File118. がんばり屋
二つの的に刺さったそれぞれの矢が夕陽に照らされ、同心円の模様に細く長い影を重ねている。
二百メートル先で完成したその芸術品を目にし、シオティシアとレイウルフはまるで時が止まったように動けずにいた。
「あ……、や……」
先に声を上げたのは、顔を輝かせたシオティシアだった。
「やった、やりました、レイウルフ様。シオは……シオは、十三で双角に成功しました!」
小躍りするほど喜んだシオティシアが振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべて拍手を贈る師の姿があった。
「おめでとう、シオティシア。私は君を尊敬します」
「そ……尊敬だなんて。レイウルフ様、シオは身の程をわきまえています。今は運よく成功しましたが、成功率百パーセントのレイウルフ様には、やはり遠く及びません」
照れながらかしこまるシオティシアに、別の方向から声がかかった。
「安心しろ、シオティシア。たとえその賛辞が部下を育成するためであったとしても、上辺だけの言葉を並べるレイウルフではない」
「エ、エステル様!?」
いつの間にかそこにいた族長の姿に、目を見張るシオティシア。
すぐに軍隊式の敬礼を綺麗に決める。
すでに敬礼を済ませていたレイウルフが、エステルの言葉を引き継いだ。
「誤解しないでください、シオティシア。私が君を尊敬するのは双角の成功を目にしたからではありません」
「―――?」
頭に疑問符を浮かべるシオティシアと、微笑んでそれを眺めるエステル。
「わずか十三歳で双角を成功させるために、君が重ねてきた努力をずっと見ていたからです」
ハッとしたシオティシアが、顔を赤くして俯いた。
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ」
笑ったのはエステルだ。
「シオティシア。おまえは晴れて宣言通り、レイウルフを超えてみせたわけだ。おまえは偶然と言ったが、私から見ればレイウルフの最初の双角のほうが、よほど偶然だったぞ」
ばつが悪そうに目をそらすレイウルフには気づかず、動揺するシオティシア。
「あの……エステル様。その、もしやレイウルフ様との約束をご存知――」
「おまえは約束を果たした。遠慮する必要はない」
その言葉に驚いたのはレイウルフのほうだった。
シオティシアとの約束について、族長のエステルに話した記憶は確かにある。
だがそれは、部下の様子について交わした多くの会話の中のひとつであって、それを多忙な族長が覚えているとは思わなかったのだ。
約束の内容が森林防衛隊長への推薦という話のままであったならともかく、部下の話を聞くと約束した――それだけである。
レイウルフにとっては、その直後の族長の話のほうが衝撃的だった。
シオティシアとの約束については、先ほど彼女から言われるまですっかり忘れていたくらいだ。
もちろん約束は守るし、彼女が入隊前から決めていたという願い――その内容を聞くことに何の問題もないと思っている。
長い金髪が揺れるのを風にまかせたまま、シオティシアがうなだれていることにレイウルフは気づいた。
さっきまで喜び浮かれていたはずの彼女が、すっかり意気消沈している。
「どうかしましたか、シオティシア」
「レイウルフ様……申し訳ありません。シオは約束を撤回いたします。あの時と今では、状況が変わりました。どうか私との小さな約束のことは忘れてください」
「…………」
レイウルフはすぐに言葉を返すことができなかった。
この十一か月間、見てきたのだ。
エルフ族一と噂されるほど美しい部下が、周囲から「できるわけがない」とばかにされながら、泥と汗にまみれて努力する姿を。
弓術においても師匠級のエステルでさえ成功していない双角。
そのエルフ族に伝わる弓術七奥義のひとつを成功させるためには、長時間長弓を引き絞り続ける大男並みの筋力が必要だ。
生まれつきの優れた動体視力やセンスだけでは成しえない。
長い沈黙を、エステルの言葉が破った。
「シオティシア。私もおまえを尊敬する。だから私に遠慮するな。ルシアのことも気にしなくていい。それだけのことを、おまえは成し遂げたのだ」
