File108. 決闘
サナトゥリアが薄れて消えた空を見つめ、カイリは呆然としていた。
湿った風が流れ、厚い雲が近づいている。
その肩を背後から叩かれ、ビクリと震えた。
「ああ、すみません。驚かせてしまいましたか」
「いや、大丈夫」
レイウルフに普通に答えたつもりのカイリだが、少しばかり声が上ずった。
その理由については、自分がよくわかっている。
「一度宿舎に戻りましょう。私は神殿へ行き、四体の竜が揃ったことをエステル様に報告しようと思います」
「うむ、世界の滅びまでまだ十一か月もあるのだ。一度休んだほうがよいだろう。俺は故郷に帰って北の街の鉄鉱脈の話をしたいしな」
レイウルフもリュシアスも普通であり、むしろ浮かれているようにさえ見える。
四体の竜が揃いさえすれば世界を救えると、勘違いしているのだろうとカイリは思った。
考えがまとまらないまま周囲に視線を走らせる。
スザクとゲンブは、なぜかそっぽを向いている。
ビャッコはいつものように澄ました顔で姿勢よく立っているだけだ。
セイリュウは――。
カイリと目を合わせたチャイナドレスの女は、すべてを見透かすような眼差しで微笑んだ。
「……初めてだったのですか?」
途端に顔に熱を感じるカイリ。
穴があったら入りたいとはこういうことなのだと理解した。
悪いことをしたわけでもないのに、いたたまれない。
そして、どうしても視線を向けられない相手がいた。
いつもと変わらない様子だろうとは思うのだが、それはそれで寂しくもある。
かといって呆れられたり、セイリュウのように暖かい目で見られたりするのもつらい。
彼女の様々な表情を想像してみるが、どれも目にするのが恐いと感じるばかりだった。
(くそ。今はそれどころじゃない)
カイリは頭を振り、気持ちを切り替えるために大きく息を吐いた。
その様子を不思議に思い、顔を見合わせるレイウルフとリュシアス。
次に彼らが聞いたのは、いつもより低いカイリの声だった。
「いや、宿舎に戻っている場合じゃない。世界を救うために、少しでも早く済ませないといけないことがある」
二人の仲間がにやりと笑う。
「何でしょう? もちろん、つき合いますよ、カイリ」
「なんでも言ってみろ。腹を焼かれるよりはマシな話なのだろう?」
カイリがこの世界に召喚されて三十一日目。
セイリュウを手に入れる旅のパーティを結成してからは十四日目だ。
この二週間の旅の最中には様々なことがあった。
彼らは間違いなくカイリの仲間であり、協力的だ。
その仲間たちにこれから話すことを考えると、カイリは気が重かった。
「今から俺が言うことに全員が納得してくれれば、それで話は終わる。けど――」
「どうしました? じれったいですね」
レイウルフが呆れたように笑う。
リュシアスは少々ムッとした様子だ。
「早く言うのだ。グズグズするのは、好きではない」
「ああ、言うよ」
それでもカイリは言いにくそうだった。
少し離れて立っている四人の竜たちをもう一度見てから、ようやくノドから言葉を絞り出す。
「……スザクは問題ないと思う。セイリュウも時間をかければ大丈夫だ。けど、ゲンブと……特にビャッコは、簡単にはいかないだろう」
「……何の話です?」
レイウルフの顔に警戒の色が浮かぶ。
リュシアスは黙ったままだ。
意を決したカイリが、その言葉を口にした。
「世界を救うために……四人の竜を俺のものにする必要がある」
リュシアスがその意味を考えている間に、カイリの言葉が続いた。
「火水風土――四属性すべての竜が一人の人間に完全に“同調”することで、竜が持つ真の力が引き出される。それが世界を救う鍵だ」
カイリ以外の誰も言葉を発しなかった。
「彼女たちの正式な主人が俺なら話は簡単だった。だけどスザクたち三人は箱の機能を使わずに生まれた“自由な竜”だ。システム上は主人不在という状態になっていて、それは主人の引き継ぎがなかったセイリュウも同じだろう」
