File017. 薬杯《ヒーリング》
ライトブルーの短いストレートヘアが風に揺れた。
葉擦れの音が左から右へと波のように流れていく森の中で、紺色のチャイナドレスに身を包んだ若い女は無言のままだった。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
その首には黒い皮製の首輪がついていて、金属製のDカンや美錠が鈍い光を放っている。
「……答える気はないようね」
マティの声がやや低くなる。
――高目移行放棄……
呪文を口にした途端、黙り込むマティ。
そのままゲホゲホと咳き込む。
「マティ……?」
カイリが声をかけても反応がない。
咳が止まったと思ったら、のどからヒューヒューと乾いた音がした。
苦悶の表情を浮かべて女を睨みつけている。
「マティ!」
――高目移……
呪文を唱えようとしたカイリを、マティと同じ現象が襲った。
それは急激なのどの渇きだった。
突然、のどから水分が奪われたのだ。
それだけのことで声が出ない。
呪文を詠唱できない。
咳き込むカイリ。
のどが切れて口から血が飛んだ。
呼吸をするだけで裂けるような痛みがのどに走る。
(くそ……事前詠唱の話を聞いたばかりだったのに、準備をしていなかった)
いきなり戦闘になるとは思っていなかったのだから、仕方がないのかもしれない。
それでもカイリは事前詠唱の重要性を痛感していた。
目の前の女が一体何者なのか、何をされたのか、さっぱりわからないが攻撃を受けたことは間違いない。
「……自分の身を守ること。それがご主人様のご命令の中で第二に優先される事項です」
意外なほどに優しく、慈愛を感じさせるような声音だった。
美しく艶かしい肢体と優雅な物腰、そして人間離れした圧倒的な威圧感――。
その瞳が深い青色に光っているようにカイリには見えた。
彼女が地上に舞い降りた女神だと言われれば、すぐに信じたかもしれない。
――こんな状況でなければ。
「あなたたちの命を一瞬で奪うことは、呼吸するよりも簡単なこと。ですが、今回のご命令の中に他者の命を奪うことは含まれておりません。私を攻撃しようとさえしなければ、そのように苦しむこともなかったでしょう」
「かはっ」
苦しくて地面を転がるカイリ。
そのまま池の水面に顔を突っ込んで緑色に濁った水をすすった。
(のどの水分がなくなるだけで、こんなに苦しいものなのか……)
とにかくのどを潤す。
切れたのどにしみる痛みは、渇きの苦しみよりマシだった。
雑菌や微生物による病気や腹痛の心配も後回しだ。
呼吸もままならない状態からなんとか回復する。
「マティ!」
吐き気をおさえつつ地面に倒れていたマティを左手で支え、水をすくった右手を口元に当てた。
「とにかく飲むんだ。呼吸が楽になる」
マティが綺麗とは言えない水を口に含み、飲み込んだ。
うつろな瞳でカイリを見上げる。
「ありがと……ございま……」
マティのかすれた声を聞いて安心したカイリは、チャイナドレスの女を振り返った。
「おまえは一体……」
そこに女の姿はなかった。
そう認識するのと同時に、目を開けていられないほどの強風がカイリを襲い、池の水面に高さが三十センチもある波を生んだ。
バサッ
上空から聞こえる大きな羽音。
森の木々に遮られて見えないが、何か巨大な生物が飛び去っていく音が確かに聞こえる。
「く……」
微生物入りの水を飲み込んだ胃が早速痛みを感じていた。
かすかな声でゆっくりと呪文を唱えるカイリ。
――高目移行放棄・汎数1
――通模・要俳
――血は巡り地の力を得て値を保ち、遅とし治するに致するを知す
初志の玉が現れ、その色が変わっていく。
すぐに赤色で固定された。
――転配
――役名
「〈薬杯〉」
カイリの手の中でマティの小さな身体が白く輝いた。
「〈薬杯〉の“中”モードだ。殺菌のための“発”モードと、のどを傷めているだろうから“白”モードもかけるよ」
“中”モードは中毒症状に対する中和効果、“発”モードは発病に対する侵入物質や異常部の除去効果、“白”モードは傷に対する補修効果がある。
それぞれ初志の玉の色を赤、緑、デフォルトの白にすることで設定可能だ。
初志の玉の色は本来魔法の威力を決めるものだが、〈薬杯〉や〈散暗光〉のように色によって効果が変わる魔法も存在する。
カイリの手の上で弱々しく首を横に振るマティ。
その顔色はかなり悪い。
「どうして? まだ、しゃべるのもつらいだろ?」
つらいはずのマティが口を開いた。
「カイ……リの治療を……先に……」
「……ばか。黙ってろ」
抗議の視線を無視し、痛む胃をおさえながら〈薬杯〉の魔法をマティにかけ続けるカイリ。
(どう見てもマティのほうが苦しそうなんだから、おとなしく治療されてろよな)
自分の痛みは自分でわかる。
だが身体が小さいフェアリ族にとってのダメージを想像することは難しい。
そんなカイリの心配をよそに、“白”モードをかけ終える頃にはマティの顔色はすっかりよくなっていた。
すぐに抗議の声をぶつけるマティ。
「カイリ、あなたは世界を救うために必要な人であって……」
「ばか。誰のために世界を救うと思って……」
「ば……。に、二度もこの私に向かって……二千年以上生きる私に向かって……」
顔を真っ赤にして怒るマティの前でカイリが倒れた。
顔が赤く、吐く息が荒い。
「はは……嘘みたいに元気になったな。良かっ……た」
笑うカイリの額に慌てて触れるマティ。
「カイリ……ひどい熱」
真っ青になったマティが〈薬杯〉の呪文を口にする。
(どうしてそんな風に笑えるの? こんな目にあったのは、未知の相手にいきなり魔法を仕掛けた私の迂闊さのせいなのに……)
三つのモードを順番にかけていく。
汎数1魔法の〈薬杯〉はマティも習得していた。
やがてカイリの顔色がよくなり、熱が下がったのを確認して安堵するマティ。
地面に仰向けに横たわったまま、黒髪の青年が寝息を立てていた。
(早起きだったし、朝から緊張の連続だったもんね……)
「ふぁ……」
大きなあくびをすると、そのままカイリのローブの上に横たわるマティ。
(この森に危険な生物はいないけど……さっきみたいな侵入者が来るかも……私が見張っていないと……)
数秒後にはマティの意識も落ちていた。
二人の寝息が池のほとりで静かなリズムを刻んでいた。