File027. 穴の底
山あいに穿たれた直径三十メートル、深さ百メートルの深い縦穴。
その垂直な壁に組まれた足場は金属パイプの骨組みと木の厚板からなり、層数は五十を超えている。
もちろん安全基準をはるかに超える高さだが、発掘に参加した有志たちは安全よりも時間を優先したのだった。
――一年後の滅びから、世界を救うためと信じて。
三日前に森林防衛隊の若き隊長レイウルフが穴底に立ったときには、足場の全景を眺めることができた。
まるで高層化した円形闘技場のようであり、丸い空が遠くに小さく見え、巨大生物に飲み込まれたかのような気分を味わった。
穴の底では多くの作業員が労働に従事していて、スコップによる掘削、積まれた土砂や絶えず染み出す地下水の運搬などが急ピッチで進められていた。
そんな彼らの中心に、地面から顔を出す異質な物があった。
発掘によって穴底の中央に姿を見せたそれは、金属製に見える黒い床だった。
十メートル四方の広さで、レイウルフが見たときには二十センチほどの高さがあった。
その後も発掘が進められ、床のように見えたのは上面部分で、どうやら大きな黒い箱のようだという報告を聞いたのが昨日のことだった。
(活動限界は十五分といったところでしょうか)
白い息を吐きながら、レイウルフは無事に地上に戻るための算段をつけていた。
ダウンコートに身を包み、ファー付きフードをしっかりとかぶっているものの、外気は顔が痛くなるほどに冷たく、身体はすでに芯まで冷えきっている。
ダウンコートのポケットに入れてきた寒冷地仕様の厚い手袋も着用しているが、すっかり手がかじかんでいた。
ちなみに耐熱効果もある汎数1魔法〈衣蔽甲〉をレイウルフも習得している。
しかし残念ながら寒さに対しては効果がない。
それは〈衣蔽甲〉の本質が接触する物体の運動エネルギーや振動エネルギーを吸収することにあるためであり、寒さというのはエネルギーを奪われる現象であるため〈衣蔽甲〉が役に立たないのである。
その代わりに鎧を装備したときのように熱や湿気がこもることがなく、動きが制限されることもないというメリットがある。
足場を通り厚い霧の層を抜けてたどり着いた穴底の様子は、三日前とはすっかり変わっていた。
一面を分厚く青白い氷に覆われた穢れなき空間。
エルフ族が持ち込んだものはすべて不透明な氷の下に閉じ込められている。
頭上に見えるのは小さく丸い空ではなく、対流する白い濃霧だった。
穴底に届く光は柔らかく、薄い濃淡となって氷の上を動いている。
頭上の霧からは、目に見えないほどに小さな何かが星のようにキラキラと輝きながらゆっくりと降り続けていた。
手のひらで受けようとしても空気の流れにのって手を避けて落ちていく。
初めて見る幻想的で美しい氷の世界がレイウルフを包んでいた。
降り続ける光の正体は氷の微結晶である。
それが凍った地下水の上に降り積もってそのまま固まり、ざらついた表面を作っていた。
おかげで森林用レザーブーツ程度のグリップ力でも、ザクザクと音を立てて氷の上をなんとか歩くことができた。
(来る途中、金属パイプを触った手がそのままくっつきそうになるほど冷えきっていることに驚きましたが、まさかこれほど厳しい環境だったとは……。氷雪の絶壁の向こうにある死後の世界とは、こんな感じなのでしょうか)
長居をすれば間違いなく凍死する。
そう確信するレイウルフの足は、この極寒の世界を作り出した元凶と思われるものに向かっていた。
穴底の中央に鎮座するそれは、すっかり掘り出された大きな黒い箱である。
一軒家ほどの大きさがあるはずだが、今は下半分が氷に埋まっていた。
金属製と思われる黒い表面は薄く積もった氷の微結晶で光沢が鈍っているものの、舞い降りる無数の光を映して星降る夜空のように美しい。
箱にはドアらしき部分があると聞いていたが見当たらなかった。
おそらく氷に埋まった下半分のどこかにあるのだろう。
いずれにしても「ドアは開かなかった」とレイウルフは聞いていたし、開ける必要もなかった。
まるで内圧に耐えきれなかったかのように外側に膨らんだ外壁。
そこに数本の亀裂が走っている。
(白いガスが噴き出したという亀裂ですね)
中央の一番大きな亀裂は、人が一人通れそうなほどに開いていた。
あと数歩でその亀裂にたどり着く。
そこまで来てレイウルフは自分の異変に気づいた。
思うように足が動かないのだ。
思ったより早く活動限界が来たのかと焦ったが、やがてそれが本能的な“恐怖”によるものだと気づく。
(これほど美しく……恐ろしい場所に来るのは私一人で十分です。なんとしても箱の中身を見極めて地上に戻らねば……)
恐怖を理性でねじ伏せ、なんとか足を前に出す。
すでに手足の感覚はほとんどなくなっていた。
そしてやはり焦っていたのだろう。
そうでなければ予想できたはずのことが、氷の上にいる彼の身に起こった。
ぎこちない動きが身体のバランスを崩したのだ。
「――――!」
気づくと足を滑らせていた。
前のめりになった身体を支えようととっさに前に出した右手が、亀裂のめくれ上がった壁の端をつかむことになんとか成功する。
ほっとしたのは一瞬だった。
右手に走る激痛。
一瞬で肩までの感覚が消えた。
「がっ」
奇妙な声がレイウルフの口から漏れた。
身体全体の力を振り絞って右腕を引っ張る。
彼の脳裏に蘇ったのは、穴底に来る途中で足場の金属製パイプにくっつきそうになった手の感触だった。