竜は六精霊と同じ精霊系の存在だが、六精霊のように公共サービスとして生まれたわけではない。
そのため主人が死ぬなどの理由で契約が突然解除されても、個人情報――前の主人の記憶が完全に抹消されるということはない。
その代わり、六精霊のように次の主人と簡単に契約できるというわけでもないのだ。
兵器として開発された竜は、本来、箱を使った契約により最初の主人を定める。
その際に、何らかの事情で主人がその役割を継続できなくなった場合に備え、優先順位を決めた複数の後継者を事前に指定する機能も箱にはあった。
その後継者を主人の命令で後から変更することも、その場で別の主人に引き継ぐことも可能だ。
だがそれ以外に主人を定める方法はない。
竜という強力な兵器を、万が一にも敵国に奪われないためだ。
今の竜たちは四人ともシステム上の主人が不在の“自由な竜”であり、箱の正常な機能が失われた現状では、他に“契約した竜”になる手段は存在しないのだった。
「システムに登録された正式な主人とでなければシンクロできない――というわけじゃない。“自由な竜”であっても、竜には主人を求める性質があるし、竜が自分で認めた主人となら比較的簡単にシンクロできるはずだ」
険しい顔のレイウルフとリュシアス。
カイリは言った。
四人の竜を俺のものにする必要がある――と。
「“自由な竜”とのシンクロを実現するには、時間をかける必要がある。そのために人里を離れ、俺と四人の竜だけでしばらく暮らすつもりだ。それが数日で済むのか、一年近くかかるのかは……わからない」
リュシアスの銀の眉がぴくりと動いた。
カイリ以外の誰も言葉を発しないが、それは言うべき言葉が見つからないからだ。
「シンクロするべき相手が俺だと、彼女たちの心と身体が納得できればシンクロできるはずだ。けど今の状態は、まるでかけ離れている。スザクは問題ない。セイリュウは時間が解決してくれるだろう。でも、ゲンブはレイウルフを慕っているし、ビャッコはリュシアスを伴侶とさえ感じているように見える。つまり――」
「待って」
叫んだのはマティだった。
小さな身体を宙に浮かせたまま、泣きそうな顔で訴える。
「シンクロする相手は男じゃなくてもいいんでしょう? 私がなります。私で不足ならエステルに頼みましょう。互いに認め合ったエステルなら、カイリだって納得――」
「ダメなんだ」
確かに、ゲンブやビャッコを連れ去るのが男のカイリではなくマティやエステルなら、皆も許容できるかもしれない。
だが――。
「竜がシンクロする相手として、この時代の人間は身体が変わりすぎている。古の人類と外見が似ているヒューマン族でもダメだろう。古の遺物を操作できないのがその証拠だ」
この世界の人間は、古の遺物を操作できないという話をカイリは聞いていた。
操作に必要な認証――個人をユーザ登録するための全身静脈パターンのスキャン段階で、“人間”として認識されないのだ。
「待ってください。そういうことでしたら……あまり気が進みませんが、古の遺物を扱うハイエルフ族の女性であれば……もちろん、誰でもいいというわけではありませんが」
「……ダメだな」
レイウルフの言葉を否定した声は、カイリの足元から聞こえた。
「……ハイエルフ族が古の遺物を操作できるのはシステムのバグによるものであって、人間として認識されるからではない」
そこに出現したのは金髪で小人の青年――六精霊の一種、家の精だった。
エルローズの家の精が彫りの深いハンサムであるのに対し、その家の精には女性的な美しさがあった。
「……失礼した。俺の名はレイン。二十一代目が初めてのキスに浮かれているのかと心配したが、どうやらなすべきことを認識していたようで安心した」
