File014. 衣蔽甲《シールド》
「へえ、翻訳資料も見ずに読めるん。うちに読める可能性あるようなこと言うから、まさかとは思うたけど」
「…………!」
ニヤリと笑うエルフ族の娘と目が合った。
声は出していないカイリ。
文字を追う目の動きを見られたのだと直感する。
「読めんなら最初から読もうとさえせん。それか最初の文字の判別から始めるもんやろ。ところがどう。あんたの視線は戸惑うことなく文章を目で追うた。……何て書いてあるか、うちに教えてぇな」
カイリと同じ十八歳くらいに見えるエルフ族の娘が、予言書の一ページだった紙切れをひらひらと揺らしている。
その娘が自分よりはるかに抜け目がなく、油断ならない相手であることをカイリは悟った。
マティの〈探矢緒〉が無効化された理由も思いつかない。
少なくともそんな方法は予言書に書かれていなかった。
――高目移行・汎数4
――通模・要俳
呪文の詠唱を始めるカイリ。
それを聞いたエルフの娘がため息をついた。
「この距離で呪文詠唱始めるて、阿呆なん? ナイフの一突きであんたは死ぬんよ」
再び彼女の右手にナイフが握られていた。
――誕する単は淡なれど、鍛を超えて探す
呪文を詠唱する時間がまだるっこしく、エルフ娘の言葉は正しいと思うカイリ。
だがカイリには魔法しかない。
体術も剣術も身につけてはいない。
一週間前まではただの受験生だったのだから。
「んー。強力な魔法を使えても、所詮は召喚されたばかりの役立たずいうわけやね」
――回倒・度等表示俳
――多重なるファランクス
止まらないカイリの詠唱。
娘の右手がフッと消えたように見えたその時だった。
「〈衣蔽甲〉!」
鋭く聞こえたのはマティの声だった。
そしてカイリの喉元に水平に当てられたナイフ。
それが首の上で止まっていた。
自分の身体が青い光の膜で覆われていることにカイリは気づいた。
「詠唱省略魔法、用意してたん? だてに二千年以上生きてへんゆうわけやね……」
ナイフを握るエルフ娘の顔から初めて余裕が消えていた。
彼女の顔のすぐ横――カイリが広げた手のひらの上で光るのは、直径が三十センチを超える初志の玉である。
彼女が見たこともないであろう大きさを維持したまま、その色が青から紫へと変わっていく。
「……あなた、何歳なの? 名前は? 答えなさい」
冷ややかな声を発するマティ。
カイリは魔法の設定に集中している。
「十八。名は、サナトゥリア」
初志の玉を見つめたまま素直に答えるエルフ族の娘。
彼女を見るマティの表情は複雑なものだった。
「そう。あなたのような存在が、その歳までよく生き延びて……」
その言葉を聞いたサナトゥリアの表情が一瞬だけ動いたが、彼女は何も言わなかった。
マティの話が続いている。
「それはそれとして、サナトゥリア。先ほどからの無礼の数々、エステルの指示とは考えたくありませんが……」
「エステルは関係ない」
きっぱりと言い放つサナトゥリアの言葉に、マティの顔がひきつった。
「なっ……、私だけでなく自分たちの族長まで呼び捨てにするなんて……」
――転配
――役名
カイリの呪文が完成していく。
つまらなそうにつぶやくサナトゥリア。
「……エステルの時代はもう終わり。エルフ族を事実上率いてるんは、うちや」
「〈探矢緒・度等3〉」
空一面に次々と現れる光の矢。
その数、十の三乗――つまり、千。
大量の光が半径四十メートル以内の上空を埋め尽くしていた。
地上にいる三人からは空全体が光っているように見える。
すべての光の矢がサナトゥリアを狙っていた。
「えっ……エステルに何かあったの? まさか病気でも……」
サナトゥリアの言葉を聞いたマティの狼狽ぶりは尋常ではなかった。
まるで我が子を心配する母親のようであり、エルフの若い娘に見せていた威厳はすっかり消えている。
そのマティの言葉が終わる前に、千本の魔法の矢が輝く光の筋となって一斉に地上へと降り注いだ。
同時に白い光に包まれるサナトゥリア。
そしてカイリは見た。
〈探矢緒〉で作り出した光の矢のうち、少なくとも数十本が〈離位置〉で消える前のサナトゥリアの身体を確かにとらえていた。
