File032. 老エルフ
優しく揺れる木漏れ日。
その光景に懐かしさを感じ、カイリはなぜだろうと考えてすぐに気づいた。
影を長く伸ばす西日がいつまでも続くこの世界に来て、七日目。
上から差し込む陽射しを見るのは、これが初めてだった。
高い壁の上部に洋風の格子窓が並ぶ巨大な木造建築物は、かまぼこ型で学校の体育館によく似ていた。
高い舞台の中央に演台が置かれ、そこから見おろす床はサッカー場が丸ごと入るくらいに広く、窓からの木漏れ日に照らされている。
窓の外には高木の緑と、外壁に取り付けられた金属板の一部が見え、木々の間から入射する太陽光を金属の表面が反射していた。
「ここはエルフ領の中央神殿区にある第一催事場です。種族規模の祭礼や儀式の中心になったり、族長のエステルが公式の声明を発表したりする場として使われています」
静かな屋内に響く妖精の澄んだ声に、驚きの表情を浮かべる黒髪の青年。
マティが唱えた〈離位置〉で二人が出現したのは、かろうじて袖幕の陰ではあるものの舞台の上だったからだ。
もし式典の最中であったなら、大統領の演説中に乱入するようなものである。
すぐに取り押さえられて牢屋へ直行だったのではないだろうか。
周囲に人の気配がないことを確認し、安堵の息をもらすカイリ。
「どうしてここに?」
「領内ではここが一番安全で、エステルがいる中央神殿に近いからです。この時期に祭事がないことは知っていますし、祭事がなければ一般者の立入りが禁止されていますから」
無人の森とは違い、人が生活する場所ではどこで誰に見られないとも限らない。
エルフという単一種族が暮らす土地で、フェアリ族とヒューマン族の組合せは間違いなく目立つ。
子竜のスザクを連れていることもあり、できるだけ目立ちたくはない彼らだった。
(人が大勢集まる場所と聞いて驚いたけど、確かにここは盲点かも)
マティは以前にもよく利用していたのかもしれない。
……と納得しかけて、何かが腑に落ちないカイリ。
〈離位置〉には術者が訪れたことがある場所にしか移動できないという制約がある。
予言書に書かれていた制約はそれだけだが、実際にはそれだけでは不都合があるはずだとカイリは思っていた。
「立入禁止の場所にも〈離位置〉できるっていうのは、まずいんじゃないかな。銀行の金庫だろうと大統領の寝室だろうと、一度入れば自由に出入りできることになってしまう。それに……」
カイリは屋敷で聞いたマティの話を思い出していた。
腑に落ちなかった理由がそこにある。
「エルフ族は別の種族と戦争中って言ってなかったっけ? 領内に誰でも〈離位置〉できる状態になっていたら、攻められ放題じゃないか」
正確には“誰でも”ではなく、エルフ領を訪れたことがある者だけということになる。
だがスパイを送るなり、捕えたエルフ兵に〈離位置〉させて同行するなりすればクリアできる問題だ。
考えればいくらでも方法があるようにカイリには思えた。
落ち着いた様子でにっこりと微笑むマティ。
彼女の目の前にいる青年は、異世界から召喚された二十一人目のカイ・リューベンスフィアである。
彼が質問した内容は、〈離位置〉という魔法を知った彼らが必ず抱く疑問だった。
「エルフ族と昔から争っているのはドワーフ族ですね。ドワーフ族の領内もそうですがエルフ族の領内にも、実は〈離位置〉で出現できる場所はほとんどありません。多くの種族はそういう土地を選んで集落を作っています」
砂漠からガーディの村に戻るとき、村の中に直接〈離位置〉できなかったことを思い出すカイリ。
出現したのは、前日にマティがカイリを連れて村を訪れた場所だった。
スザクの黒い箱が溶けてカイ・リューベンスフィアの屋敷へ〈離位置〉したときも、戻った場所は初めてマティに連れてこられた崖の上だった。
妖精の樹海では、〈離位置〉で行けるポイントの一つがあの池のほとりということになる。
移動したら目の前に人がいたという事態は、それほど珍しいことではないのかもしれないとカイリは思った。
