File031. 方定《パーマネント》
空気が凍りつき、きしむ音が聞こえそうなほどに張りつめている。
その中心にいるのは、地面にヒザをついたまま顔をあげた黒髪の少女。
ダウンコートのフードがずれてストレートの髪束の間に見えた耳は丸く、ヒューマン族のそれであった。
(ばかな。これほどの殺気、ヒューマン族の小娘であるはずがない。竜とは、いったい何なのだ?)
騎士隊隊長ラウエルの身体は委縮して動かず、その思考は混乱していた。
彼の部下たちも同様である。
一方的に殺戮されるしかない。
そんな圧倒的な力の差を、瞬時に、自分の意思とは関係なく、身体が認めてしまっているのだ。
人が進化の過程で獲得した大脳皮質は役に立たず、“理性”という鎧はたやすく剥がされる。
脳の奥に潜む視床下部から、生物が持つ最も原始的な感情――“恐怖”が噴き出し、全身を蝕む。
そんな状態に置かれた彼らが、少女の言葉を理解できなかったのは仕方がないことかもしれない。
こんな場面で動けるはずのレイウルフも、今は“森林防衛隊からの除隊”という現実に打ちのめされていた。
――あなたは、父上の敵ですか?
少女の言葉の意味を理解した人物は、彼女の殺気を真正面から受けているエステルただ一人であった。
(ずいぶんと慕われたものだな、レイウルフ。この娘は、おまえを落ち込ませたという理由で私を殺すつもりだぞ)
少女の圧倒的強者が纏うオーラにさらされながら、エステルの口調は落ち着いていた。
「おまえは、レイウルフのことが好きなのか?」
「当然ですわ。父上を信頼しております」
冷徹な瞳のまま、よどみなく答える少女。
そんな少女に対し、エステルは優しく微笑んだ。
「私もだ」
その短い正直な言葉が、少女に対抗するエステルの唯一の武器だった。
場を包んでいた緊張感が一瞬で氷解し、硬直から解放された若い騎士の一人がその場で尻もちをついた。
少女がきょとんとした顔でエステルを見つめている。
「ふふ……浮いた話の一つもないおまえが、いきなり子持ちとはな。同情するぞ、レイウルフ」
立ち上がり、ローブの裾をひるがえして背を向けるエステル。
すでに場の支配権を取り戻していた。
「おまえには森林防衛隊よりも重要な任務を与えることになる。沙汰があるまで休め。竜とは……」
整った横顔を見せ、独り言のように語るエステル。
「竜とは恐ろしいものだな。かつて数百のドワーフどもに四方を囲まれても怯まず、私を守ろうとしたラウエルが全く動けんとは。世界を救うための発掘だったが、ドワーフどもより先に手に入れたという意味は大きい。そして……」
レイウルフの方に向き直ったエステルが左手を腰に当てた。
「その竜がおまえになついているのは、おまえがガスの中に飛び込む決断をし、最初に見つけたことと無関係ではあるまい。……よくやったな、レイウルフ」
族長の顔に浮かぶ子供のような満面の笑みは、レイウルフが初めて弓術の奥義“双角”に成功したときと同じであった。
***
「あ、あの、エステル様」
作業員たちが休憩するテントの外で、彼らに労いの言葉をかけ終えたエステルを呼び止める者がいた。
多種の色が鮮やかに使われたエルフ族特有の衣装を身に着けている。
だがそのストレートの髪はエルフ族には珍しい黒色で、耳は長くなくとがってもいない。
少女は、まるで女王の前に出た村娘のように緊張していた。
(同じ娘とは思えんな)
自分を見つめた氷のように冷たい漆黒の瞳を思い出すエステル。
「どうした? レイウルフと一緒にいなくて平気なのか?」
エステルと目を合わせることもできずにいた少女が、意を決したように顔を上げ視線を重ねた。
その頬が紅潮している
「ち、父上は、川沿いの宿舎で右手の治療を受けております。失われた指は戻りません。ですが、今はとても元気になって――」
少女はレイウルフの様子を生き生きと語った。
心ここにあらずという様子で落ち込んでいたレイウルフが、いつもの彼に戻ったことをエステルは知った。
「父上は私にこう言いました。指のことは君のせいではありません。そしてもちろん君が悲しむ必要はないし、私も悔やんではいません。最初は戸惑いましたが、今は竜である君の父としての役割を誇りにさえ思っています――と」
嬉しそうに瞳をキラキラと輝かせる少女の様子が微笑ましく、エステルは自分も笑顔になっていることに気づいた。
(本当に、同じ娘とは思えんな)
「それで? 私に用があって来たのだろう?」
はっとした少女が、神妙な面持ちになって答えた。
「父上はこうも言いました。エステル様はこの大陸の全エルフを束ねる偉大なお方です。エルフ族が秩序と誇りを持って日々を生きられるのは、エステル様が皆をまとめてくださっているお陰なのです。それなのに君はエステル様からの質問にまだ答えていません。質問を質問で返したままでいることは大変失礼なことです、と」
「そうか。おまえの名を尋ねたままになっていたな」
――おまえ、名は何と言う?