顔を上げるシオティシア。
その瞳に迷いが見える。
そこで初めてレイウルフは思い至った。
シオティシアの願いが、自分が考えていたよりもずっと重いものであることに。
(その願いを口にする資格を得るためだけに、シオティシアは過酷な努力を続けてきました。それは私が一番よく知っています。ですが、エステル様にここまで言われても迷うほどの願いとはいったい……)
そして、ルシアの名前が出たことにも困惑していた。
シオティシアの願いを、族長がある程度予想しているのだろうということはわかる。
だがここで、サナトゥリアの母親であるルシアの名前が出る理由がわからない。
「あの、エステル様――」
「うむ……いや、私がシオティシアに謝るほうが先だな」
レイウルフの声を、エステルのいつもより低い声が遮った。
入隊一年目の部下に族長が謝るという発言に、レイウルフが戸惑う。
「十一か月前、レイウルフからおまえとの約束について話を聞いたとき、私は直感していた。だから先手を打った。だが、それはフェアじゃなかった。ルシアも同罪だ。それがおまえをずっと苦しめていたはず――すまなかった」
「エステル様……」
「だから、おまえが遠慮する必要はない。それでも遠慮するというのなら、この話はここで終わりだ。いずれにしても、第一夫人の座を譲る気はないからな。第二夫人のルシアも同じだろう」
レイウルフは、ようやく理解した。
彼がエステルとルシアのふたりと挙式をあげたのは、三か月前のことである。
最初にレイウルフに求婚したのはエステルで、それはレイウルフがシオティシアとの約束について話した直後だった。
そしてその日の夜に、ルシアからも求婚された。
エステルから先に求婚されているものの、まだ返事をしていないと聞いたルシアはこう言った。
――そう。危なかったわ。あのおん……エステル様、私の心づもりを聞いておきながら、私を出し抜こうとしていたのね。まあ、私もそうなんだけど。レイ坊は私と、あのおん……エステル様と、どちらを選ぶのかしら?
普通なら、忠誠を誓う相手であり、先に求婚した族長を優先するべきなのだろう。
崇拝と言えるほどに族長を敬愛するレイウルフにとって、族長からの求婚は完全に想定外の出来事だったものの、他のどんな女性より族長を優先する自分のひとつの幸せの形であるように思えた。
だが、レイウルフがすぐにエステルの求婚を受けることはなかった。
それには理由がある。
求婚の後、エステルがこう続けたからだ。
――これまで私は、ある意味、おまえの気持ちを独占してきた。エルフ族の男たちの中で、最もモテるはずのおまえをな。その上、結婚までするのは贅沢だとわかっている。
――それは私を買いかぶりすぎです、エステル様。
――いや、私の心の半分を占めているのは、エルフ族全体のことだ。そしておまえを選ぶ理由の半分は、優秀な子孫を残さねばならないという族長としての義務感からだ。
――…………。
――それは将来、全身全霊でおまえを愛するはずの女との出会いを、おまえから奪うということだ。そうだな……もし近いうちに他にも求婚を受けることがあれば、おまえさえ良ければすべて受けていい。
――そのような相手に心当たりはありません。
――それから、優秀な子孫を残せると思える相手なら、婚姻後でも迎えてかまわん。
エルフ族は、他の多くの種族と同様に一夫一婦制だ。
そして他の多くの種族と同様に、種族のためになると族長が認めた場合に限り、一夫多妻、一妻多夫が認められる。
レイウルフは返事を保留したが、今までのように族長の言葉に従うことになるだろうと思っていた。
その日のうちに昔から知っているルシアからも求婚されたときには耳を疑ったが、彼女の言葉を聞いた彼は、族長がすべてわかったうえで自分に求婚したのだと理解した。
もっともこの時はまだ、族長の言葉がシオティシアの願いまで予想したものだとは思いもしなかったが。
「エステル様」
シオティシアが口を開いた。
「私の願いは、レイウルフ様を困らせるでしょうか?」
その言葉に虚を突かれたエステルは、すぐに答えられなかった。