その場が警戒の空気に包まれる。
通常、精霊は人に害をなすことはないが、誰かに使役された戦闘精霊ならその限りではない。
友好的には見えないが、敵対しているようにも見えない家の精に、顔を赤くしたカイリが質問した。
「君は?」
「……サナ――サナトゥリアの使いの者とでも言っておこう。悪いが世界を救うその日まで、おまえから離れないつもりだ、二十一代目」
警戒するカイリだが、ヒューマンの王に感じたような危険な匂いはしない。
そして本当にサナトゥリアの使いであれば、信用できるように思えた。
「……そんなことより、さっさと竜どもを連れて行くぞ。時間がもったいないだろう?」
「黙っていろ、家の精。俺たちは今、大事な話をしているのだ」
リュシアスが殺気を放っていた。
それがレインに向けられたものではないことを、カイリは感じとっていた。
レイウルフもまた、いつもの親しみやすさを消している。
「カイリ。うまく言葉をごまかしているようですが、ヒューマンの王がセイリュウにしていたように、ゲンブの身も心も支配すると……私にはそう聞こえましたが?」
リュシアスが短く言った。
「続きを話せ」
ズキズキと胸に痛みを感じながら、あらかじめ考えていた言葉を口にするカイリ。
「ここにいる皆が、世界を救うためにここまで来た。でも、それで納得できる問題じゃないことはわかっている。だから――」
カイリは以前から想像していた。
あの王が、世界を救うためにスザクを差し出せと言ってきたとしたら……それが本当のことだとしても……差し出すだろうか――と。
スザクが卵から孵って二十五日。
甘えるだけの幼かったスザクは美しく成長し、落ち込むカイリを慰めてくれることさえあった。
(俺だって……、スザクを渡せるはずがない)
少しの間をおいて、俯いた顔を上げる。
「レイウルフ、君に決闘を申し込む。次はリュシアスだ。ふたりに勝てたら、最後は……マティだ」
「私?」
意表を突かれたマティが驚いた。
「そうだ」
そう返事をするカイリの胸元を、リュシアスが乱暴につかみ自分の目の高さに引き寄せた。
「……よいのだな? 殺すぞ。シンクロとか言って、おまえがビャッコに何をするつもりかは知らぬ。だが、俺からあいつを奪おうとする奴に容赦はせぬ。たとえ世界が滅びることになっても、だ」
目をそらさないようにするだけで、勇気を根こそぎ奪われる。
仲間から疑念と憎しみの視線を向けられる心の痛みに、カイリは耐えていた。
「わかってる。俺は勝って、四人の竜を連れていく」
「待ってください。ご指名は私が先です」
そう言うレイウルフの瞳に、いつもの優しい光はない。
「エステル様に一度は勝ったあなたに、私が勝てるわけがないと思っていますか? 言っておきますが、私はエステル様より――いえ、それを口にするのはエステル様に失礼ですね。やってみればわかります」
それがハッタリではないことを、その場の全員が感じ取っていた。
こぶしを握りしめるカイリ。
決めたことだと自分に言い聞かせる。
「これはあくまで決闘だ。最初に二十歩分の距離をとって向かい合い、立ち合い者の合図で開始する。その後は何でもあり……これでいいか?」
「いいでしょう」
「よいだろう」
ようやくリュシアスがカイリから手を離した。
すぐにレインが感情のない声で告げる。
「……面倒な手続きを踏むんだな。結果は見えているし、非効率だがいいだろう。立会人は俺が引き受けよう。と言っても、何でもありの決闘だ。開始の合図はするが、決着は当人同士で判断してくれ。……生きていればな」
マティの頬に水滴が当たった。
雨だ。
空は流れる暗い雲に覆われ、さらに黒い雲が近づいているのが見えた。
周囲が徐々に暗くなっていく。
「どうして……こんな決闘が必要なの?」
マティの小さなつぶやきが、強さを増す風にかき消された。