File029. リザードマン族
妖精の樹海を蛇行する幾筋もの幅広い河川。
それらは夕日が浮かぶ地平線の方角――西に向かって流れていた。
その事実が少しばかり心に引っかかっていたことをカイリは思い出していた。
急いで解決しなければならない問題というわけではない。
だから考えるのをやめていたのだが。
中央からやや北西寄りに妖精の樹海が広がるこの大陸――南アメリカ大陸の地形がカイリの記憶と少しばかり……いや、東西が逆なのではと思うくらいに違っている。
ここが南アメリカ大陸であることはカイ・リューベンスフィアたちの日記の情報から検討がついたし、屋敷の位置まで割り出すことができた。
その時に役立ったのが予言書にあった十枚以上にわたる地図のページで、そこには竜が埋められた四地点が細かく記されていた。
誰かに一度掘り出された後とはいえ、たしかに火系の竜であるスザクの卵がそこにあったのだから、ここが南アメリカ大陸であることは間違いないとカイリは確信している。
そして予言書で見た地図はカイリがよく知る世界地図そのものだった。
だからこそ腑に落ちない。
ここが南アメリカ大陸であるならば、西端には高くそびえるアンデス山脈が南北に長く伸びており、アマゾンのジャングルを蛇行する河川は東の大西洋に向かって流れているはずだからだ。
だが妖精の樹海を流れる大河は逆方向の西に向かって流れている。
(たった五千万年くらいで、アンデス山脈がなくなるような地形の変化があるとは思えないんだよなぁ)
ヤシのような実の皮をほぐして固めたという簡素なベッドで、そんなことを考えているカイリ。
明朝、村を離れる前に西の砂漠を見せたいとリザードマン族のガーディから言われていた。
西の砂漠と聞いて、地形に対する疑問を思い出したのだった。
薄い土壁に囲まれた狭い部屋の隅にはバスケットが置かれている。
白い布をかけてから、紅い子竜はずっと眠ったままだ。
バスケットはマティがよく村に持ち込んでいたものであり、リザードマン族の注意を引くことはなかった。
そのためスザクのことは話さないままになっている。
白い布の下から「ピィ」というスザクの寝言が聞こえた。
***
「おはようございます、カイリ」
「おばよう」
水場で顔を洗うカイリに声をかけてきたのは、フェアリ族のマティとリザードマン族のガーディだった。
「おはようございます」
昨夜、といってもこの世界に夜の闇は訪れないのだが。
マティの〈離位置〉で移動したのは、妖精の樹海の西に位置し、わずか数十キロほどの幅しかなく南北に長い草原地帯だった。
その一帯を活動範囲にしているリザードマン族は、東にある森側を好む派と西に広がる砂漠側を好む派に分かれているため、東西両側に村が点在している。
マティがカイリを連れてきたのは、砂漠側にあり四十人くらいのリザードマン族が暮らす小さな村のひとつだった。
「朝食の前に、西の砂漠を見ぜよう」
しゃがれた声で話すガーディ。
彼が特殊なわけではなく、リザードマン族は皆声がしゃがれていた。
そして申し訳ないと思いつつ、その姿になかなか慣れないカイリ。
リザードマン族の外見を一言で言えば、服を着て二足歩行をする巨大なトカゲだった。
その全身は銀色のウロコに覆われている。
成人の身長は二メートルを少し超えるくらいのようだ。
よく見れば顔のバランスなどがひとりひとり違う気もするが、カイリには体格とウロコの色合いくらいしか区別がつかない。
そしてガーディの屈強な身体を覆うウロコは一目でわかるくらいにボロボロで、黒く変色している上に剥がれている部分も多かった。
特に痛みもなく、生活には何の支障もないらしい。
就寝前にマティに聞いたところによれば彼は冒険家であり、傷んだウロコは彼の勲章だという。
「よろしくお願いします、ガーディさん」
「うむ」
フェアリ族もエルフ族も、そして彼らリザードマン族さえも人類の子孫であるはずだが、ここまで外見が多様化した理由はわからない。
予言書が書かれたのはカイリが生まれた時代に近すぎるし、カイ・リューベンスフィアの日記に書かれた内容は新しすぎるため、その間にどういう歴史があったのかは知りようがないからだ。
ただ、たった五千万年の間に自然に進化しただけで人類がここまで変化するとは思えなかった。
「乗べ」
地面にしゃがんだラクダそっくりの生き物にまたがり、自分の後ろに同乗するよう促すガーディ。
態度はぶっきらぼうだが親切で、結局食事も宿も世話になったのは昨夜のことである。
もちろんお礼の言葉はしっかりと伝えた。
だんご汁らしき夕食をとりながら交わした会話で、「明朝にはエルフ族を訪ねるために村を出る」という旨を伝えたところ、「カイ・リューベンスフィアに見せたいものが西の砂漠にある」という話をされたのだった。
マティはガーディを完全に信頼しているらしく、出発の準備をするから村に残るとのことだった。
今は砂漠の中でラクダもどきの背中の上。
カイリはガーディと二人きりである。
気温はかなり上昇しているようだが、出発時にカイリが〈衣蔽甲〉の魔法をかけたため、二人とも軽装のままである。
ただ暑いだけで日差しが強いわけでもないので、皮膚が焼ける心配はなかった。
ちなみにリザードマン族は魔法を一切使えない。
彼らの発声器官では呪文を正確に唱えられないためである。
途中の会話に困るかもしれないと心配していたカイリだったが、その必要はなかった。
「ずぐに、着ぐ」
その言葉通り、十五分もたたないうちに目的地に着いたからだ。
朝食前に済まそうという外出なのだから長旅のわけもなかったが、それにしても拍子抜けである。
かなり大きな砂の丘を登った場所。
そこから先が五百メートルくらい下がる高い段差になっており、広い砂漠をずいぶん遠くまで見渡すことができた。
「あべだ」
ガーディが指で示したのは、太陽が浮かぶ地平線だった。
「晴べでいぶど蜃気楼で見えないが、今日ば曇びだがら見えぶばずだ。リザードマン族ば目が弱いがば、見えないがな」
目を細めて笑うガーディ。
そう言われてカイリは赤く染まる地平線に目を凝らした。
「何も見えませんが……」
「…………」
ガーディが黙ったままなので、さらに地平線を見続けるカイリ。
特に動くものや建物は見当たらず、いくら待っても何の変化も見られない。
(あれ?)
