File109. 六曜陣
霧のような小雨が舞う大地。
レイウルフはかがみ、いつもは背にしている愛用の長弓に異常がないことを確かめている。
そばに立つ巫女装束の少女は、どう声をかけていいのかわからず戸惑っているようだった。
「父上、わたくしは……」
ようやく声を発した少女の長い黒髪に、小さな雨粒が光る。
「何も言わないでください、ゲンブ」
弓を見つめたままレイウルフがつぶやいた。
その端正な横顔が雨で濡れている。
ゲンブは雪に埋もれた街をふたりで歩いたときのことを思い出していた。
――父上に指摘されるまで、わたくしは自分の中に別の感情があることを自覚していませんでした。
彼女自身はこの決闘を望んでなどいない。
不安はあるものの、カイリについていくことに異論はない。
そのことを彼女の主人もわかっているはずだった。
未使用の矢を選んで矢筒に戻し、レイウルフは戦いの準備を終えた。
そして唐突に口を開く。
「ゲンブ、これまで私が君に出した命令はひとつだけでしたね」
「はい、父上」
――エステル様のご命令には従いなさい。
レイウルフが口にした命令らしい命令はそれだけだ。
「これは、ふたつめの命令です」
「はい」
「今は黙って見ていなさい」
準備のためにカイリが指定した時間がそろそろ終わろうとしている。
立ち上がったレイウルフは、最後までゲンブと目を合わせなかった。
***
多重独立防護層・第五層の一部が見えるクレーターから少し離れた平らな場所に、家の精のレインが立っている。
その視界の中で、カイリとレイウルフが二十歩分の距離をとって向かい合っていた。
「……ふむ。多重独立防護層の外では厳しいかと思ったが、届いたか」
レインの手に、白い光とともに板状の小さな何かが現れた。
何もない空中から物を取り出すそれは、一見、異空間を利用する収納魔法であるかのように見える。
事実、この世界の人間は、それを家の精特有の収納魔法として認識している。
だが実際には収納ではなく、移動魔法と呼ぶべきものだ。
なぜなら収納するための異空間のようなものは存在せず、別の場所から物体を取り寄せているにすぎないのだから。
ただし移動魔法の〈離位置〉や〈品浮〉のように術者自身が移動する必要はない。
さらに〈離位置〉のように出現座標候補があらかじめ決められているわけではなく、〈品浮〉のように半透明化した物体を誘導する必要もない。
おまけに、呪文を詠唱する必要もないのである。
そもそもこれは魔法ではなく木の精や土の精の触覚器と同じ家の精特有の能力だ。
ナノマシンシステム上では魔法システムではなく精霊システムに分類されるため、呪文詠唱を必要としない。
フェスやダブドが触覚器を使用する際にいちいち呪文を詠唱しないのと同じことである。
触覚器より地味ではあるものの、ここまで使い勝手の良い能力を実現できているのは、家の精が屋内サービスに特化された精霊だからこそである。
つまり、彼らだからこそ許容できる制約がある。
それは、この能力を発揮できる場所がその家の精と契約した主人の敷地内だけということだ。
これは、取り出せる物体が主人の敷地内にあるものだけという意味でもある。
そのため残念ながら、旅人や商人が大量の荷物を運ぶという使い方はできない。
もっとも、長距離輸送が目的なら、一瞬で移動できる〈離位置〉の方が便利だろう。
〈品浮〉と同様に物体の再構成には元の原子群がそのまま使われているが、半透明化した物体を使っての移動経路や移動先の指定を必要としない理由は、移動範囲が制限されており、移動先が家の精の手元と決められているからだった。
ピピピ、ピピピ、ピピピ……
レインが手にする白いものから大きな電子音が鳴り響いた。
それはレインが多重独立防護層・第五層から取り寄せた“キッチンタイマー”である。
「……この音を決闘開始の合図とする。俺が“用意”と声をかけたら五秒後にこの音が鳴るから、そのつもりでいろ」
対峙するカイリとレイウルフにそう説明するレイン。
その背後ではリュシアスとマティ、そして四人の竜たちがふたりを見守っていた。
まるで西部劇のガンマンによる決闘のように向かい合うカイリとレイウルフ。
レイウルフは左手で弓を構え、矢筒に納められた矢に右手を添えている。
