File021. 拝丁《メイジハンド》
やや狼狽するレイウルフ。
「それは……ええと。たしか、そうですね。子供の時分にエステル様からお聞きしたと思いますが……」
「よく覚えていたな」
エステルが微笑んでいた。
「おまえが森林防衛隊に入隊したばかりの頃に教えたのだ。当時のおまえはすぐには信用しなかったが、なぜか翌日には信じていたな」
「そうです、思い出しました。レンジの電源ケーブルをナイフで削ったのです」
「ほう」
(たまに大胆な行動に出るのは、子供の頃からというわけか)
納得顔のエステル。
電源ケーブルは精霊騎士の力が宿る神聖なものとされており、故意に傷つけることは禁忌とされている。
「母にはこっぴどく叱られましたが、エステル様のおっしゃった通り、ケーブルの中には古代魔力を伝達する黒い線が光を放っておりました。ただ数時間後にはナイフで削ったはずのケーブルが元に戻っていたので、やはり神聖な力が宿るものなのだと思ったことを覚えています」
椅子の背にもたれ、リラックスした姿勢でエステルが笑った。
「実は私も削ったのだ。先代のカイ・リューベンスフィアから電気の話を聞いたその日のうちにな」
「そうだったのですか」
先ほど伝統や規律の重要性を語ったエステルだが、実は古い枠にとらわれない探究心旺盛な人柄として知られているし、身近で接しているレイウルフはそれが真実であることをよく知っている。
若い頃にはかなりの“やんちゃ”だったという噂もあるし、伝統を重んじる六神官たちと揉めることもしばしばある。
そうでなければ規律を軽んじるサナトゥリアを族長代行に任命することはなかっただろう。
「古代魔力というのは、私がそうとしか理解できなかっただけでな。実際には“電子”というものが黒い線の中を流れているそうだ」
「デンシ……ですか?」
「そうだ。おまえも知っているはずだぞ。汎数2攻撃魔法〈一気通貫〉の要俳を」
「あ」
レイウルフは思い出した。
“電子”という単語が要俳に登場する魔法が存在することを。
「カイ・リューベンスフィアとは、一体……。私の目には普通のヒューマン族にしか見えませんでしたが……」
フッと息をもらすエステル。
「私も先代のカイ・リューベンスフィアしか知らんからな。知っているのは、テクニティファだけだろう」
「テクニティファ様ですか。寿命が千年を超えるというフェアリ族の最後の生き残り……あの方も謎が多い」
「そうだな……」
しばらくの沈黙の後、エステルが口を開いた。
「まあよい。苦労をかけるが、サナトゥリアの足りない部分はおまえがうまくカバーしてくれ。神殿ではまだ私が“行方不明”のままのほうが都合がよい」
「承知いたしました。発掘の方は順調でしょうか?」
「うむ。皆よく働いてくれている」
空にしたティーカップをレイウルフがテーブルに置いた。
「香茶、ごちそうさまでした。失礼いたします」
去り際に、レイウルフが布にかけた手を止めて振り返った。
「カイ・リューベンスフィアの件は、いかがいたしましょうか?」
エステルは背中の長髪をまとめようとしているところだった。
口にくわえていた細紐を指でつまんでから横顔で答える。
「捨て置いてよい。近いうちに会うことになるだろう」
「承知いたしました。エステル様にとっては、ご不便な生活の中です。どうぞご自愛ください」
レイウルフが入室時と同じ動作で敬礼した。
微笑むエステル。
「ありがとう。おまえもあまり無茶をするなよ。たまに見せるおまえの大胆さには肝が冷えるときがある」
「勿体なきお言葉、感謝いたします」
天井から幾重にも下げられた布が揺れ、レイウルフが退室した。
――その数分後。
部屋の中では外出用のローブを身に付けたエステルが、最後の留め具を掛け終えていた。
(テクニティファ……今では世界の滅びを信じる者はめっきり減ってしまったよ。残り少ない信じる者も、カイ・リューベンスフィアをあてにはしていない……)
エステルの脳裏に百年近く前の思い出が蘇っていた。
(あの頃はおまえの言葉を信じる者も多かった。世界を救うために協力してくれる者がたくさんいた。だが今は、そんなことのために族長が公務を離れていると知られるわけにはいかない……そんな時代だ)
布をかき分けて部屋を出るエステル。
「私が世界を救うのだ。邪魔をするなよ、カイ・リューベンスフィア」
***
「とりあえず最優先分はこんなもんかな……」
カイリの足元の地面から白い光が消えた。
同じタイミングで別の小さな白い輝きが出現する。
その中から姿を見せたのは翅が生えた妖精だ。
「おかえり、マティ」
「ただいま戻りました、カイリ。昼食にしましょう」
マティが〈離位置〉で戻ってきたのだった。
近くには緑色に濁った池がある。
カイリは森の中の最初に来た場所から動いていなかった。
少し離れた場所には木の精の双葉が姿を変えずにそのままある。
マティの手にはバスケットがあった。
白い布の下から出てきたのは紙に包まれたサンドイッチと瓶に入ったミルクだ。
「へぇ、カツサンドやレタスサンドっぽいものまである」