何かがおかしいことにカイリは気づいた。
今見つめているのは南アメリカ大陸の西側。
つまり、かつては太平洋と呼ばれる大海原が広がっていた場所である。
地球が常に同じ面を太陽に向けるようになり、この時代にはすっかり干上がって砂漠になってしまったらしい場所。
砂漠の中を大河が流れているが、その先に海はないだろう。
すべてこの砂漠で蒸発してしまうはずである。
(何だ、あれは?)
カイリの視界にあるのは、砂漠の彼方に横線のように見える遠くの山脈だった。
ところどころで途切れているが、見える限りの範囲で左から右まで続いており、それが空と大地の境界になっている。
その両端は砂漠の起伏に隠れて見えなかった。
(ごく普通の景色に見える。でも、太平洋にあんな山脈があるわけがない)
「見えだが?」
「なぜ、あんな場所に山脈が? あれは山脈ですか?」
その言葉に満足した様子でリザードマン族の冒険家が疑問に答えた。
「あでば山脈だ。俺ばあぞごまで行っだごどがあぶ。死にがげだがな。一緒に旅をじでぐべだテクニティファのおがげで助がっだ」
テクニティファは、マティのファーストネームだ。
マティがガーディと旅をしたことがあるという話には驚いたが、そう聞けばいろいろと腑に落ちることがある。
――なんといいますか、彼らにはちょっとした貸しがありまして。律儀な彼らの世話になっています。
リザードマン族がマティに食事をわけてくれるのは、ガーディの命の恩人だから。
そして魔法を使えないガーディにとって、魔法を使うマティの存在がどれほど頼りになったかは想像に難くない。
少なくとも熱に耐える〈衣蔽甲〉の魔法がなければ、遠くに見えるあの山脈のふもとにさえたどり着けなかったはずだ。
そしてマティがガーディを信頼しているのは、一緒に旅をしてその人柄を十分に知った上でのことなのだろう。
カイリの心のうちに一瞬だけ浮かぶモヤッとした感情。
それが嫉妬であることに気づかないまま、カイリの思考はすでに別のことにとらわれていた。
(……あったんだ。アンデス山脈が消え、新たな山脈が出現するほどの、とんでもない地殻変動が、過去に。いや、地殻変動というより……)
「聞ぎだいのば、俺だ、カイ・リューベンスフィア。あの山脈の向ごうば、何者も生ぎばべない灼熱地獄だっだ。物知びのおまえなば、ぞの向ごうに何があぶのがを知ばないが?」
ガーディがここに連れてきた理由をようやく理解したカイリ。
冒険家の彼は知りたいのだ。
この世界の果てに何があるのかを。
そのために死にかけてまで、あの山脈にたどり着き登ったのだろう。
フェアリ族の予言書を解読するカイ・リューベンスフィアならば、何かを知っているかもしれないと期待している。
「その前に教えてください。もしかしてあの山脈の両端は、輪を描くように南北を通って妖精の樹海の東側まで続いているのでは?」
「ぞうだ。俺が自分で確がめだ」
即答だった。
「ありがとうございます。あの山脈の向こうに広がる砂漠のさらに向こう側。そこには別の大陸があるはずです。古代人はそれをユーラシア大陸と呼んでいました」
「ぞごにば、生ぎ物がいぶのが?」
「おそらく。人もいるかもしれません」
ぞうが……と、感慨深げにつぶやくガーディ。
その瞳は子供のように輝き、カイリの答えに満足したようだった。
そしてカイリは一つの仮説にたどり着いていた。
(隕石が衝突したのか、とんでもないレベルの大爆発があったのかはわからないけど、南アメリカ大陸に直径が二千キロを超える超巨大クレーターができたんだ。カイ・リューベンスフィアの屋敷があったあの崖は、そのクレーターを囲む山脈の一部だ)
世界を滅びから救う話とは関係ないかもしれない。
それでも、この世界を理解するために知っておいて損はない情報だとカイリには思えた。
(もしかしたら人類の多種族化にも関係が……いや、考えすぎか)
新たな謎が増えたが、来てよかったと思えた。
「戻りましょう。帰りは〈離位置〉で送ります」
「頼む」
こうして朝食前の小さな旅は終わったのだった。