数2から汎数4に強化されていた。
それはエステルが放った〈一気通貫〉の百倍の威力を意味している。
役名の漢字を音読みする発動条件は、スザク誕生時に意図せず〈離位置〉を発動させてしまったカイリが、その経験を生かしたものである。
役名をうっかり口にして暴発させる危険がなく、かといって忘れる心配もなく、かつ相手に何の魔法かを知られる欠点もない。
この世界の住人は日本語で構成される呪文を音で丸暗記しているだけであり、その意味も、ましてや予言書に書かれた漢字を知るわけもないのだから。
念のためここに来る前に動作で発動する事前詠唱魔法も用意していた。
ただし暴発を恐れて複雑に設定してしまったため、余裕があるときにしか使えない。
カイリの手の上で〈一気通貫・度等2〉の閃光が弾けた。
それがエステルをのみこむ光の奔流と化す。
(これは……)
何かに気づいた様子のエステル。
だがその姿は、すぐに百億ボルトの暴力的な光の中に消えた。
――辺境の山々に、轟音がこだました。