それにもかかわらず彼女は平然としていた。
かすり傷ひとつ負うことなく、光の中へ消えていったのである。
すべてが一瞬の出来事だった。
***
気がつくと、千の光の矢もサナトゥリアというエルフ族の姿もすでになかった。
すっかり崩れた屋敷の残骸が煙を上げており、木や土の焦げた臭いが漂っている。
襲撃者であるエルフ族のサナトゥリアは用を済ませて帰ったのだ。
あの切り取られたページが彼女の目的であったことは間違いない。
むしろそれを手に入れていたにもかかわらず、自分たちの前に姿を見せた理由がカイリにはわからなかった。
もし召喚されたばかりのカイ・リューベンスフィアを本気で殺すつもりだったなら、彼女ならいくらでも手段があったように思えるのだ。
そして殺されかけたにもかかわらず、カイリはサナトゥリアを憎めないでいた。
オレンジ色に染まる森の中を歩き去るショートボブの明るい金髪が揺れる後ろ姿と、初めて食べた緑色の果実の味は今でも忘れられない。
彼女がいなければ、何もわからないままあの森で死んでいたはずだった。
「マティ……」
「はい」
黙ったままのマティを心配して声をかけるカイリ。
振り返ったマティを見て驚いた。
今にも泣きそうな顔だったからだ。
「ど、どうした?」
「……はい。すみません、ちょっといろいろなことを考えてしまって混乱しています」
ふらふらとカイリの方へ飛んでくるマティ。
今の状況について話し合いたいカイリだったが、マティの精神状態はそれどころではないようだった。
「ま、まあ、落ち着いて」
今にも落下しそうなマティの身体を受け止める。
いわゆるお姫様だっこの形だが、身長が三十センチほどしかないマティが相手なので背中と脚を手のひらで支えているにすぎない。
カイリの手の上で遠くを見たままのマティが口を開いた。
「マスター……。エステルと私は、立場上は対立していますが……私にとっては友人というか……娘のような存在なんです。
エステルはエルフの族長で、ドワーフ族との戦争に勝つためなら、マスターを利用しようとさえするのが彼女の立場です」
「ああ……なんとなくわかったよ」
それと……と、続けるマティの声が重くなった。
「あのサナトゥリアという娘は、“悪魔憑き”です」
「悪魔憑き?」
頷くマティ。
「ごく稀に、エルフ族だけに生まれる呪われた子です。どういうわけか、悪魔憑きには魔法で危害を加えることができません」
「呪われた……って、むしろ便利そうに思えるけどな」
そう言いながらカイリは別のことを考えていた。
(どういうことだ? 魔法システムに欠陥があったのか? しかしエルフ族限定っていうのは……)
「詳しいことは私も知りません。普通に考えれば、戦争の兵士として重宝されてもおかしくないと私も思うのですが……。ただエルフ族の風習として、悪魔憑きは生まれてすぐに殺されると聞いていますし……その場面を一度だけ見たことがあります」
「…………」
黙り込むマティ。
あまり良い記憶ではないだろうことはカイリにも想像できる。
不明な点は多いが、サナトゥリアに〈探矢緒〉が効かなかったことは確かだ。
度等を乗せた〈探矢緒〉は数が増えることで、単純にその総ダメージも増える。
狩りに使えるかどうかもあやしい一本の〈探矢緒〉とはわけが違うのだ。
普通の人間であれば一瞬で蒸発するような攻撃をしたはずだった。
「……マスター」
マティがぽつりと言った。
「お願いがあります」
「なに?」
「……エステルに会いに行かせてください」
マティがエステルというエルフ族族長の身を案じていることは明らかだったし、この要望をカイリはすでに予想していた。
「俺も行くよ」
「はい。ありがとうございます」
ぼんやりしていたマティが、カイリの次の言葉で顔を上げた。
「俺も頼みがある」
「は、はい。なんなりとお申しつけくださ……あっ」
カイリと目を合わせ、自分がカイリの手の上にいることをようやく自覚したマティ。
急いで跳ね起きると宙に浮いたまま正面を向き、両手の指先を重ねてかしこまった。
「す、すすす、すみませんっっ」
そんなマティの顔は真っ赤に染まっていて、そのまま俯くように頭を下げるのだった。