File013. 探矢緒《マジックミサイル》
目を見張るマティの黒い瞳に巨大な赤い炎の塊が映っていた。
(知らない……。こんな〈燐射火囲包〉、一度も見たことがない……)
マティが知る〈燐射火囲包〉は、野外で火をおこしたりロウソクに火をともすための火種として使う指先ほどの小さな炎だった。
要俳が最も短い魔法として知られ、誰もが最初に教わる魔法である。
初めて発動に成功したときには、自分が作り出した小さな炎の輝きに感動するものだ。
だが――。
カイリが作り出した〈燐射火囲包・度等3〉は直径が三十メートルあった。
ブーストを知らないマティだが、それが魔法の汎数を引き上げたことは理解できる。
木の精の触覚器が作り出した巨木の太い幹を一瞬で黒い炭と化し、数秒で消失する火の玉。
だが燃え移った炎は消えない。
直径三十メートルの外にあった枝葉が炎に包まれながら落下している。
屋敷の残骸が燃え続ける中で数冊の予言書もまた燃えており、二十冊近い予言書はすでに灰として大空へ舞っていた。
カイリの視線の先に、地面に降りて両ヒザをつく妖精の後ろ姿があった。
「マティ?」
カイリに声をかけられても、彼女は振り向かなかった。
その肩が震えている。
「……わかっています。場所を知られた以上、屋敷を放棄するしかないことも……処分したほうがいいことも……わかっているんです……」
彼女の胸に去来しているのは過去のカイ・リューベンスフィアたちとの思い出なのだろう。
残された日記から想像できることは限られている。
マティの大切な思い出に、カイリが立ち入ることはできない。
(……さて)
視線を上げるカイリ。
(木の精を操っていた奴は逃げたかな? それとも……)
周囲を見渡そうとしたカイリの目の動きがすぐに止まった。
屋敷の残骸から大量の煙を立ちのぼらせている炎の右手方向。
そこに林を背にして立つ一人の人物がいた。
その姿にカイリの目が釘付けになる。
たくさんの鮮やかな色が使われた北欧の民族衣装のような服装。
いわゆるモデル体型で、スラリと伸びた細くて長い手足。
そして、ショートボブの明るい金髪――。
(まさか……)
布に包まれた緑色の果実の記憶が甦る。
忘れもしないオレンジ色の森の中を歩き去る後ろ姿。
(森に食べ物があることを教えてくれた人……か?)
身体の線は細いものの、胸のふくらみと丸みを帯びた腰のラインが女性であることを証明していた。
身構えもせずゆっくりと歩いて近づいてくる。
カイリを正面から見据える灰青色の瞳はクールで強い意思を感じさせるが、何を考えているのかは読めない。
(美人っていうのもあるけど……初対面なのに不思議な魅力を感じるな。オーラというか……カリスマってやつか)
近づくにつれて最初の印象よりも若いことがわかった。
カイリと変わらない年齢の娘に見える。
そして記憶の中でカイリが髪飾りだと思っていたものは長くとがった耳だった。
カイ・リューベンスフィアたちの日記を読んだ今のカイリにはわかる。
(この種族は……)
「エルフ族! どういうつもりですか!」
叫んだのはマティだった。
同時にエルフ族の娘が歩みを止め、腕を組んだ。
カイリたちとの距離は十メートルほどしかない。
「テクニティファ・マティ・マヌファやね」
軽い口調。
度等を三つも乗せた〈燐射火囲包〉の威力は、それを発動させたカイリ自身も驚くほど強力な魔法だった。
それを目のあたりにしながら無防備に姿を見せるというだけで、目の前のエルフ族がただ者ではないとわかる。
怯える様子も、気負う様子もなく平然と近づいてきたのだ。
そして、そんな彼女の右手にあるもの――。
「予言書を返しなさい。それはフェアリ族のものです」
エルフ族の娘を睨みつけるマティ。
エルフらしい細い腕の下から一冊の本がのぞいている。
右手に持っているそれは予言書に違いなかった。
