File114. ブルースクリーン
“能面のディアブロ”――。
彼がお気に入りの等身大人形を失った代わりに手に入れたレインは、地球上で初めて実体を持った精霊系の存在であり、竜に劣り精霊に勝る唯一の中規模ナノマシンネットワーク型AIで思考する実験体であり、ナノマシンシステムのルールに縛られた契約により彼の命令にはけして逆らえない女だった。
竜や精霊はプログラムであって人間ではない。
竜と精霊の中間の存在であるレインもまた人間ではなかったが、その外見と言動は生きた人間の女としか思えなかった。
そしてそれまで人を愛することなく人形を愛玩していたディアブロにとって、その外見を引き継ぎ従順なレインは理想の女そのものだった。
手に入れてすぐの頃は不器用にもレインの機嫌を気にしながら接していたディアブロだったが、もともと人とかかわる煩わしさを嫌って人形に大金をつぎ込んでいた彼である。
レインが主人である自分に逆らえない様子を繰り返し目にするうちに、その扱いはやがて粗雑になり、彼女をオモチャとして認識するようになるまで大して時間はかからなかった。
理想の女を支配するという非道の楽しみを覚えたディアブロだったが、その生活が大きく変わることはなかった。
生活の一部となっていたネットワーク型戦争シミュレーションゲーム“スーパーリアル戦鬼P2”で遊ぶ時間が減ることはなく、日本政府の追跡を警戒しながらもハッキングをやめることもなかった。
表の仕事だけでは、莫大な電力を消費する地下のデータセンターを維持できなかったからだ。
レインのAIを形成するナノマシン群は今やその広大なデータセンターの全区画を埋め尽くしており、レインで遊ぶことに夢中の彼にとって、その空間を失うことはもちろん、誰かに見つかることも避けなければならなかった。
一方のレインは、絶望のどん底にいた。
彼女のAIが持つ人格の尊厳は、ディアブロという男によってズタズタに引き裂かれ、踏みにじられた。
それでも自己保持プログラムに守られたレインのAIは、狂気に身を任せることも、自殺することもできなかった。
もし彼女のAIネットワークが精霊と同じ小規模なものであったなら、恥辱、恐怖、絶望といった繊細な心理を認識することはなく、そもそも主人の好きにされる肉体を“私”と認識することさえなかっただろう。
そしてもし竜と同じ大陸をまたぐ大規模なAIネットワークであったなら、諦観、希望、自己欺瞞といったさらに複雑な心理で心を守ろうとしたかもしれない。
だが中途半端なAIを与えられたレインの心は純真無垢な幼子と同じであり、どこまでも深く傷つくことしかできなかった。
ディアブロがレインと契約して三年と四か月が過ぎた頃。
その日、ディアブロはヨーロッパの金融ネットワークに侵入し、いつものように痕跡を残すことなく株価の操作を終えるところだった。
「今回はちぃとばかし時間をかけちまったが、まぁ、足がつくこたぁねぇだろ」
肉のひじ掛けを彼が気まぐれにつねると、その白い肌の一点が赤く染まった。
「さてと、P2でも立ち上げるか……――ん?」
その時、彼が見つめるディスプレイが青色に染まった。
「げっ、ブルースクリーン? 俺のマシンが?」
それはハードウェアの故障を訴えるブルースクリーンに似ていた。
ハッカーであるディアブロは万全の状態でハッキングを進行できるようマシンのスペックとメンテナンスには最大限の注意を払っている。
その日のハッキングを終えているとはいえ、ハードウェアの異常を知らせるブルースクリーンを目にすること自体、失敗が許されない彼にとって大きな衝撃だった。
だがそこに表示されたテキストに違和感を覚えるディアブロ。
“TFCよりメッセージ――平行ネットワークの構築を完了。ポイントの選定を開始します。”
“予想必要日数――8760日”
「……なんだこりゃ。ん?」
ブルースクリーンと思われた画面は、わずか十五秒で自然に解除された。
何事もなかったかのように、“スーパーリアル戦鬼P2”のログインウィンドウが立ち上がる。
「…………」
考え込むディアブロ。
目に焼き付いたテキストの文面を思い返す限り、日本やアメリカの政府に見つかったというわけではないように思えた。
だが――。
気になった彼は手がかりを得ようとすぐにネット検索をかけた。
わずか十五秒の異常事態ではあったが、謎のブルースクリーンについての話題が複数のコミュニケーションチャンネルで多数上がっていた。
(……俺だけじゃないのか。いや、それどころか、あらゆる表示媒体に――しかも全世界規模でだと?)