エステルが少女に最初にかけた言葉だった。
「はい。わたくしは名をゲンブと申します。先ほどは大変な失礼をしてしまい、申し訳ございませんでした」
そう言って深く頭を下げる少女。
「わかった、ゲンブ。今回のことでおまえを責める気は全くない」
エステルは許しの言葉を与えたつもりだったが、ゲンブは頭を下げたままだ。
それを見て少し考えたエステルが言葉を付け加えた。
「おまえを一人前と認識した。今後、おまえに落ち度があればおまえ自身に責任を取らせよう。おまえのことでレイウルフを責めることはない」
顔を上げた少女の顔が輝いていた。
「ありがとうございます。では失礼いたします」
再び頭を下げ、去ろうとする少女を呼び止めるエステル。
「待て。なぜフェアリ族のように何度も頭を下げる? それが竜の性質なのか?」
一瞬質問の意味を理解しかねた様子のゲンブだったが、すぐに答えた。
「日本の慣習ですわ。今後は改めるようにいたします」
頭を下げかけてやめた少女が、照れた様子でそのまま走り去った。
(ニホン……?)
竜が五千万年前に日本という国で造られた兵器であることをエステルは知らない。
頭に疑問符を浮かべる彼女だったが、すぐに思考を切り替えた。
(まあよい、初手は上々だ。竜が箱を破壊して自分から出てきた話には驚いたし、サナトゥリアに書かせた孵化の手順書は無駄になったが、あの様子ならゲンブはレイウルフを主人と認めたと見ていいだろう。問題は……)
腕を組み、上空を高速で流れる雲を見つめるエステル。
(残りの竜をどうやって手に入れるか、だな。力と意思のない者に世界の命運を託すわけにはいかん。なんとしても、残り三体の竜もエルフ族のものにしなくては)
エステルの顔にプレッシャーはない。
その口元には笑みさえ浮かんでいた。
***
リザードマン族が暮らす村の外れで、マティが宙に浮いていた。
その視線は西に広がる砂漠に向けられている。
やがてある砂丘の上に白い光が輝き、その中から一頭のラクダのような生き物の背に乗るガーディとカイリが姿を見せると、マティの顔に笑顔が広がった。
「カイリー、ガーディ、おかえりなさーい」
〈離位置〉で戻った彼らに向かって飛ぶマティは、カイリがガーディの後ろで何かに集中していることに気づいた。
口元の動きが呪文を詠唱しているように見える。
――……配
――役名
「〈方定〉」
カイリの詠唱がマティの耳に届いた。
彼女の知らない魔法である。
そして詠唱が完了したにもかかわらず、何の変化も見られない。
「事前詠唱でしょうか? 私が知らない汎数の高い役名ですね」
首をかしげるマティにカイリが微笑んだ。
「汎数1の役名だよ。ただ、他の役名より後に作られた隠し役名の一つなんだ。通常の役名とは別の、カイ・リューベンスフィアたちの翻訳がたどり着いていないページに書かれていた。だからマティが知らないのも無理ないよ」
「そうなんですか」
「うん、〈方定〉は事前詠唱に定められた有効期限のルールを外すという特殊な役名だ。直前に詠唱された汎数13以下の事前詠唱魔法に対し、その有効期限を無期限に上書きする。それが解除されるのは術者が解除魔法〈免全〉を使うか、〈免全〉が事前詠唱の場合にその発動条件を満たしたときだけだ」
〈方定〉が隠し役名になっている理由は、事前詠唱に有効期限が定められている理由を知ればわかる。
発動条件を満たさないまま忘れ去られたり、術者が死亡したりした事前詠唱魔法は、何かの拍子に偶然発動条件が満たされると暴発することになる。
その危険性は状況により変わるため、あらかじめ別のルールで対処しておくことは難しい。
だからこそ役名ごとに有効期限が細かく設定されているのだ。
〈召雛子〉を含め、隠し役名は高度に軍事的な事情による行使が前提になっている。
そのため政府関係者にさえその存在を知らされてはいなかった。
(〈方定〉が悪用されれば、この世界に魔法とは別のカテゴリーが生まれることになるんだろうな。“呪い”ってやつだ)
攻撃魔法に限って言えば、有効期限が最も長い〈探矢緒〉であっても、二十四時間が過ぎれば事前詠唱が無効になる。
それが何日後でも何年後でも条件さえ満たせば発動するとなれば、それはもう“魔法”ではなく“呪い”と呼ぶべきだろう。
術者を特定することは困難であり、“末代まで呪う”ことが可能になるのだ。
カイリも暴発時の危険性が高い攻撃魔法に〈方定〉を適用するつもりはなく、それ以外の魔法についても多用するつもりはなかった。
使ったのは今の一回と、〈離位置〉する前に唱えた一回の計二回だけである。
「何の魔法に使ったんですか?」
「秘密」
宙に浮くマティにちらりと視線を送り、ニヤリと笑うカイリ。
マティは不満気に口をとがらせたが、それだけだった。
二人のやりとりを呆れた顔で眺めるガーディだったが、リザードマン族は表情の変化に乏しく、カイリが気づくことはなかった。