はじめから弓に矢をつがえていない理由が彼の流儀なのか、あるいは自信の表れなのか、カイリにはわからない。
対するカイリはまるでレスリングでも始めるかのように、両腕を身体の前に出して構えていた。
この世界の魔法は呪文を詠唱するだけで発動する。
魔法陣を描いたり杖を振ったりする必要はないのだから、魔術師はただ超然と立っていればいいはずである。
その構えの意味が、レイウルフにはわからなかった。
彼らにわかっていることは、ひとつだけ。
レインが手にする古の遺物から音が聞こえれば、それが決闘開始の合図である。
決着は一瞬でつくだろうとレインは考えていた。
おそらくカイリの事前詠唱魔法で。
決闘というスタイルをとったのは、カイリが力づくで竜を連れていくことを正当化しているにすぎない。
少なくともレインはそう思っていた。
「……よし、始めるぞ。用意――」
タイマーに表示された数字のカウントダウンが始まる。
5
4
3
2
1
ピ……
電子音が聞こえたその瞬間、地上は眩い光に包まれ雷鳴が轟いた。
カイリが事前詠唱で設定していた〈一気通貫・度等2〉が発動し、レイウルフを貫いたのだ。
だが――。
「がっ」
奇妙な声を上げ、身体を丸めて地面にヒザをついたのはカイリだった。
その右腕に一本の矢。
左腕に二本、腹部に三本。
レイウルフの弓から、文字通り目にもとまらぬ速さで放たれた合計六本の矢が、すべてカイリの身体に命中していた。
それを見たリュシアスが感嘆の声を上げる。
「おおっ。あれはエルフ族の弓術・七奥義のひとつに違いあるまい。七奥義はそれぞれ歴史に名を残す別々の天才が残したものと聞く。それを“双角”に続き、ふたつ目の奥義までモノにしていたとは……」
エルフ族・弓術七奥義のひとつ――“六曜陣”。
三本の矢を二回に分けて放つ技だが、その速度が人間離れしている。
実際に、先に相手に攻撃が届いたのはレイウルフの方だった。
速射に特化した技であり、魔術師が事前詠唱魔法を発動しようと考えたときには六本の矢が致命傷を負わせている――そんな神速の技だ。
運良く致命傷を免れたとしても、相手は何をされたのかわからないのが普通である。
三本の矢を同時に放つ、しかも二連射で――などということに、普通は考えが及ばない。
はじめから弓に矢をつがえていなかった理由がそこにある。
もっともカイリが事前詠唱で多用する防御魔法の発動条件――“身体が傷つくこと”――があれば、それさえ防ぐことができるはずだった。
だが今回カイリが設定していたのは別の魔法だ。
すなわち、〈一気通貫・度等2〉である。
「なっ……」
〈一気通貫〉の直撃を受けたはずのレイウルフが声を上げた。
無傷の彼を〈障遮鱗〉による六角形の盾が守っている。
それは神となったサナトゥリアに出会う前に、カイリが全員にかけた役満だった。
「どういうことです……」
地面に崩れ落ちたカイリの両腕と腹から真っ赤な血が染みだしている。
本来、“六曜陣”は頭部を含めた上半身を狙う技だ。
カイリは電子音が聞こえる前から両腕で頭から胸を覆っていた。
それはレイウルフの狙いを読んでいたわけではなく、単純に頭と呼吸器官を守るためだったのだが、おかげで無防備だった胃から下の内臓は三本の矢でズタズタだ。
「不思議だ……痛みを感じない……」
レイウルフが弓を下ろしたのを見て、カイリは仰向けに倒れた。
鈍痛はあるような気がするものの、身体に矢が突き刺さっている感覚がない。
それは防御魔法が発動しているというわけではなく、かつて経験したことがないほどの大ダメージを受けたことによるショックで、一時的に“解離”という精神症状を引き起こしているせいだった。
そのため、自分の身体に矢が刺さっていることに現実感を持てないでいる。
自分の手で腹に刺さった矢を一本抜くと、ローブにあいた穴から大量の血が噴き出した。
かまわずカイリは腹部に刺さった残り二本の矢も抜いた。
地面にできた血だまりの表面に小雨が小さな輪をいくつも作っている。
バシャリ
いくつもある小さな輪が大きな輪に飲みこまれた。
血だまりを踏んだレイウルフが、カイリのそばに立っていた。
「カイリ……」
レイウルフの呼びかけには答えず、カイリは呪文の詠唱を始めた。
一瞬警戒するレイウルフだが、それが回復魔法の呪文だと気づくと落ち着いて周囲を確認する。