「ああ、これ。どうせ燃やそうとしたものやん。一冊くらいもろうてもかまへん思うけど」
その目つきはマティを見下し、カイリを完全に無視していた。
「それは、あなたが木の精を仕掛けたからでしょう。返してもらいます」
すぐに呪文の詠唱を始めるマティ。
木の精を相手にしたときには魔法を使うことはなかった。
その時はまだ「予言書を諦める」というカイリの決断を聞く前であり、本を傷つけることをおそれたからだ。
だが今のマティに躊躇はない。
――高目移行放棄・汎数1
――通模・要俳
マティの呪文を聞いても娘の様子は変わらなかった。
平然と腕を組んだままである。
――誕する単は淡なれど、鍛を超えて探す
四分の一拍子を刻むように正確なリズムでマティが要俳を唱える。
それを聞いた娘がククッと笑い、表情をムッとさせるマティ。
カイリは黙って見ているだけだ。
魔法に熟練しているマティが初志の玉を出さないまま頭の中だけで魔法の設定を終える。
――転配
――役名
「〈探矢緒〉」
宙に浮くマティのそばに一本の光の矢が出現した。
そう思ったときには光の矢は放たれ、エルフ娘の右肩を射抜いていた。
〈探矢緒〉は獲物を自動追尾する魔法の矢であり、効果時間が過ぎて消失するまで術者が最初に決めた目標を狙い続ける。
そしてエルフ族の娘は避ける素振りさえ見せなかった。
だから右肩に当たったのはマティがはじめから右肩を狙ったからである。
「ふふ……」
娘が薄い笑みを浮かべていた。
彼女の右肩は無傷であり、持っている予言書を落とすこともなかった。
その事実に一番驚いたのはカイリである。
(度等を乗せない〈探矢緒〉の威力はたかが知れてる。でも、無傷っていうのはどういうことだ。防御魔法が発動したようには見えなかったけど……)
「あなた、まさか……」
マティの表情が固まっていた。
動きも止まっている。
マティの様子が何を意味するのか、カイリにはわからない。
「んー、あんたが新しいカイ・リューベンスフィアやね」
マティには興味をなくしたかのようにカイリの方を向くエルフ族の娘。
森で倒れたカイリを見ているはずだが、そのことに触れる様子はない。
「予言書を燃やしてまうなんて、失望させてくれるなぁ。古来からあんたの存在価値、予言書とともにしかないゆうに」
そう言ってカイリの目の前で予言書を開き、ページをめくり始めた。
「……目的はやはり予言書か」
探るようなカイリの言葉を無視し、エルフ族の娘がページをめくり続けている。
その手が止まった。
「あった、あった。このページ」
「…………! まさか、読めるのか?」
カイリの顔に緊張が走る。
その表情にちらりと視線を投げると、彼女はいつの間にか手にしていたナイフを予言書の上で滑らせた。
「まさか。読めるわけないやん」
軽い口調でそう言うと、まだ激しく燃え上がっている炎の中へ予言書を投げ捨てた。
あっという間に炎に包まれる予言書。
彼女がまだ予言書を隠し持っている可能性がないわけではないが、おそらく最後の一冊だろうとカイリは思った。
彼女の手元には予言書から切り取られた一枚の紙切れだけが残っている。
「どうなん。あんたの解読、ここまで進んでた?」
警戒する様子もなく、指先でつまんだ紙切れがカイリの方に向けられた。
なれなれしい口調だがエルフ娘の目は笑っていない。
いつの間にか三メートルほどの距離まで近づいていた彼女だったが、それでも三メートルである。
予言書の文字の大きさを覚えているカイリは、読めるはずがないと思った。
……が。
(“ナノマシンシステム総合責任者認証方法”……だと)
そのページは文章の周囲が枠で囲まれており、一行目だけが大文字で書かれていた。
文章の途中ではなく、何かの説明が記された特別なページだとわかる。
そして大文字の部分だけはかろうじて読めたのだった。