「カツ……? 何でしょうか?」
「いや、いいんだ。いろいろなサンドイッチがあるなと思ってさ。マティはどこから手に入れてくるんだ?」
見た目がカツに見えたそれは、少し臭みがあったが気になるほどでもない。
レタスに見えた野菜は少しだけ酸味があり、どれもなじみのある味とは微妙に違うようだ。
チーズはチーズの味がした。
少し臭いが強かったが。
「リザードマン族にわけてもらっています。なんといいますか、彼らにはちょっとした貸しがありまして。律儀な彼らの世話になっています」
「そうなんだ」
盗んできたものだと言われても文句を言わずに食べるつもりだったカイリ。
だがそんなことはないだろうとも思っていた。
おそらく自分よりもマティのほうが、ずっと道徳観念がしっかりしていると感じているからだ。
「あの……道具と材料と時間があれば、私だって料理くらいできるんですよ?」
「え、そうなの?」
カイリの意外そうな反応を見たマティが一瞬ショックを受けた顔になり、そして……目が怒っていた。
「なんですか、その意外そうな顔は。こう見えても、得意料理はたくさんあるんですからね」
「あ、いや、その、だって、屋敷にあった料理道具とか、マティには大きすぎるだろ。あ、そうか、マティに合った道具もあって、フェアリ族サイズの料理ならできるわけか」
腕を組んだマティの顔が完全にむくれていた。
「違います。ヒューマン族用の道具を使って、カイリに出す料理だってちゃんと作れるんです。カイリには作る機会がなかっただけで。初代マスターの頃から、屋敷では料理を作ってお出ししていましたし、掃除や洗濯も私がしていたんですから」
「…………」
そう言われて、カイ・リューベンスフィアの屋敷に案内されたときのマティのセリフを思い出すカイリ。
――電気も水道も問題ないことを確認していますし、掃除も済ませてあります。すぐにお風呂の準備をしますから、まずはリビングでおくつろぎください。
掃除、そして風呂の準備。
言われたときはよく考えなかったが、どれも身体が小さいマティには大変なことのように思える。
一体どうやって……そうカイリが尋ねる前に、マティが役名を口にした。
「〈拝丁〉」
事前詠唱の一種、詠唱省略だ。
カイリとマティの目の前で包み紙が開き、中からサンドイッチが飛び出して浮き上がった。
さらにその一部が勝手に小さくちぎれてマティの口に飛び込む。
口を動かしながら得意顔のマティ。
「すごい」
納得したカイリ。
〈拝丁〉は汎数1の魔法で、任意の場所に圧縮空気を作り出しそれを解放する魔法である。
名前の由来は“魔法の手”であり、見えない手で相手を軽く突き飛ばすイメージで使うことができる。
相手を傷つけない程度の護身術としての魔法と予言書には書かれていた。
そのため人間の体内で発動させるような使い方はできないという制限がある。
そんな大雑把な魔法のはずなのだが、マティくらいの魔法設定熟練者が操作すると、ちょっとした念動力のような使い方ができるらしい。
例えばサンドイッチを小さくちぎって見せたのは、パンや具の中に極小の圧縮空気をシート状にたくさん作り、極めて小さい範囲で開放する必要があったのではないだろうか。
ちょっとしくじればサンドイッチを粉々に粉砕してしまう気がする。
(神技だな)
さすがに重量物や壊れやすいものは扱えないだろうが、かなり便利そうだ。
予言書には書かれていなかった使い方である。
マティは簡単に使っているように見えたが、相当な訓練を積み重ねなければ到達できない領域ではないかとカイリは想像した。
「屋敷は燃やしちゃったしな。マティの料理を食べられる機会は、しばらくなさそうだ」
「そうですね……」
心底がっかりしている様子のカイリを見て、マティの機嫌は少し回復したようだった。
「カイリは何をしていたのでしょうか?」
「うん、ひたすら事前詠唱をしまくっていたよ。微生物入りの水はもう飲みたくないからね」
食事中に言うセリフではなかったなと後悔したカイリだったが、マティに気にする様子はない。
彼女には大きすぎるサンドイッチをもぐもぐと頬張っている。
「……といっても、まだ二百個くらいだけどね」
「にひゃっ!? 私がちょっといない間に、そんなに詠唱したのですか。カイリは、勤勉ですね。一日中予言書を読み続けているのを見たときもそう思いましたが」
「そんなことはないと思うけど。各魔法と度等の組合せを考えると二百じゃ全然足りないし、基本的な魔法は同じ魔法でも十回以上唱えておきたいし。少なくとも二千個くらいは事前詠唱しておかないと」
「…………」
マティが目を見開いて無言になってしまった。
日本人だからだろうか……そう考えるカイリ。
過去のカイ・リューベンスフィアたちは、もっと怠け者――のんびりした性格だったようだ。
「あ」
マティが何かに気づいた。
カイリもマティの視線の先を見つめる。
「あの…… ただいま です」
「おかえりなさい、フェス」
「おかえり」
褐色の肌をした小人が、双葉の影ではにかんだ笑顔を見せていた。