冷えきったものに触れると手のひらの水分が凝固して手がくっつくという現象がある。
そんな科学知識がないレイウルフでも、冷凍庫の氷に指がくっつくことは知っていた。
そしてなんとか倒れずにすんだ彼の視界に奇妙なものが映った。
亀裂の端に、人の手首から先がくっついている。
冷えきった金属製の壁に右手がくっつき、手首から千切れたのだ。
――そう思った。
真っ青になるレイウルフだったが、右腕に右手がついていることはすぐに確認できた。
そして亀裂の端にくっついている不気味なオブジェをもう一度確認する。
それは手首ではなく手袋だった。
手袋の表面に付着した氷と壁の表面に付着した氷がつながっており、しっかりと固定されている。
それがいかに不自然なことかレイウルフにはわからない。
この極寒の中で、わずかにでも氷が溶けなければありえない現象だった。
そして安心したのも束の間、あることに気づいて再びレイウルフの顔から血の気が引く。
手首から先が紫に変色し、壊死していた――。
「く…………」
弓使いの彼にとって、片手を失うことは戦力外通告と同じであった。
死滅した細胞は、〈薬杯〉はもちろん魔術師が使う汎数2回復魔法〈産触導潤〉でも元には戻らない。
(なんということ……私はまだエステル様のお役に立たなければならないというのに……)
族長の言葉が思い出された。
――おまえもあまり無茶をするなよ。たまに見せるおまえの大胆さには肝が冷えるときがある。
(一人で先走りすぎたでしょうか……)
気落ちしたレイウルフがその視線を上げたとき、彼の金色の目が大きく見開かれた。
全身に電気が走ったかのような衝撃は、右手のことを忘れさせるほどだった。
***
「あの…… これを使う です?」
木の精フェスの木の枝そっくりの触覚器が持っているのは、白い布が入った大きなバスケットだった。
マティが食事を運ぶために使っているもので、昼食時にはサンドイッチが入っていた。
カイリが〈召雛子〉の魔法を使う前に、フェスが巨木の太い枝の上に運んでおいてくれたのだ。
「たしかにぴったりだ。布で隠せるのも都合がいいし。うーん、でもマティの許可なしに使うのは気が引けるな」
カイリがそうつぶやいたときだった。
背後から拗ねるような声が聞こえた。
「いいですよ。お使いください」
「マティ……」
そっぽを向いた妖精が宙に浮いていた。
明らかに機嫌が悪そうである。
「おっしゃりたいことはわかります。子供っぽいというか、意地っ張りというか、こういう姿を見せたくないから戻りたくなかったんですけど」
本人にも自覚があるらしい。
カイリはそんなマティを見られたことを、むしろ嬉しく感じている自分に気づいた。
恥ずかしいことがあると逃げ出して、しばらく戻らないという癖。
そこにはちゃんとした理由があったのだ。
何も言えないカイリが何かを言う前にマティが話を続けた。
「でも今回は急いでいますから。エステルに会いに行くのに、その子を隠していきたいんでしょう? そのバスケットはちょうどいいと私も思います」
地面でくつろぎ中の紅い子竜にマティが視線を投げる。
「ありがとう、マティ。こいつの名前はスザク。世界を救うための第一歩だ」
「はい」
まだ口調にいつもの元気は感じられないものの、笑顔を浮かべるマティ。
初めて竜を手に入れたことは、彼女にとっても喜ばしいことのようだった。
カイリが両手を伸ばすと子竜が嬉しそうにとびついてきた。
手のひらの火傷は魔法で完治している。
そしてスザクの体温は四十度ほどで安定していた。
「ずいぶんなついているんですね」
驚くマティにカイリがニヤリと笑う。
「うん、俺も契約抜きで竜を孵化させることが不安だったんだけどね。考えてみれば〈召雛子〉の魔法があるということは、その場合でも竜とうまく付き合う方法がないとおかしいんだ。せっかく孵化させても人類の脅威になるようじゃ意味がないからね」
「うまく付き合う方法……ですか?」
カイリも確信しているわけではなかった。
ただ炎の中で見つけたとき、スザクはよたよたと身体を揺らしながら向こうから近づいてきたことを覚えている。
(たぶん、インプリンティング……刷り込みだ)
いくつかの種類の鳥は、生まれて最初に見た動くものを親と思い込み、その後をついて歩くという。
それがゼンマイ仕掛けのオモチャでも、人間であってもだ。
その現象をインプリンティング、または日本語で刷り込みということは広く知られている。
(竜にもそういう習性があるとすれば、緊急用に〈召雛子〉の魔法が用意されていたのも頷ける。問題は箱を使った契約のような拘束力がないことだろうな。信頼関係をしっかり築いていかないと……)
そうカイリが考えていた矢先、手のひらの中にいるスザクと宙に浮くマティが至近距離で睨みあっていた。
「ちょっと、スザク! 私が用意したサンドイッチを食べられないって、どういうこと!? これはね、リザードマン族のガーディが特別にわけてくれたものでね」
「ぴぃうぃぴゅぅい!」
まだ残っていたらしい昼のサンドイッチを抱えて叫ぶマティ。
それを受けつけず、威嚇するように口を広げているスザク。
カイリの目の前で信頼関係が壊れようとしていた。
「マティ、あの光の柱を見ていないのか?」
もしブレスを吐かれたら、ここにいる全員が瞬時に消滅できることをマティはまだ知らないようだった。