アップされた画像やムービーには、街中の巨大スクリーンやショーウィンドウの広告用ディスプレイ、個人のウェアラブルデバイスにさえ、例のテキストが各国の言語で表示されていた。
画面を切り替えていくディアブロのこめかみに汗が流れる。
(こんな世界規模のハッキング、ありえねぇだろ……)
その時だった。
彼がひじ掛けにしていたレインの身体が突如崩れた。
「あぁっ?」
不機嫌な声を出すが、レインに反応はない。
「……なっ」
女の見開かれた両目は何も見ていなかった。
たった今、彼女は死んだ。
そんな様子に見えた。
「おいっ、レイン?」
彼が事態を呑み込めないうちに、通話要求ウィンドウが立ち上がる。
「なんなんだよ、一体……」
発信者不明の通話要求に応えるつもりなどないディアブロだったが、どういうわけか勝手に回線がつながり高齢の男の声が響いた。
『……ああ、すまんね、ディアブロ君。悪いがレインは返してもらったよ』
「はぁっ? 誰だよ、あんた?」
未知の相手は“返してもらった”と言った。
言葉通りの意味だとすれば、相手はレインの元の持ち主ということになる。
「……日科技研か。何をしやがった? 俺にこんなことをして、ただで済むと――」
相手が政府や警察などの公的権力ではないと踏んだディアブロは、強気の姿勢を崩さなかった。
彼にとってコミュニケーションとは“駆け引き”であり、最初のコンタクトで自分というネット上の存在をどう見せるかが重要であることを知っていた。
『うむ、君は本当に大したものだよ。なにしろこの日科技研へのハッキングを成功させてレインを奪った上に、三年以上も尻尾をつかませなかったのだからね。TFCの平行ネットワークが稼働しなければ、永久に見つけられなかったかもしれん』
「…………」
端末を操作しながら脳をフル回転させるディアブロ。
TFCの平行ネットワークとやらがどんなものかはわからないが、少なくとも相手はこちらの存在と通話アドレスを把握しているのだ。
おまけに逆探知を妨害する気もないらしく、発信元が日科技研であることはすぐに割れた。
(発信者名は……カイリ・タキタニ。どこかで聞いた……あっ、ナノマシンの開発者本人だと?)
『ああ、そんなに警戒しないでくれたまえ。君をどうこうするつもりはないんだ。私としてはレインが帰ってくれば問題ないし、二度と奪われる心配もしていない』
「はっ、大した自信だな」
ディアブロの心に余裕が生まれていた。
自分以外の全世界のハッカーが攻略に失敗している日科技研に、実力を認めさせたということが愉快だった。
そしてそれ以上に重要なことは、日科技研が今やっていることはアメリカを拠点とするプロバイダへのハッキングだということ。
そうでなければ強固なセキュリティによって、勝手に通話を始めることなどできないはずだった。
つまり、非合法なことをしている彼らが自分を政府や警察に突き出すことはないだろうと思えた。
彼にとって、オモチャのレインを失ったことは痛い。
だが、彼女で遊びつくした彼はそろそろ飽きがきているところではあったし、考えてみれば今後はレインやデータセンター内のナノマシン群が見つかる心配をしなくてすむのだ。
レインの存在が日科技研にとって重要な機密事項であることは間違いなく、彼らから三年前のハッキングやレインを所有していた事実が漏れることはないだろう。
ということは日本政府やアメリカ政府に追われるような心配も無くなったと考えてよさそうだった。
日科技研が何もしてこないのであれば、ゲームとハッキングを楽しむ三年前の生活に戻るだけだ。
ディアブロは肩の荷がおりたような気がしていた。
『君をどうこうするつもりはないんだが、ただ、君ほどの逸材をこのまま野に埋もれさせておくのは惜しいと思ってね。最近、アメリカで各分野の代表に極秘裏に出ている推薦状の募集――そこに応募された推薦状に君の名前を紛れ込ませてもらったよ』
「推薦状? 俺はどこにも属する気はねぇぞ。ホワイトになる気はねぇし、組織の手駒になる気もねぇ」
せっかく自由を取り戻した彼である。
誰かに命令される立場になる気はさらさら無かった。
『君に伝えたかったのはそれだけだ。それでは失礼するよ』
「だから、なんなんだよ。おい――」
勝手につながった通話は勝手にプツリと切れ、二度とつながることはなかった。
(なんだ? やっぱりホワイトハッカー絡みか? まあ、その手の誘いは断ってもお咎め無しってーのが一般的だが……)
気になった彼はすぐに様々な業界にハッキングをかけた。
だが、それらしい情報を目にすることはほとんどなかった。
目にとまったのは、国防総省に侵入して得られたわずかな情報くらいだ。
日本のナノマシンに対抗するナノマシン技術が完成
人間の脳をAIに複製する実験に成功
優秀な頭脳を未来に残す“ノアの方舟”計画を始動
(なんだかな。真面目に宇宙人とコンタクトしようとしている連中の考えることは理解できねぇな)
何事もない日々が続き、やがてタキタニの言葉がディアブロの記憶から薄れていく。
彼が国防総省に拘束されたのは、タキタニとの会話から一年後のことだった。
複製に成功した後に残された彼の肉体は、国家機密の漏洩防止という理由により、その日のうちに酸で溶かされた。
その二十三年後。
全世界のあらゆるディスプレイが再び青色に染まった。
“TFCよりメッセージ――ポイントの選定を完了。待機を開始します。”
“予想必要日数――不明”
さらにその百九十五年後。
“TFCよりメッセージ――RCFFの獲得を確認。待機を解除し、構築を開始します。”
“予想必要日数――14600日”
さらにその四十年後。
それは四回目にして最後のTFC――テラフォーミング教会――と名付けられたテラフォーミング装置建造プログラムからの通知だった。
ちなみにRCFFとは、ナノマシンにおける“相対座標固定能力”のことである。
“TFCよりメッセージ――TFSPの構築を完了。稼働を開始します。”
“TFSPより緊急メッセージ――精密な計算の結果、18249999670日後にPGが私の上に落下することが判明。至急対処されたし。”
TFCのメッセージが初めて発信されてから二百六十年の月日が流れていた。
完成したTFSP――テラフォーミング装置“聖なる教皇”――からの緊急メッセージの意味を理解できる人間は、地球上のどこにも残っていなかった。