File115. 自動落下プログラム
ふと空を見上げたガーディは、銀のウロコに覆われたトカゲ頭をポリポリと掻いた。
「……気のぜいが?」
今日はいつもより一日が長い気がするのだ。
リザードマン族の視力はドワーフ族よりさらに悪い。
それでも雲間に小さくぼやけて見える光は、彼がよく知るピージに違いなかった。
***
太陽が沈まない世界。
その遠未来の地球で生物生存圏を維持しているもの。
それがTFSP――テラフォーミング装置“聖なる教皇”――である。
ただし“聖なる教皇”による庇護だけでは、この時代まで人類が生き延びることはなかった。
二千万年前、地球に衝突して人類を滅ぼすはずだった小惑星の軌道を変えたもの。
それが衛星軌道に浮かぶPG――太陽系監視静止衛星“惑星の守護者”――である。
“聖なる教皇”は自己防衛を最優先とするその特性から、完成と同時に既存のナノマシンネットワークから物理的に切り離されている。
だがそれは、エルフ領にある禁断の山カラジャスの洞窟で、アメリカ製ナノマシン群が生き延びていたようなローカルな存在ではない。
TFC――テラフォーミング装置建造プログラム“テラフォーミング教会”――は、最初に平行ネットワークを構築した。
平行ネットワークとは、既存のナノマシンネットワークを完全に複製したものだ。
生物に例えるなら細胞分裂のようなものであり、ナノマシンの数がほぼ二倍になったということである。
ふたつのネットワークは互いに重なるように存在し、地球表面を覆っている。
もともと自己増殖機能を有するナノマシンではあるが、平行ネットワークの構築は慎重に、時間をかけて行われた。
グレイ・グー化を防止するためのインターロックを一時的に解除するリスクは無視できなかったし、ひとつひとつは百ナノメートル大にすぎないナノマシンであっても、地球表面を覆うそれらの数を二倍にするだけの材料を安全に調達するのに時間がかかったからだ。
既存のナノマシンネットワークを表のネットワークとするなら、平行ネットワークは非公開の裏ネットワークである。
その存在を知るのは“テラフォーミング教会”の稼働を最初から把握していた日科技研だけであり、カイリ・タキタニが既存のセキュリティを無視してディアブロにコンタクトできた理由がそこにある。
この平行ネットワークは、“聖なる教皇”の完成と同時に既存のナノマシンネットワークから切り離され、“聖なる教皇”の演算システムとして機能している。
すなわち、地球環境創生を実現している制御装置自体はとある場所に建造されているものの、その処理を支える演算機能は地球表面を覆っているのである。
様々な場所で様々な用途に分割利用されている既存のナノマシンネットワークに対し、それらすべてを合わせた演算能力を有する平行ネットワークを“聖なる教皇”は有している。
それは世界で唯一にして最高峰のスーパーコンピュータシステムであり、“聖なる教皇”が最初にそれを活用したのは、彼にとって最も優先度の高い使命――自己防衛――のためだった。
つまり彼にとって脅威となる可能性があるものを洗い出し、絞り込み、突き止めたのだ。
――TFSPより緊急メッセージ――精密な計算の結果、18249999670日後にPGが私の上に落下することが判明。至急対処されたし。
PG――地球の守護者であり、マティが“ピージ”と呼ぶ衛星が、地球環境を支えるTFSP――テラフォーミング装置“聖なる教皇”に落下する。
それが世界滅亡のシナリオであり、TFSPによる緊急メッセージから数年後に一部の学者が気づき、解明し、やがて発行された科学書籍『沈まない太陽 ― その世界を終わらせるたったひとつの偶然 ― 』に記されたのである。
***
カイリと竜たちが姿を消して約一年。
世界に変化は無かったが、今日になってほんのわずかな変化があった。
それに気づいたのはガーディくらいだろう。
世界の終わりの兆候は、空に浮かぶピージの移動周期のズレから始まった。
何千万年もの間、二十四時間――正確には、二十三時間五十六分四秒――で地球を一周していたピージが、その速度を落とし始めたのだ。
原因はピージに組み込まれた補助バッテリーの老朽化と、それに合わせて発動した自動落下プログラムの起動だった。
ピージは巨大隕石などの脅威から地球を守る重要な役目を果たしてきた。
だがその能力と権限は、一歩間違えれば人類を滅ぼしかねない代物だ。
そこで重要になるのが単独で正確に判断・処理できるピージの優秀なAIであり、その万全な働きを保証する補助バッテリーである。
補助バッテリーの寿命は五千万年。
ピージを宇宙へ打ち上げた当時の人類にとって、その寿命の終わりは想像もできないくらい遠い未来の話ではあったが、狂ったピージの脅威は容易に想像できた。
ピージが軌道計算を間違えれば、核ミサイルの雨が地球に振り注ぐことさえありえるのだ。
そんな未来の脅威から人類を守るための手段が自動落下プログラムであり、補助バッテリーが寿命を迎えるのと同時に発動するようになっていた。
太陽が沈まない世界に暮らす人々は、ピージの役目も、その危険性も知らないままピージに守られてきた。
そしてピージはその危険性をさらす前に、自動落下プログラムによって軌道を修正され、人類の生存圏から遠く離れたある場所へ落下することになっている。
“聖なる教皇”の建設地として選定された場所がピージの落下地点であったことは、全くの偶然である。
“聖なる教皇”と同様に、ピージもまたテロリストやハッカーから攻撃されるリスクを回避するため、その仕様は公開されず、ナノマシンネットワーク上に記録されることもなかったからだ。
それにもかかわらず二五〇年前に打ち上げられたピージの落下地点を“聖なる教皇”が正確に予測できた理由は、ひとえに世界最高峰のスーパーコンピュータシステムの優秀さにある。
