File011. 散暗光《ライト》
「そんな……二千年間、誰にも侵入を許したことはなかったのに……」
そうつぶやくマティの顔が驚きと警戒の色に染められていた。
ゆっくりと視線を背後に向けるカイリ。
いつの間にかキッチン奥の床に広がっていたのは木の根だった。
まるで早送り映像を見るように根が伸び続けており、太さを増しながら広がっていく。
「……何だと思う?」
そう尋ねるカイリに、マティが即答する。
「木の精の触覚器です」
木の精――そう聞いてカイリは予言書から得た知識を思い出した。
木の精。
六精霊の一種であり、外見が樹木に似ていることからそう名付けられた。
精霊たちはマティのように実際に生きている存在ではなく、積極的に人に干渉してくることもない。
精霊を使役する者がどこかにいるはずだった。
「この屋敷は高さが三百メートル以上ある断崖絶壁の上にあります。〈離位置〉による移動は容易ですが、その移動先は術者が実際に訪れたことがある場所に限られます。つまり初めてこの屋敷に近づくためには崖を登ってくる必要がり、目的もなく訪れる理由も、ましてや見つけた屋敷にいきなり木の精をけしかける理由もありません。つまり……」
「まいったな……居心地のいい家だったのに」
あごに手を当てて考え込むカイリ。
その落ち着いた様子を見て、マティは逆に不安を覚えた。
新しいマスターにはまだ戦闘経験がない。
かつてのカイ・リューベンスフィアたちもそうだった。
召喚されたばかりのマスターたちは、その年齢・性別にかかわらず日常的な戦闘を経験していなかった。
人の生命が簡単に失われることがあるこの世界の現実を知らない。
知ってもらう時間も今はない。
気がつけばマスターが死んでいた――そんな事態だけは避けなければならない。
「つまりこれは、意図をもったカイ・リューベンスフィアに対する攻撃です」
「…………」
過去のマスターたちになら、危機感を引き出すのに十分な言葉のはずだった。
だが新しいマスターの様子は少し違った。
「よし、試してみるよ」
「マスター?」
カイリはマティに「少し離れてて」と言うと、呪文の詠唱を始めた。
その流暢さに耳を疑うマティ。
一度はカイリが口にする〈離位置〉の要俳を聞いていたマティだが、あらためて正式な呪文を耳にするとやはり感心してしまう。
(魔術師が魔法を習得するために必要な要素は四つ。魔法の役名とその要俳を知ること。正確な発音を伝える師匠がいること。正確な発音を聞き分ける才があること。正確な発音を発声する才があること。……マスターは古代言語を幼い頃から使っていると言った。それゆえに古代言語で記述された予言書を読むことができ、世界にまだ知られていない魔法を含めてすべての役名を手に入れた。そして魔法の師を必要とせず、正確な発音を身につけている。理屈としてはそうだけど……)
それでも召喚されて間もないマスターが基礎的な修練さえせずに呪文を唱える姿を見るのは、この二千年間で初めてのことである。
そして今カイリが唱えている魔法は、マティが使った〈離位置〉や〈品浮〉よりも上位の呪文だった。
――高目移行・汎数2
――通模・要俳
――大なる波は分かれるものを震わし、色づく波は闇を祓い、小さき波はすべてを曝す
ここでカイリはいったん口を閉じた。
右の手のひらを見つめている。
そこには直径四センチほどの白く光る玉が浮いていた。
一言でいえば、光るピンポン玉である。
よく見ると微妙に大きくなったり小さくなったりを繰り返していることがわかる。
「初志の玉……」
そうつぶやいたのはマティだった。
それを聞いたカイリが黙ったまま頷く。
言葉を発しないのは呪文を中断させないためだ。
初志の玉とは、これから発動させる魔法の範囲と威力を視覚的に見せるインジケーターであり、要俳を唱え終わると現れて転配の開始とともに消える。
マティの呪文詠唱で初志の玉が現れなかった理由は、要俳と転配を連続で唱えたからである。
魔法の効果範囲と威力は大まかには役名ごとに決まっているが、転配するまでに頭でイメージすることである程度変化させることができる。