(そうか……やはりおまえは、私やルシアとは違う。雑念が一切無いのだな)
ニヤリと笑うエステル。
「当然だな。我が夫は、慣例を守るという意味では、相当に頭が固いほうだ」
「………………」
黙るシオティシアに向け、エステルが言葉を続けた。
「……だが、ふたりの妻を娶ってもう三か月だ。さすがに慣れた頃だろう。それに……まあ、これは言わないつもりでいたのだが……家で、ルシアと私の機嫌が悪くなるのは決まってレイウルフが――とあるがんばり屋の部下について、嬉しそうに話す時だ。本人は自分の気持ちに気づいていないようだがな」
「――――!」
うろたえるレイウルフは、がんばり屋の部下が自分をまっすぐに見つめていることに気づいた。
「レイウルフ様、シオは――」
「待ってください」
慌ててシオティシアの言葉を遮るレイウルフ。
それから彼は、右手を胸に当ててシオティシアの目を見つめた。
「もし君さえよければ、ですが、その、私と、結婚してください、シオティシア」
「…………」
涙を浮かべたシオティシアが、くすりと笑った。
「……シオはまだ、十三ですよ?」
「あ、いえ、その、あと三年、いえ、五年? 結婚は待ちます。それまでの間、君を――誰にも取られないように、努力します」
シオティシアの目から、夕陽に光る涙がポロポロとこぼれた。
エルフ族は十二歳で成人と見なされるが、結婚年齢は十六歳以上と考えるのが慣例であり、実際には十八歳以上で結婚するのが一般的だ。
「はひ……よろひく、お願いしまふ」
顔を覆うシオティシアの両手から、次々と落ちる光の粒。
それから目をそらしたエステルは、沈まない夕陽に視線を向けて目を細めた。
(大切な未来の族長候補だ。逃がさないでくれよ、レイウルフ)
それから自嘲のため息を漏らす。
(……やはり心の半分には族長が染みついているな、私は。……もう半分は…………)
唐突に、エステルは思い出した。
「ああ、ここに来た目的を忘れていた。レイウルフに伝えたいことがある」
いつもの族長に戻ったエステルの声に、レイウルフとシオティシアが反応して身体の正面を向ける。
「おまえにも正確な日付を伝えてはいなかったと思うが――」
整った顔が嬉しそうに綻んだ。
「今日、世界は救われたよ」
***
北アメリカ大陸にあるドワーフ領。
その最北端で警備にあたっていた八人の兵士たちが、北から歩いてきた二人連れの旅人を呼び止めた。
北側にエルフ族の拠点があるわけではないが、〈離位置〉の出現ポイントは存在する。
そのため、数は少ないが見張り程度の兵士が配置されているのだ。
訪れたふたりは防寒具で顔の大半を隠していたが、そのずんぐりした体格は自分たちと同じドワーフ族であり、警備兵たちは特に警戒していなかった。
中央からの目が届きにくく暇を持て余す彼らにとって、たまに北から訪れる旅人は娯楽の対象でしかないからだ。
広いネットワークを持つヒューマン族の商人に対しては、嫌がらせをしてわずかな嗜好品を巻き上げるくらいで済ませていた。
だが、ごく稀に“訳あり”のドワーフ族の旅人が訪れることがある。
犯罪者であったり、地方の採掘場から追い出された役立たずであったり、土の精を受け継ぐお家騒動に巻き込まれた弱者であったりと、その背景は様々だ。
そんな者たちに対して彼らは、女なら犯して殺し、男なら殴り殺して楽しむ。
それを何度繰り返しても、目撃者がいないため一度も罰せられることはなかった。
「止まりな。ここを通るには、俺たちの審査をパスする必要があんだよ」
煙草をくわえた兵士がそう声をかけ、武器を手にした兵士たちがニヤニヤと笑っている。
「何か勘違いされているようだ。俺たちは犯罪者の類ではない。俺たちは――」
銀色のヒゲの男がそう答えると、煙草の兵士が顔を突き出した。
「ああ、心配すんな。まずは持っている武器を全部預けるんだ。正規兵による審査はどこでもやってることだろ?」
次の瞬間には、その兵士と隣にいた兵士の頭が無くなっていた。
赤い血がシャワーのように降り注ぐ。
「――俺たちは、戦争に来たのだ」
戦斧を手にして不敵な笑みを浮かべたのは、かつてこのドワーフ領で武術大会二十連覇を成し遂げた逸れドワーフだった。