「来ないでください。まだ決着はついていません」
今にも駆け寄ろうとするスザクやゲンブを、レイウルフが睨みつける。
これまで見たことがない主人の厳しい表情に、ゲンブが息をのんだ。
再びカイリを見おろしたレイウルフの声は低い。
「……どういうつもりですか?」
カイリの防御魔法が本人にだけ発動しなかった理由が、ミスであるはずがない。
カイリが〈障遮鱗〉の魔法を全員にかけていたことをレイウルフは覚えていた。
そのため、一撃目は互いに無傷で終わり、〈障遮鱗〉の効果時間が切れた直後の二撃目が本当の勝負であり、自分にとっての勝機だと思っていた。
そのとき、カイリの事前詠唱された攻撃魔法の発動よりも速く“六曜陣”を撃ち込むつもりだった。
もちろん事前詠唱の有効期間が長いことで知られる〈衣蔽甲〉は残っており、それが二撃目の“六曜陣”に対して発動することは覚悟していた。
それでも、それがただの〈衣蔽甲〉であれば撃ち抜ける自信がレイウルフにはあった。
ある程度の弓の熟練者が長弓でドワーフ製の矢を使えば、それほど難しいことではないのだ。
だがカイリには度等がある。
度等が乗った〈衣蔽甲〉を貫けるかどうかはレイウルフにはわからなかった。
貫けなければ死ぬのは自分であり、カイリにゲンブを渡すことになる。
それはエステルを含む自分たちの願い――世界を救うために必要なことだ。
だが、貫ければ死ぬのはカイリだろう。
世界は滅びることになるが、それは今のレイウルフにとって――。
だが、そういう展開にはならなかった。
奇策に備えた一撃目の“六曜陣”が、想定外にすべてカイリに突き刺さったからだ。
額に玉の汗をいくつも浮かべたまま、カイリがにやりと笑った。
「今なら簡単にとどめをさせるよ、レイウルフ」
場は未だピリピリとした緊迫感に包まれている。
「……まさか、私ならあなたを殺さないと、そう思っていますか?」
その問いかけに、少し考えてからカイリが答えた。
「どうだろう……どっちでもいいんだ」
「…………」
レイウルフにはその気持ちが理解できた。
選べないのだ。
自分の大切なものと世界の存続を天秤にかけたとき、その天秤はどちらにも傾かず、自分で傾ける決心をするには時間が足りない。
だからレイウルフは、 “六曜陣”がカイリの〈衣蔽甲〉を貫けるかどうかに運命を委ねた。
カイリも同じだ。
自分では選ぶことができず、仲間の判断に任せる。
そのための決闘だった。
汎数2の回復魔法〈産触導潤〉が、カイリの出血を止めて傷口を塞ごうとしている。
それに目をやりながら、レイウルフが静かに言った。
「……知っていますか? ゲンブはよく泣くんですよ……私のために」
カイリは黙ったままだ。
「この右手から五本の指が離れて落ちたとき、あの子は黒く変色した私の指をかき集めて、地面にうずくまったまま泣いてくれました……まるで自分のことのように」
自嘲の笑みを浮かべるレイウルフ。
「だというのに私はその時、弓使いとして役立たずになってしまった自分が、エステル様にどう思われるか……そんなことしか考えていませんでした」
カイリをしっかりと見つめる。
「ですが今は違います。ゲンブを本当の娘のように大切に思っているのです。カイリは――」
金髪金目の男が、言いにくそうにその言葉を口にした。
「カイリは、あの子の気持ちに気づいているのでしょう? だからリュシアスより先に私を指名した」
「それは……」
一時的な解離症状から回復したカイリは、〈産触導潤〉の魔法でずいぶん和らいだ痛みを今さらながらに感じ、顔を歪めた。
「そうかもしれないと……思ったことはある。でも確信していたわけじゃなくて、ビャッコよりはゲンブの方がついて来てくれる気がしただ――グッ」
レイウルフが容赦なく、〈産触導潤〉で治りかけたカイリの腹を踏んでいた。
塞がりかけていた傷口が再び開き、血が流れる。
カイリの顔が激痛に歪む。
「――――ッ! ――――!」
「そうです。あの子はあなたに恋心を抱いています。それが竜にとって何を意味するのか、そのせいであの子がどれほど苦しんでいるのか、あなたは少しもわかっていない」
――わたくしは竜として、失格です。“欠陥品”ですわ。
雪の街でその言葉を口にしたときのゲンブの顔を、レイウルフは今でも鮮明に思い出せた。