平行ネットワーク上には、ナノマシンネットワークからコピーされた間接的で断片的な数々の情報が散らばっており、それらを元に、補助バッテリーの寿命と自動落下プログラムの仕様を解明したのだ。
五千万年という長い時の中で、生物生存圏の存続を脅かしたあらゆる危機を乗り越えてきた“聖なる教皇”の能力は、神の領域にあると言っても過言ではない。
そんな“聖なる教皇”であっても、ピージの直撃だけは防ぐことができない。
ピージに与えられた権限が大きすぎるためだ。
その落下による破壊を防ごうとするあらゆる手だては、強制的に解除される。
五千万年前にその危機を予測していた“聖なる教皇”であったが、その優秀さゆえに、打つ手が残されていないことを最初の一年で知ってしまっていた。
フェアリ族の予言書。
『沈まない太陽』と、日科技研の一連の極秘資料――ナノマシンシステムが包括する全要素についての技術報告書――を合わせた全二十六冊の本。
その内容を瞬間記憶能力によりすべて記憶したカイリだったが、その中に“聖なる教皇”を救う直接の方法が記されていたわけではない。
だがヒントはあった。
ひとつ――日本の軍事兵器として開発された竜および役満は、それらが互いに干渉する場合を除き、ナノマシンを操作する上であらゆる干渉を受けない。
ナノマシンを開発したのは日本であり、それを戦争に使うのであれば当然と言えるだろう。
つまりナノマシンの操作に限っていえば、竜と役満の権限はピージのそれを上回るのだ。
ふたつ――ナノマシンが相対座標固定能力を手に入れた場合に限り、時空体への干渉が可能となり、トリプル役満が解放される。
相対座標固定能力とは、ナノマシンが量子へ干渉する方法を手に入れた証拠であり、その能力があれば時空への干渉が可能だという。
最初にこの記述を目にしたとき、カイリは時を越えて過去へ戻ることを夢想した。
だが予言書を読み進めると、地球上の全エネルギーをかき集めてもそれは不可能だとわかった。
実現できるのは、せいぜいナノマシン程度の大きさのものを時間にして約〇・一秒移動させるくらいだという。
一方、空間の移動距離としては約三万キロメートルが可能なのだが、やはりナノマシンサイズのものだけだ。
だがそれを実現するトリプル役満こそが世界を救う手立てになると、カイリは気づいたのだった。
みっつ――トリプル役満の発動には、ナノマシンの“活性化”が必要である。
ナノマシンを“活性化”させるために有効な方法が、四体の竜を必要とする“同調”であることもはっきりと示されていた。
問題はその説明が、術者が四体の竜の主人であることを前提に書かれていたことだ。
だが、“同調”を実現できるかどうかはシステム上の問題ではない。
竜がそのトリプル役満を使用する術者に、身も心も捧げるほどに協力したいと願えるかどうかだ。
それは簡単なことではないが、絶対に不可能ということでもない。
時間をかけて互いに信頼を築くことができれば、不可能ではないはずだ。
少なくともカイリはそう信じて、十一か月前に四体の竜を連れて姿を消した。
***
広大な円形の台地の中心に、ひとつ歳を重ねて十九歳になったカイリが立っている。
そのカイリを囲むように立つ四人の竜。
「“同調”の成功率を百パーセントまで上げることはできなかったけど、できるようにはなった。みんなが俺を信頼してくれるようになったおかげだ。あらためて礼を言うよ。ありがとう」
実際の成功率は二十五パーセントくらいだろうか。
四回やって一回しか成功しない確率だが、絶望的な数字ではない。
重要なことは、その一回をこの一回にすることだ。
「もう十日あれば、九十パーセントくらいはいけちゃうと思うんだけどなー」
赤髪の少女が明るい笑顔でそう言った。
それを黒髪の少女がたしなめる。
「スザク……ここで具体的な数字を出さないでください。今日が最初で最後のチャンスであることは変わりませんし、できると信じることが大切ですわ」
そう話すゲンブの顔は緊張している。
それはそうだろう。
ここで“同調”に失敗すれば十一か月の苦労は無駄になり、数時間のうちに世界は滅びるのだ。
あっけらかんとしているスザクの神経が太すぎるのである。
だがゲンブ以上に緊張している者がいた。
白髪のビャッコである。
「元帥さん、私はこの十一か月の練習で手を抜いていない自信はあります。ですが、成功させる自信は――」
「ビャッコ。俺を見てくれ」
睫毛を震わせて顔を上げるビャッコ。
実はスザク、ゲンブ、セイリュウの“同調”は、一か月ほど前から安定している。
成功率を下げているのは明らかにビャッコなのだ。
(無理もない。ビャッコにとってはリュシアス以外の男――俺と長い時間を過ごしているというだけで罪悪感を覚えるんだろう)
ビャッコの視界に真剣な顔のカイリがいた。
「見つめる相手がリュシアスほどの男前じゃなくて悪い。けど、そこはなんとか我慢してほしい」
一瞬おどけた顔を見せたカイリが、再びビャッコを真っ直ぐに見つめた。
「俺はこの十一か月でビャッコのことをたくさん知ったつもりだ。そしてビャッコの、リュシアスのために世界を救いたいという想いは本物だと知っているし、その点ではスザクより信頼している」
しまったという顔をするカイリ。
ここでスザクの名前を出すのは明らかにまずかったと、すぐに悟ったもののもう遅い。
「う~~~~~~~~」
頬を膨らませて涙を浮かべたスザクがカイリを睨んでいた。
ゲンブがあきれた声を出す。
「カイリさん、“同調”を始める時間まであと四十秒ですよ」
「う」
“同調”成功率が二十五パーセントから十パーセントくらいに低下したかもしれない――と、カイリは思った。