例えば〈離位置〉の場合、自分だけが移動するのか、近くにいる者を含めるのか、含めるのであれば半径何メートル以内にいる者まで含めるのかを調整することになる。
もちろん限界はあり、通常の〈離位置〉では術者を中心に半径三メートル以内までと決まっている。
実際には〈離位置〉に巻き込まれたくない者が術者から三メートル以上離れることで対応することが多く、自分だけを対象とするか他人を含めるかを設定できれば実用上は十分である。
初志の玉はその大きさが魔法の効果範囲を、光の色が魔法の威力を示し、頭でイメージした通りの魔法が発動するかどうかを視覚的に確認させてくれるものである。
イメージすることに慣れてくれば初志の玉を見なくても思い通りの効果範囲と威力を設定できるようになるので、この光る玉を出すのは習得する魔法に慣れる間だけとなる。
初志の玉に頼る必要がなくなれば呪文が早く完成することになり、その魔法を習得したと言える――。
予言書の記述を思い出すカイリの手のひらの上で、初志の玉が白く光ったまま大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
その様子を見て、余裕があるように見えたカイリが魔法の設定に手間取っていることをマティは知った。
初めての魔法なのだから無理もないのだが、完璧な詠唱を聞いた後だけに意外な印象を受ける。
真剣な表情のカイリ。
だんだんと慣れてきたようで、光る玉の大きさが元の倍くらいになったところで落ち着いてきた。
(玉の直径をデフォルトの四センチから八センチ程度に変更して固定。これで効果範囲が二十メートルくらいになったはずだけど、この設定はだいたいでいい。問題は色だな。この魔法は威力設定で実用上の効果が変わるから……)
威力設定を下げると光が白から黄色を経て赤色に変わった。
逆に上げると白から緑色、青色と変わる。
(青色までしか変わらないか……汎数2だから当たり前だな。逆に安心して使えるわけだけど)
カイリは思い描いた通りの玉の大きさと色を完成させた。
直径は八センチ程度、色は青である。
(うん、おおまかな設定をするだけなら、そんなに難しくはないな)
――転配
カイリの発声とともに初志の玉が消える。
――役名
「〈散暗光〉」
その瞬間、カイリの足元で白く光る波紋が広がり、無数の光点が瞬いた。
この光る魔法陣の出現が、術者の役名がこの世界に受け付けられた証である。
直後、カイリとマティの周囲から目に見えない何かが拡散した。
それは壁も天井も床も無視するように突き抜けて広がっていく。
同時に、屋敷を構成する軽い元素は暗く、重い元素は明るく照らし出され、その結果まるでレントゲン写真のような世界が目の前に展開していた。
「すごいな。これが汎数2解析系魔法〈散暗光〉の“透過モード”か」
星空を眺めるように周囲を見渡し、自分が完成させた魔法の効果に感心するカイリ。
そばに浮くマティが〈散暗光〉で浮かび上がった白いスジのように見えるものを目で追っていた。
「木の精の触覚器がもう屋敷中に張り巡らされて……!」
マティの悲鳴のような叫びと同時に、壁がミシミシと音を立てはじめた。
屋敷全体が震えている。
「そんな……この屋敷は私とマスターの思い出がたくさん詰まった……」
「そんなこと言ってる場合か」
できるだけ乱暴にならないように気を遣いながら、カイリはフェアリ族の小さな身体をつかんで勝手口から外へ飛び出した。
強く握れば簡単に潰れてしまうのではないかと思えるほどのマティの柔らかさに一瞬ドキリとする。
そしてポーチの段差でバランスを崩し、地面に転がってしまった。
その拍子にカイリの手から放り出されるマティ。
「くそ、痛ぇなぁ……」
ヒジとヒザから血がにじんでいた。
急いでマティを目で探すと、揺れる屋敷を空中で見つめる妖精の姿があった。
二階建ての屋敷がバキバキと音を立てて動いている。
危険を感じてカイリはさらに後ろに下がった。
よく見ると屋敷の屋根がところどころ突き破られ、十本以上の木の枝が踊っている。
そして……。
「あれは……予言書?」
複雑な動きを見せる木の枝が、数冊の本を持ち出そうとしているのが見えた。