「〈離位置〉でどこにでも自由に出現できるわけじゃないってことか。〈離位置〉で消える場所にも制限はあるのかな」
「そういう場所はめったにありません」
例えばそれがどこであろうと、戦いの最中に〈離位置〉で逃げることはできる。
だが〈離位置〉で敵の背後にまわり不意をつく、といった便利な使い方はできない。
それがマティの説明だった。
「私がここに〈離位置〉できた理由は――」
「それはマヌファ様が、その同行者まで〈離位置〉を許可されるほどの、エルフ族最重要人物として一八〇三年前から中央神殿に登録されているからでございます」
しわがれた男の声だった。
マヌファは、マティのラストネームである。
テクニティファ・マティ・マヌファが、フェアリ族であるマティのフルネームだ。
その老人は舞台袖の奥にある階段から現れた。
手にほうきを持っていることから、階段下で掃除でもしていたのだろう。
マティが言うほど安全な場所というわけではなかったようだ。
そう認識したカイリの顔に警戒の色が浮かぶ。
ほんのりと青みがかった白い服と帽子は、聖職者が着用するリヤサとクロブークと呼ばれるものに似てゆったりしていた。
ちぢれた白いひげは腰に届くほど長く、顔には深いしわが刻まれている。
カイリが思い出したのはテレビで見たローマ教皇の姿だったが、ぎょうぎょうしさや派手さはなく、どちらかというと質素な教会の神父という雰囲気だ。
〈離位置〉許可者を登録できるという中央神殿に興味をひかれもしたが、その思考はマティの大きな声に遮られた。
「ソロン、あなたに会えて良かった! 百年ぶりかしら?」
「お久しゅうございます、マヌファ様。九十一年ぶりでございます」
笑顔の二人を見て警戒をとくカイリ。
宙に浮く小さなマティに対し、ソロンと呼ばれた老人が右腕を胸に当てた。
胸に当てた手でこぶしを握るのが軍隊式、指を揃えて伸ばすのが神殿式の“上位者”に対するエルフ族の敬礼である。
そのことはカイ・リューベンスフィアの日記に書かれていたのでカイリも知っていた。
ソロンの敬礼は後者である。
妖精と老エルフは互いを懐かしむ会話を交わしていたが、やがて次の一言でそれが途切れた。
「――エステルは元気にしてる?」
マティの問いかけに初めてソロンが口ごもった。
戸惑いの視線がカイリに向けられる。
「マヌファ様、そちらのお方は……」
「ご、ごめんなさい、ソロン。すみません、カイリ。紹介が遅れましたが、こちらはエルフ族六神官の一人でソロン。私の“仲間”の一人です」
マティから“仲間”という言葉をカイリが聞くのは初めてだった。
リザードマン族のガーディに対しても使わなかった言葉だ。
「ソロン、こちらは、その……」
マティがカイリの顔色をうかがった。
その意味を図りかねたカイリは、やがてカイ・リューベンスフィアの日記を思い出した。
過去のカイ・リューベンスフィアたちはマティにマスターと呼ばれ、他者にはカイ・リューベンスフィアと名乗っていた。
そして以前マティが、マスターという呼び方をやめてカイリという名前で呼ぶことにかなり抵抗したのには理由がある。
――何より、第三者に上下関係を表明することができ、私を敬う者は自然にマスターを敬うべき対象と認識します。それは誰かに協力を仰ぐ時に、少なからず効果を発揮してくれることになります。
マティはカイリのことをカイ・リューベンスフィアとして紹介したいのだ。
ただそう紹介することで、カイリに負担をかけるのではないかと心配している。
――マティにまで立場だけの呼び方をされると、俺としては心が疲れてしまうんだ。
思い起こせばずいぶん軟弱なことを言ったものだと顔を赤くするカイリ。
異世界に来たばかりだったのだから仕方がない、と思いたい。
「ええと、初めましてソロンさん。二十一代目のカイ・リューベンスフィアという者です。以後、お見知りおきください」
下げた頭を戻したとき、カイリの目に飛び込んできたのは興奮に震え、目に涙を浮かべる老エルフの姿だった。
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